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心の治癒と魂の覚醒

        

菩薩の道


 前回の記事で述べた、エゴと「凡夫として生きること」について、補足したいと思います。
 このブログを読んでくださる皆様には言う必要はないと思いますが、「凡夫として生きる」といっても、低劣な欲望をまるだしにし、怠惰でだらしなく、自分勝手で、みみっちい生き方をする、という意味ではありません。むしろ、その逆で、高潔な生き方をすることです。

 私たちはエゴに支配されているのに、そのことに気づいていません。これでは永遠にエゴが作り出す夢(妄想)に埋没したままで、そこから覚めることはできません。「自分はエゴに支配されているのだ」、つまり「凡夫なのだ」と自覚することによって、エゴの妄想から覚める道が開かれます。
 たとえば、怪物に襲われるという怖ろしい夢を見ていたとき、自分は夢を見ているのだと気づけば、怖ろしいとは思わなくなるでしょう。「ああ、単なる夢にすぎない」と思うでしょう。夢にとらわれなくなるでしょう。

 したがって、自分はエゴの作り出している夢を見ているのだという自覚が必要なのです。エゴの夢を見ている人は「凡夫」です。だから、凡夫としての自覚を持って生きるわけです。
 しかし皮肉なことに、その自覚を持てばエゴの夢が消滅します。だから、凡夫であるという自覚を持っている人は「非凡」になるのです。
 自分が凡夫であることを本当に自覚したならば、あらゆる心理的束縛から解放されます。たとえば、嫉妬や怒りから解放されます。嫉妬や怒りというのは「自分の方がすぐれていなければイヤだ」といったエゴの欲望から来ているからです。
 しかし、心の底から自分はエゴの凡夫なのだと自覚していれば、そんな欲望は起こりません。たとえば、自分は本当に馬鹿だと自覚していれば、自分より頭がいい人がいるのは当然だから嫉妬は起きないでしょう。また、人から「馬鹿だ」と言われても、その通りなのだから腹は立ちません。嫉妬や怒りの感情が湧き立つのは、どこかに「自分は人よりすぐれていたい、すぐれているべきだ」という、ある種の傲慢さがあるからです。
 嫉妬や怒りから解放されたなら、心は自由で、すがすがしくなります。そんな人は真に非凡ではないでしょうか。
 嫉妬や怒りがある限り、そこに愛はありません。嫉妬や怒りの感情から解放された人こそが、本当の「愛の人」になるわけです。だから、「凡夫」こそが「愛の人」なのです。「愛の人」という、高潔で非凡な人になるわけです。

 法華経に常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)という菩薩(人を救うことを修行としている修行者)が登場します。この菩薩は「あなたは仏(覚者)になれる身であるから、私はあなたを尊敬します。決して軽んじたりしません」と、会う人会う人に語ったといいます。人々はうざくなり追い払いますが、するとこの菩薩は遠くから同じことを叫んだといいます。
 良寛は、この菩薩を心から敬愛し、「比丘は唯万事はいらず常不軽菩薩の行ぞ殊勝なり(常不軽菩薩の行こそが最高のものであり、仏道修行者はただこれだけを行っていればよく、他には何もいらない)」とまで言っています。
 愛の人は、上から目線でものを言ったりしません。「自分は悟ったから偉い、おまえたちは悟っていないかわいそうな人たちだ。だから、慈悲の心で教えを説いてやるよ」などという思いはないでしょう(というより、そのような思いがある人は悟っていないと思いますが)。
 愛の人は謙虚で、万人を尊敬するのです。尊敬とは、自分より偉い人を称える気持ちです。「自分の方が上だ」という思いがあれば尊敬の心など湧きません。つまり、万人を無条件で尊敬できるというのは、そこにはエゴがないことを意味します。仏教の目的はエゴを消滅することですから、万人を尊敬することが、最高の修行ということになるわけです。良寛はそこを言っているわけです。

 「凡夫」こそが、万人を尊敬し、万人を謙虚に愛することができるのです。
 しかし、それは何と難しいことでしょうか。
 つまり、「凡夫」になることは、簡単なことではないということです。
 ほとんどの人は、本当に自分は凡夫だと思っていません。思いたがりません。非凡になろうとします。人を尊敬するどころか、人から尊敬されようとします。
 だから、実は「凡夫」になろうとすることさえも、絶望的だということです。
 「凡夫」になろうとすることさえも、エゴなのです。
 私たちは、「凡夫」にはなれません。
 「凡夫にはなれない」と心の底から自覚したとき、「凡夫」になります。

