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心の治癒と魂の覚醒

        

欲望をどのように捨てるか


 仏教の目的は欲望をなくすことです。なぜなら、欲望があるがゆえに苦しみがあるからです。欲望があるがゆえに苦しみがあるという道理は、前回、説明したとおりです。
 さて、では、なぜ欲望があるかというと、それは「無明(むみょう)」が原因だというのです。無明とは智恵がない状態のことをいいます。
 つまり、知恵がないから欲望があるのだと言っているのです。
 無明(智恵がない)→欲望→苦しみ、という連鎖です。
 これについて、もう少し説明しなければなりません。
 たとえば、おいしそうなキノコが生えていたとします。しかし、それは毒キノコです。もし「これは毒キノコだ」と考えることができる智恵があれば、おいしそうだからといって、毒キノコを食べたりしないでしょう。智恵がなければ食べて苦しみます。
 同じように、この世の欲望は苦しみをもたらすのに、その欲望を野放しにするのは、「欲望は苦しみをもたらす」という智恵がないからです。智恵があれば、苦しみに変わる欲望を求めたりしません。
 この智恵は、四諦のなかで苦諦のことであり、それは八正道の「正見」の修行によって達成されます。
 私はこの智恵のことを「分析智」と読んでいます。
 分析智があれば、欲望を追い求めたりしなくなるでしょう。
 ただし、欲望は「抑制」はされますが、消滅はしません。毒キノコは食べないでしょうが、「食べたい」という欲望は残ってしまいます。
 そこで、仏教では、さらに高度な智恵の獲得をめざしています。私はそれを「直観智」と呼んでいます。直観智が開かれると、欲望は消滅します。

 たとえば、欲望があり、それがかなえられないと、「怒り」という苦しみの感情が湧きあがります。分析智があれば、怒りは苦しみであるから怒ってはいけないと抑制されます。しかし、怒りそのものは消えません。いわば、我慢しているような状態です。それでもとにかく我慢(抑制)は必要なのです。我慢しなければ、怒りはますます増大してしまうからです。
 しかし、直観智が開かれると、怒りは消滅します。
 以上を、次のようなたとえで説明してみます。
 電車で足を踏まれたとします。踏んだ相手は謝りもしません。あなたは怒りを覚えるでしょう。しかし、あなたは分析智によって、「怒ったら喧嘩になり、いろいろとまずいことになるだろう」と考えて、怒りを抑制します。でも、怒りの感情は残ったままです。
 ところが、ふとその人を見たら、その人は目の不自由な人で、さらに足も不自由で、間違って足を踏んだことがわかり、しかも、足を踏んだことに気づいていない様子であることがわかったとします。すると、どうでしょうか。あなたの怒りは消滅するのではないでしょうか。
 たとえるなら、これが直観智です。
 厳密には、このたとえばあまり正確ではないのですが、とりあえず今の段階では、分析智と直観智の違いが、なんとなく理解していただけたと思います。

 この直観智を得ることが仏教の最終目的です。それを達成する修行が、八正道の最後の「正定」です。ただし、いきなり直観智を開くことはできないので、そのためには、まず分析智を開いていき、しだいに直観智を開くようにしていくのです。それが残りの八正道の修行プロセスです。
 表現を変えれば、欲望の「抑制」から入っていき、最後に「消滅」させる道、これが仏教なのです。

 ところで、ここで大きな問題があります。
 なぜ直観智によって、欲望がなくなるのでしょうか?
 さきの怒りのたとえでは、なぜ足を踏んだ人が障害者だとわかったら、怒りが消滅したのでしょうか? そもそも、なぜ足を踏まれたら怒りが生じるのでしょうか?
 少しくらい足を踏まれても、別に何の不都合もありません。なのに、怒りを感じるのは、「自分は軽んじられた」という思いが生じるからです。つまり、自分のプライドというか、そうしたものを否定されたからです。「自分が否定された」と言ってもいいでしょう。
 ところが、相手が障害者だとわかると、わざと足を踏んだのではないことがわかり、自分が軽んじられたわけではない、自分は否定されたわけではないことがわかって、怒りがなくなったのです。

