心の治癒と魂の覚醒

        

人は何によって救われるのか

 先日の子どもの日、NHKで「戦争孤児」について紹介されていました。
 ご存じのように、戦争孤児とは第二次大戦で親を失い路頭に迷った子どものことです。いわば子どものホームレスで、その数は12万人にも達したと言われています。子どもたちは駅や道端などで物乞いをしたり、ときには食べ物を盗んだりして生きていました。「盗みを働いた」わけですが、そうしなければ生きることができなかったのです。いったい誰がそのことを責められるでしょうか? 実際、相当な数の子どもが餓えや病気で死んでいます。悪いのは戦争をした大人たちです。子どもは被害者です。
 子どもたちの多くは疥癬という皮膚病にかかっていました。これは一種のダニが皮膚に寄生して生じるもので、猛烈な痒みとひどい皮膚の炎症に苦しみます。当然、人に伝染します。
 そのため、世間の人たちは、そうした戦争孤児に近寄ろうとしませんでした。「不潔、怖い」と嫌悪されていたのです。
 番組は、そんな戦争孤児のひとりAさんに取材しています。
 Aさんは空襲により落とされた爆弾で死んだ母親のことを語りました。顔の半分がなかったそうです。それを目の当たりに見て呆然となります。「人間は本当に悲しいときは涙も出ない」と言っています。
 そうして戦争孤児となったAさんは、餓えや疥癬で苦しみながら路上生活を送ります。ひとりの友達がいたのですが、その友達はあまりの過酷な生活に自殺してしまいました。優しい性格だったと言います。
 スピリチュアルの教えでは、「自殺した魂は罰を受けてあの世で苦しむ」などと言っていますが、果たして自殺したこの友達も、罰を受けて地獄で苦しむことになったのでしょうか? そうは思えません。そんな教えは、浅はかな「脅し」としか思えません。確かな根拠のない脅しをして自分の教えを押しつけるこうした行為を、私はスピリチュアル・ハラスメント(略してスピハラ)と呼んでいます。「自分の宗教を信じなければ罰を受ける、地獄へ堕ちる」などと言っている宗教信者などは、すべてスピハラです。
 Aさんは、親戚を頼って助けを求めました。そして親戚の家で生活をすることになったのですが、そこであからさまな虐待や冷たい仕打ちを受けました。耐えられなくなったAさんは家を飛び出し、再び路上生活を送るようになります。
 そしてついには、(おそらく悲しみや苦しみなどのストレスにより)、緑内障を患ってほとんど目が見えなくなってしまいます。過酷な路上生活と孤独、そして盲目、いったいどうすればいいのでしょうか。子どもがこれほどの苦しみを受けなければならない意味や道理など、どこにあるのでしょうか?
 Aさんは世の中を呪い、「社会にタテつく人間になってやる」と思ったそうです。つまり、悪い人間になって自分をこんな辛い目に遭わせた世の中に復讐してやると思ったのです。
 その後、Aさんは戦争孤児を保護する施設に入ることになりました。
 入所したとき、施設のひとりの先生が銭湯に連れていってくれたそうです。そして、共に裸になって、誰も気味悪がって触ろうとも、近づこうともしなかった皮膚病に侵された自分のからだを、この先生は丁寧に洗ってくれたと言います。
 そのことに感激したAさんは、まっとうな人間になることを誓い、その先生の薦めでマッサージ師となり、独立することができました。
 番組の最後にAさんはこう語っています。
「食べ物も着るものも欲しかった。でも、一番欲しかったのは(人の)ぬくもりでした」
 Aさんは、自分のからだを洗ってくれた優しい先生のぬくもりによって救われたのです。

 この番組を見て、私は考えました。結局、人を救うものは何なのかと。
 すばらしい説教でしょうか? 道徳、倫理、宗教などの高邁な教えでしょうか?
 確かに、そうしたもので救われる人もいるでしょう。
 しかし、ぎりぎりの状況で生きている人にとって、本当に救いとなるのは、Aさんが言うように「人のぬくもり」ではないのかと思います。高邁な教えではないのです。ましてや「悪いことをしたら罰を受けて地獄へ堕ちる」などといった脅しではありません。
 崇高な宗教の教えに通じ、幅広い知識を持ち、立派な説教をするが、その人柄にぬくもりを感じられない人がいます。おそらく、そのような人が悲惨な苦しみにある人を救うことはできないと思います。
 一方、宗教や学問といったこととは、およそ縁のない無学な母親などが、子どもを癒し、立派な人間へと成長させるといった例はたくさんあります。
 「ぬくもり」の源泉は、間違いなく愛でしょう。
 愛に関する知識を積めば、愛ある人間になれるとは限りません。それどころか、かえってエゴが増長し、愛が欠乏してしまう場合もあるように思います。
 愛についての立派な教説を語ることができても、愛がなければ、効能書きは立派だが薬効を持たない薬のようなものです。「自分は愛の宗教の信者である」と表明しても、愛がなければ、単なる「愛の宗教ごっこ」をして遊んでいるにすぎません。

 私は今回の番組を見て、果たして自分にはそうした「ぬくもり」があるかどうか、自省してみました。しかし、自分ではなかなか自分のことはわからないものです。
 しかし、これだけは気を付けようと思いました。それは「私にはぬくもり(愛)がある」という思い込みです。
 おそらく、本当に愛がある人は、「自分には愛がある」などとは思わないと思います。また、「愛がない」とも思わないと思います。
 本当に愛がある人は、そのようなことは思わず、きわめて自然体で、無意識のうちに、淡々と愛の行いをしているのだと思うのです。
 私は、愛に関する本をいろいろ読んできたので、知識だけはそこそこあります。また、おそらく愛に関する立派な説教をしようと思えばできると思います。
 しかし、そんなものはどうだっていいのです。せいぜい、ある種の「娯楽」的な意味を持つだけです。それは人を酔わせ、楽しくさせますが、愛は娯楽ではありません。
 たとえひとことも語らず、ただ存在しているというだけで、そこからぬくもりが、すなわち、愛が放たれるようでなければ、本物ではないのです。
 私は、そのような人になりたいと思いました。

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