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自然法爾


 エゴを消滅させる「方法」がないとすれば、いったいどうすればいいのでしょうか?
 それについてはすでに述べたように、自分のエゴに気づいてさえいればいいのです。「エゴを消滅させよう」という目的も欲求もなく、ただひたすら自分のエゴに気づいていることです。するとエゴは、自然に萎縮し消滅していきます(ただし肉体を持って生きている限り、エゴを完全に消滅させることはたぶん不可能です)。
 しかし、これを続けていると、気分が落ち込んできます。なぜなら、自分の考え、思い、行動の、ありとあらゆることが、つきつめればエゴであると思い知らされるからです。

 なぜ気分が落ち込むかというと、「エゴがある人は偉くない」という思いがあるからです。表現を変えれば「エゴをなくして偉い人になって認められたい」という欲求があるからです。まさにその思いそのものがエゴなのですが、前にも書いたように、「認められたい」というのがエゴの核心であり、心臓部です。そのエゴの心臓を突き刺して息の根を止めなければ、エゴは消滅しません。
 ですから、しょせん、自分はエゴのかたまりであり、ちっとも偉くなんかないのだ、凡夫なんだと思い知らされて、とことんまで落ち込めばいいのです。そもそも「エゴをなくそう」とか「覚醒しよう、悟りを開こう」という思いそのものがエゴだからです。
 自分がちっとも偉くない、だから認められないと思うことは、エゴにとってもっとも苦痛なことです。絶望的な気持ちになります。しかし、エゴを死に追いやろうとしているわけですから、苦痛が伴うのは当然です。

 私の解釈では、浄土真宗の親鸞は、こうした自分のエゴに気づいていることを、「罪悪生死(ざいあくしょうじ)の凡夫」と表現しました。自分はどうしようもないエゴのかたまりであり、偉くもなんともない、救われがたい凡人なのだということの、徹底的な自覚です。
 このことを徹底的に自覚したら、「悟りを開こう」という願い(エゴ)はなくなるはずです。凡夫が悟りなど開けるはずがないからです。「悟りを開こう」などと思うこと自体が、高慢であり自惚れであるとも言えます。

 では、そうなったとき、人はどう生きるようになるでしょうか。
 悟りを開こうとか、仏(覚者)になろうという野望は捨てて、ただ淡々と生きるようになるでしょう。親鸞はそうした生き方を「自然法爾(じねんほうに)」と表現しました。自然法爾とは、ひとことでいうと「あるがままに生きる」ということです。エゴの凡夫なのだから、エゴの凡夫として生きる、ということです。
 ところが、この自然法爾の生き方こそが悟りへの道、というより、悟りそのものなのです。皮肉なことに、凡夫として生きることが非凡なのです。
 親鸞の教えでは、これは「悪人正機説」と呼ばれています(「善人が救われるというのなら悪人こそが救われる)。つまり、「自分は悪人だと自覚することで救われる」ということで、このブログの流れで言えば「自分はエゴのかたまりだと自覚することで救われる(覚醒する)」となるでしょうか。

 前回、紹介した臨済は、次のように言っています。
 「本来、仏もなく法もなく、修行すべきものも悟るべきものもないのだ。それなのに、ひたすらわき道の方へ行って、いったい何を求めようとするのだ。
 諸君、他ならぬ君自身が、現にいま見たり聞いたりしている働きが、そのまま仏なのだ。それを信じきれぬために、外に向かって求めまわる。勘違いしてはならぬ。外に法はなく、内にもない。しかし、このように言うわしの言葉に飛びつくよりは、まず何よりも、静かに安らいで、のほほんとしていることが一番だ。すでに起こった念慮は継続させぬこと、まだ起こらぬ念慮は起こさせぬことだ。そうできるなら、十年も行脚修行するよりずっとましである。」
 親鸞は「自然法爾」という言葉で、臨済は「のほほんと生きる」という言葉で、悟りの境地、悟りの生き方を表現しています。老子の言葉を借りれば「無為」です。

 ところが、エゴは、あるがままに生きることができません。のほほんと生きることができません。無為でいることができません。とにかくなにかになりたがります。認められるために非凡になろうとします。認められるために偉くなろうとします。覚者になりたがります。グルになりたがり、教祖になりたがります。弟子や信者を集めたがります。自分を「聖者」だと宣伝したがります。
 覚醒への道は逆説的であり、前に進もうとすると後ろへ下がり、後ろへ下がろうとすると前に進むという性質を持っています。ですから、「ならないことでなる」のです。仏になることはできません。なぜなら、私たちの本質はすでに仏だからです。ただ仏として生きるだけです。本来、仏とは「なるもの」ではないのに、仏になろうとすることは、道を誤っていることになります。