 以上のたとえでは、「自分は否定されたわけではない」という認識が、直観智であるという説明をしました。しかし、これは少し正確ではありません。
 仏教の直観智とは、「自分が否定されたわけではない」ということを認識することではないからです。では、何を認識するのかというと、「怒りというものを感じている自分というものは存在しないのだ」ということを認識することなのです。
 欲望を感じるのは、欲望を感じる主体があるからです。その主体を仏教では「我(が)」といいます。わかりやすく言えば「エゴ(偽りの自己)」です。
 そして、仏教では、我(自分という意識)は存在していないというのです。
 私たちは「私が、私を、私に」とか、「これは私のもの」といったように「私」という意識を持っていますが、そんなものは存在しない、単なる錯覚であると、仏教では説いているのです。「私」は存在しないと言っているのです。
 欲望の主体、つまり、欲望する私が、そもそも存在しないのだと認識すれば、欲望は消滅します。これが直観智であり、仏教が最終的にめざしている境地、すなわち、悟りであり、ニルヴァーナです。
 禅の道元は「仏道とは自己を習うことなり。自己を習うとは、自己を忘れることなり」と説いていますが、まさにその通りなのです。厳密に言えば、「自己を忘れる」というより、自己など存在していないことを知るということになるでしょうか。
 自己など、どこにも存在しない。仏教ではこのことを「諸法無我」と呼んでいます。
 つまり、実は苦しみの最終的な根本にあるのは、欲望ではなく「我」なのです。「私という意識」なのです。これがあるから、欲望が生まれ、苦しみが生まれるのです。
 ですから、仏教の最終的な目的は、我の消滅です。正確に言えば、我など存在しないという認識を得ることです。無明とは、「我など存在しないことがわからない状態」ということになります。

 ところが、ここで再び大きな問題が生じます。
 いま「我など存在しないという認識を得ること」が仏教の最終目的だと言いましたが、しかし、「我など存在しないという認識」をする主体そのものは、いったい誰なのか?、ということになってしまうのです。認識するという行為は誰が行っているのか?ということです。それもまた我ではないのか? という疑問が生じるのです。
 「私は、私など存在しないことがわかりました」と言ったら、おかしなことになるでしょう。「そう思っている<私>は誰なんだよ?」と、ツッコミを入れたくなるでしょう。これと同じ理屈です。「私」が存在しないなら、「私が存在しないことがわかる」ということはありえません。

 ところが、こういう疑問は自然に起こるのだと思うのですが、釈迦は次のように言っているのです。
「(誰が執著するのですか?という問いに対して)このように問うのは正しくない。わたしは<(誰かが)執著する>とは言わない。……”いかなる縁にもとづいて執著があるのですか?”とわたしに問うべきである」(雑阿含経)
 理屈からすれば、執著(欲望)する主体があるはずなのですが、釈迦はそういう主体を「否定した」、というより、「考えない」という立場をとっているのです。
 いったいなぜなのでしょうか?
 これは、仏教のもっとも深い核心部分です。ここがわかったら、真の仏教がわかったことになると思います。次回は、この点について説明したいと思います(もし説明できれば、ですが)。

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仏道とは欲望を捨て心を清浄にする道

 仏教とは「四諦」のことで、その最初の「苦諦」を理解できなければ、仏教は理解できないということを、前回申し上げました。しかし、ほとんどの人は世の中を苦しみだと思っていないので、苦諦は理解できず、(真の)仏教などには関心がないのです。拝めば仏様がどうにかしてくれるといった(ニセの)仏教に人気が集まっているのはそのためです。

 釈迦は、世の中(地上人生)は「苦しみ」だと断言しています。
 なぜそう断言できるのでしょうか?
 まず、私たちが苦しみを感じるときというのは、どういうときでしょうか?
 それは、ひとことで言えば「自分の思い通りにならないとき」と言えると思います。思い通りにならないとき、人は苦しみを感じるのです。
 では、世の中(人生)は、自分の思い通りになるでしょうか?
 なりません。なることもありますが、永続することはありません。ですから、どのみち苦しむことになるのです。
 以上を三段論法でまとめると、次のようになります。
1.苦しみとは自分の思い通りにならないことである。
2.世の中(人生)は自分の思い通りにはならない。
3.ゆえに、世の中(人生)は苦しみである。