 では、結局、どうしたらいいのでしょうか?
 この「どうしたらいいのか?」と尋ねているのはエゴです。自分がエゴのかたまりであり、救われない身であると徹底的に絶望したなら、「どうしたらいいか?」とは問わないはずです。エゴはとにかく問いたがります。「どうしたら? どうしたら? どうしたら?」と。そうして自分以外の、人から認められるなにものかになろうとするのです。
 「どうしたらいいか?」と問う気持ちがやみ、なにものかになろうとする気持ちがなくなり、ただただ凡夫として生きること、それができている人が、悟りを開いた人であり、覚者です。

 しかし、エゴはそんな生き方に魅力を感じません。面白くなく、つまらないのです。それよりも、エゴを拡大させてくれるような、ワクワク・ドキドキする教えを求めて、そのようなことを説いている宗教やスピリチュアルを求め続けます。そうして「エゴ・スパイラル」に巻き込まれ、その軌道から抜け出せなくなるのです。
 だから、本当の意味で「凡人」になってしまうのです。見かけは派手に非凡に見えたりするかもしれませんが、精神的にはまったくの凡人なのです。いかにエゴを膨張させたとしても、エゴそのものが凡庸だからです。
 凡庸に生きようとしている人こそが、真の意味で非凡です。そういう人は自然法爾という生き方を通して、(あくまでも結果的に)何か非凡なことをするでしょう。それが世間に認められるかはどうかはわかりません。もしも、その非凡さを見抜ける人がいたとしたら、その人もまた非凡な人です。

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臨済の言葉


 エゴを消滅させる方法として、今日は禅の臨済宗の開祖である臨済の言葉を紹介してみたいと思います。ただ、繰り返しますが、エゴを消滅させる「方法」というのは存在しません。そのような方法を説いている宗教は、エゴが作り出した妄想です(低級なエゴを高級なエゴに変えるという意義はありますが)。
 では、臨済は何と言っているのか、さっそく紹介してみます(岩波書店『臨済録』をもとに私が現代に合う言葉に直したものです)。

 「諸君、仏を至上のものとしてはならない。わしから見れば、便壷のようなものだ。菩薩なども手かせ足かせのように人を縛るものだ。求めて得られる仏などありはしない。尊いと言われるどのような教えであろうと、対症療法で、そこには真実の法はまったく存在しない。あったとしても、それらしく見えるにすぎず、もっともらしく説いたものにすぎない。
 諸君、こういうと坊主のなかには、内面へ力を注いで、この世を超出する道を求めようとする輩がいるが、とんでもない間違いだ。もし仏を求めようとすれば、その人は仏を失い、もし道を求めようとすれば、その人は道を失い、もし導師を求めようとすれば、その人は導師を失うだけだ。」

 求めて得られる仏などないと言っています。真実の法などなく、道(修行法)や導師を求めればそれを失うと言っています。仏を「便壷」とまで言っているのです。これはかなりショッキングな言葉だと思います。
 この「仏」を「神」と言い換えることもできるでしょう。「神を最高のものとして崇めてはならない。そんなものは便壷だ。求めて得られる神など存在しない。また、尊いと言われる宗教であっても、それは真実ではなく、もっともらしく説いたものにすぎない」と、このように言っているのです。
 神も宗教も否定しているわけです。神を求めてはいけないと言っているのです。
 仏教とは、仏を崇める宗教のはずですから、その宗派の開祖が、仏を否定し宗教を否定しているのです。
 いったい、その真意はどこにあるのでしょうか?
 それは、私が今まで語ってきたことのなかにあります。仏も神もエゴが作り出した虚構の妄想であり、宗教も、エゴの産物であるということです。
 宗教がここまで人気があるのは、私たちのエゴを喜ばせるように、巧妙にできているからです。仏や神などは、いわばエゴの甘えをゆるしてくれる「優しいお母さん」といったイメージでしょうか。祈れば助けてくれるというような神は、いわば「大人のサンタクロース」です。小さな子供はサンタクロースの存在を信じているでしょうが、大人は信じていません。サンタクロースなど、誰かが都合よく考えたファンタジーであると知っています。しかし、その大人は「神」という、やはり都合よく考え出されたファンタジーを信じているのです。サンタクロースを信じている子供を笑えないのです。
 