 では、人はなぜ、自分の思い通りにしたいと思うのでしょうか?
 それは、欲望があるからです。
 欲望が満たされれば快楽を覚え、満たされなければ苦しみを覚えるのです。快楽を味わうと、それが忘れられず、さらに追い求めることになります。
 そして、欲望が満たされれば、しばらくはいいのですが、やがて満足できなくなり、苦しくなって、もっと大きな欲望を満たそうとします。そうして、際限なく欲望は膨張していきます。しかし、世の中はどこまでもその欲望を満たしてはくれません。そのために、苦しむことになるわけです。

 しかし中には、足ることを知って欲張らず、幸せを感じられる人もいます。そういう人は、自覚がなくても仏教の教えを実践している人です。つまり、幸せな人というのは、欲望を野放しにしない人、さらに言えば、欲望が少ない人、究極的には、欲望がない人なのです。欲望がなければ苦しみは存在しません。
 苦しみの原因は、欲望なのです。
 欲望があれば、それだけ苦しみもあるということです。欲望がなければ苦しみもありません。欲望だけ満たして苦しみだけ消滅させることは、原理的に不可能です。苦しみを消滅させたければ、快楽も放棄する、つまり、欲望も捨てなければなりません。もし欲望を満たして喜びたいのなら、苦しみも覚悟しなければなりません。そのいずれかしか選べないのです。
 仏教では、絶対的な幸せの境地(涅槃)を求めますから、欲望を完全に消滅させることを目的にしているのです。

 ところが、私たちは、欲望を捨てることができません。
 欲望を満たすことができないと、人生がつまらなく、味気なく、虚しいものになってしまう気がするわけです。
 しかしこれは、麻薬の依存症と基本的には同じです。
 麻薬の依存症になっている人は、麻薬がないと、人生がつまらなく、味気なく、虚しいと感るのではないかと思いますが、麻薬の依存症ではない私たちからすれば、麻薬なんかなくても、人生がつまらなくもないし、味気ないとか、虚しいということはありません。
 それどころか、麻薬依存症の人を気の毒に思うでしょう。なぜなら、麻薬依存症の人は、麻薬がなければ苦しみを感じ、麻薬を求めて大金をつぎ込んだり、そのカネを得るために悪事をしなければならなくなるからです。また、麻薬の効果がきれれば非常に苦しい禁断症状に見舞われます。ほんの刹那的な快楽を味わう引き換えに、大きな代償、すなわち、自由を奪われて多大な苦しみを味わうことになるのです。
 同じように、私たちも、世の中や人生のさまざまなものに対する「依存症」に陥っているのです。愛の依存症、お金の依存症、名声の依存症、その他、ありとあらゆる依存症です。そのようなものに欲望を燃やして手に入れようともがいているわけです。それで一時的には多少の快楽が味わえたとしても、それ以上に、自由を奪われて苦しみをなめるという代償を払っているわけです。
 そういうものから解脱するための道が、仏教なのです。
 では、世俗の事柄に対する「依存症」から解放されたとき、人生がつまらなくなり、味気なくなり、虚しくなるのでしょうか?
 そんなことはありません。それどころか、すがすがしい自由と安らぎ、何ものによっても損なわれることのない絶対的な幸せを手に入れることができると、仏教では説いています。仏教ではそれを「涅槃(ニルヴァーナ)」と呼んでいるわけです。涅槃とは「あの世」のことではありません。あえていうなら、「安らかな境地」のことです(実際には「安らかな」という言葉でもない、もっと別次元の境地です)。