 臨済は、そうした人々のエゴの妄想を見抜いていたのです。
 臨済はそんな宗教を「対症療法」だと言っています。まさに的確な表現です。対症療法とは、根本治療ではなく、ただ苦痛や症状を抑えるだけの療法です。宗教を信じると、とりあえずは苦痛が和らぎ幸せな感じがしてくるものです。しかし、やがてそれは私たちの自由を奪い、さまざまな問題を露呈させて、ついには苦しみの種になるのです。
 本来の宗教であれば、エゴを破壊させる教えを説くはずです。エゴとは煩悩であり、キリスト教的にいえば「罪」であり、あらゆる苦しみの根源だからです。本当の治療をしなければ人は幸せにはなれません。
 宗教は、ダイエットをしなければいけない人に対して、カロリーの高い甘いお菓子を与えるようなことをしています。エゴは、そんなお菓子をくれる宗教や指導者が大好きです。だから、そのような宗教団体だとか指導者のもとに多くの人々が群がっていきます。そうしてエゴをますます巨大化させ、いわば「エゴのメタボ」に陥らせているのです。
 一方で、宗教は人に恐怖を与えます。エゴは臆病なのでしたがってしまいます。たとえば、伝統的な宗教であれば、「長い歴史のなかでずっと支持されてきた教えを批判するのか? いったい自分を何様だと思っているのだ? 批判などしたら地獄に落ちるぞ」などと言ったり、あるいは「導師」と呼ばれる人に対して「覚者の言うことを批判するほどレベルが高いのか? 覚者はすべてお見通して間違いを言うことはない。導師の言うことを批判すると道を成就することはできないぞ」と言われたりします。そう言われると、エゴは怖くなり、不安になって「きっと自分がおかしいんだ」と、自分を納得させ服従しようとします。
 エゴは欲と恐怖に弱いのです。欲と恐怖でコントロールされてしまいます。宗教や導師と呼ばれる人は、そうして信者や弟子を欲と恐怖で支配しようとするのです。
 しかし、欲と恐怖に縛られたそんな状態で、どうして覚醒などできるでしょうか。

 真の宗教、真の教えであれば、エゴの消滅を説きます。欲でつったり、恐怖心を煽ったりするようなことはしません。
 しかし、エゴにまみれているほとんどの人々にとって、エゴを消滅させる教えなど、誰も聞きたくはないのです。エゴを自分自身だと錯覚している大部分の人にとって、エゴの否定は「自分の否定」を意味するからです(エゴのために本当の自分が否定されているというのが事実なのですが)。
 だから、真の宗教が仮にあったとしても、そうした宗教は人気がないのです。真の教えを説く人は、見向きもされないのです。
 しかし臨済は、「それでいいのだ」と言っています。

 「諸君、君たちは、導師の言葉を鵜呑みにして、本物の道だと思い、”いかにも悟りの知識の尊いところだ。われわれ凡夫の心で、こういう老大家の内実を推測することはするまい”などと言う。愚か者め! 君たちは一生こういう了見ばかりで、せっかくの自分の目を台無しにしている。まるで薄氷の上を渡る驢馬の子そっくりのビクビクもので、”とても悟りの知識の批判はできぬ。口の禍はこわいから”というわけだ。
 諸君、偉大な悟りの知識であってこそ、はじめて仏や祖師をそしり、天下の悟りの知識を批判し、仏典を排斥し、青二才どもを罵倒し、時には逆、時には順、さまざまの手段を用いて、まともな人間を求めるのだ。もし花嫁みたいにおどおどした修行者ならば、寺を追い出されて飯も食わせてもらえず、心細くて気もそぞろだろう。昔の先輩たちは、どこへ行っても人に理解されず、追い払われたものだが、そうなってこそ、その貴さがわかるのだ。もしどこででも人に受け入れられるような人物ならば、何の役に立とうぞ。」

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エゴを消滅させる方法⑤ 低級なエゴから高級なエゴへ


 前回は、宗教はエゴの産物であると言って、まるで宗教がまったくの悪者であるかのように言いました。しかし、またしても矛盾したことを言うようですが、宗教が一時的に必要な場合もあるのです(もちろん邪教と呼ばれるものは別ですが)。
 これについては以前に「建築と足場」のたとえで説明しました。つまり、家を建てるには足場を組まなければなりません。しかし、家が建ったら足場は必要ないし、むしろ邪魔になります。同じように、宗教心(愛)という家が建ったら、宗教という足場はいらないし、むしろ邪魔になるのです。

 宗教は確かにエゴの産物であり、宗教を信じている限り、エゴの束縛から抜け出すことはできません。
 ただし、エゴにも「低級なエゴ」と「高級なエゴ」があります。
 低級なエゴとは、物欲まるだしで自分の利益のためには人のことなんてどうでもいいといったものです。
 高級なエゴは、物欲を制し、自分の利益だけではなく他者の利益も考えます。ただし、それでもそこにはエゴが存在しています。
 それは「認められたい」というエゴです。
 「認められたい」というエゴは、おそらくあらゆるエゴを取り去った後に残る、最後のエゴではないかと思います。それは自己の存在そのものに関係するもっとも根本的な欲求に基づいているからです。
 インドなどに行くと、低級なエゴを捨て去り、何も所有せず裸同然で過ごしている「聖者」がいます。しかし彼らはエゴを捨てきれていません。なぜなら、インドのような精神性に重きを置く世界では、「所有しない人は偉い」という価値観があるからです。つまり、彼らは、「どうだ、見てくれ。私は何も所有していないぞ。偉いだろう!」と自慢しているのです。そうして認めてもらおうとしているわけです。物質的な世界では、認められるために金持ちになろうとしますが、精神的な世界では清貧になろうとします。手段が異なるだけで、エゴであることに変わりありません。

 認められたいというエゴのために、宗教が利用されているのです。なかには、エゴを満たすために教祖になる人もいます。実際、教祖になろうとして教祖になった人は、99%ニセモノではないかとと思います。教祖になろうと思わなかったのに、気づいたら教祖に祭り上げられていた、という人であればホンモノかもしれません。釈迦もイエスも教祖になろうとは思いませんでした。教えを説いていたらいつのまにか教祖になってしまったのです。
 ただし、教祖として祭り上げられると、エゴが復活して、道を誤ることが多いので油断はできません(これについてはいずれお話したいと思います)。

 話を元に戻しますと、低級なエゴしか持っていない人が、いきなりエゴを消滅することはほとんど不可能だと思います。まずは、低級なエゴを高級なエゴにするところから始めることになると思います。宗教はそのために意義があります。宗教は低級なエゴを高級なエゴへと高めてくれるからです。もちろん、宗教だけがその役割を担っているわけではありません。宗教でなく他のこと、たとえば道徳でも倫理でも哲学でも、あるいは武道だとか伝統芸能といった、いわゆる「道」がつくようなものには、すべてこの役割があると思います。できれば宗教以外の方法が望ましいと思いますが、宗教の方があっている人もいるわけです。

 そうしてエゴを最高水準にまで高めたら、つまり、残すのはただ「認められたい」というエゴだけになったら、いよいよ最後のステップとして、宗教を捨てる必要があるのです。なぜなら、認められるために宗教が利用されてしまうからです。宗教を利用して「認められたい」というエゴを満たそうとしてしまうからです。特に、組織化された宗教はその傾向が強いです。

 信仰が深くなれば、人から認められたいというエゴを無くすことはできるでしょう。しかし、「神から認められたい」という欲求(エゴ)は、最後まで残るでしょう。
 これは、子供が親に認められたい欲求と通じるものがあります。「認められたい」という欲求そのものをなくす必要があるのです。そうして「神に認められようと、認められまいと、どうだっていい」という境地になったとき、いわば神を求めなくなったとき、最終的にエゴから解脱できるのだと思います。
 子供はいつか親離れをして大人になります。親に自分の存在意義を依存しない大人こそが一人前です。同じように、人間もいつか「神離れ」をする必要があるのです。親であれば、子供が「親離れ」したら喜ぶでしょう(喜ばないとしたら毒親です)。いつまでも「お父さん、お母さん」と呼んでいるようではダメなわけです。
 同じように、もし神が存在するとして、人間が「神離れ」したら、神は喜ぶはずです。いつまでも「神よ、神よ」と呼んでいるようではダメなのです。
 こうして神を求めなくなれば、必然的に信仰が成り立ちませんから、宗教という、エゴが作り出した妄想から自然に醒めることになります。
 そのとき人は、無条件の真実の愛で輝くようになるはずです。それは限りなく神の愛に近いものです。神はそんな人間を見て喜ぶでしょう。立派に成長したわが子を見て喜ぶ親のように。それが本当の「神の愛」というものです。自分への崇拝を求め続ける神がいるとしたら、それは邪神です。神などではありません。エゴが作り出した単なる妄想です。
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