 苦諦とは、「人生は思い通りにはならない、だから苦しみである」という真理を、腹の底から徹底的に理解することです。これが、八正道の最初の修行法である「正見」です。
 そうして、「人生は思い通りにならない」という真理を、徹底的に深く理解して納得したら、どうなるでしょうか。
 その人は、人生に何も期待しなくなるでしょう。なぜなら、思い通りにはならないという真理を、はっきりと知っているからです。
 人生に何も期待しないとは、人生の何ものにも欲望を抱かないことを意味します。
 そして、欲望を抱かなければ、苦しみが生じることはありません。怒りや妬みの感情(煩悩)が生じることもありません。なぜなら、怒りや妬みは、欲望(期待)が叶えられなかったときに生じるものだからです。また、狂ったように欲望を追い求めて破廉恥な行為(迷妄)に溺れることもありません。人は、怒りや妬みや迷妄のために夜も眠れません。こうした感情は、苦しみそのものです。
 ですから、欲望がなければ、怒りや妬みや迷妄で心をかき乱されることはなくなり、安らかな境地で生きられるようになります。
 また、仏教では、欲望がなければ、この地上に肉体を持って生まれ変わることがないと説いています。肉体がある限り、どうしても「老病死」の苦しみは避けられません。しかし、生まれ変わらなければ、そうした苦しみから解放されるのです。
 このように、世俗に関するあらゆることに、何も期待しないで生きる、何も欲望を起こさないで生きる、これが、仏教徒なのです。
 そして、こうした欲望を浄化し清らかになることが、仏道の修行です。
 そう考えれば、世俗的な願いを叶えることを期待してお寺で仏像に祈りを捧げる行為などが、いかに真の仏教とかけ離れ、正反対であるかが、よくわかると思います。欲望を消して心を清浄になることが仏道なのに、欲望を煽って逆に汚れを増やしているのです。
 真言宗のお寺では、護摩といって、願い事を書いた木片を火にくべて祈願することをしていますが、釈迦はそれを仏道とは相容れない行為であるとしています。(「雑阿含経」)
「バラモンよ、木片を焼いて清浄になることができると思ってはならない。なぜなら、これは外面的な事柄だからである。外のものによって完全な清浄を得たいと願っても、それによって清浄とはならないと賢者たちは説く。バラモンよ、われは木片を焼くのを放棄して、内部の火をともす。永遠の火によってつねに心が静まっている。われは尊敬さるべき行者であって、清浄行をおこなう者である。よく制御された自己は人間の光である」

 とはいえ、欲望を捨てることは、容易なことではありません。「我慢」はできるかもしれませんが、我慢では、欲望を捨てたことにはなりません。
 では、どうすれば欲望を捨てることができるのでしょうか?
 次回はその点について説明したいと思います。いよいよ仏教の本質に迫っていくことになります。同時に、もっとも理解が難しい局面に入ることも意味します。

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どのような人が真の仏教を理解できるのか


 真の仏教を理解することは、容易ではありません。その教説を頭で理解することは、それほど難しくはないのですが、それでは仏教を真に理解したことにはならないからです。
 釈迦が悟りを開いたとき、自らの教えを世の人に広めるかどうか迷ったとされています。そのときの釈迦の境地について書かれた経文のエッセンスを紹介してみます。(阿含経 南伝 律蔵 大品 1,6、1-9)
 「私が証(さと)りえたこの法(真理)は、はなはだ深くして、見がたく、悟りがたい。寂静・微妙にして思惟の領域を超え、すぐれたる智者のみのよく覚知しうるところである。しかるに、この世間の人々は、ただ欲望を楽しみ、欲望を喜び、欲望に躍るばかりである。そのような人には、この理法はとうてい見がたい。……もし私がこの法を説いても、人々が理解しなかったならば、私はただ疲労困憊するばかりであろう」
 すると、それを知った神霊的存在が、「これでは世間は滅びてしまう。世の中には法を理解する目をもった人も、少ないがいる。彼らも法を聞かなければ堕ちてしまうだろう。だから、法を説いてください」と頼み、釈迦も了解して法を説いたというのです。

 釈迦の言う「思惟の領域を超え、すぐれたる智者のみのよく覚知しうる」というのは、単に頭だけの理屈で考えただけではわからず、それを超えた智恵がなければ理解できないということです。もし理屈で理解できるなら、仏教学者はみんな解脱しているはずですが、そうは思えません。単なる頭ではなく、もっと深い意識レベルでの理解を言っているわけです。
 そして、「欲望を楽しみ、欲望を喜び、欲望に躍るばかりの人々には、この理法はとうてい理解できない」と言っています。
 しかし、私たちはまさに欲望を楽しみ、喜び、躍りながら生きているのではないでしょうか。ですから、仏教を理解することは非常に難しいのです。世の中の99パーセント、いえ、それ以上の人は、仏教を何も理解していないでしょう。理解していないのに「自分は仏教徒だ」と名乗っている人ばかりなのです。

 前に申し上げましたように、仏教の教えは「四諦」です。そのうちの最初の「苦諦」を、腹の底から理解できないと、仏教は理解できません。興味さえ湧かないでしょうし、仏道を歩みたいとも思わないでしょう。
 苦諦というのは、「この世の中(人生)は苦しみである」という真理です。
 ここでまず、多くの人は疑問に思います。「確かに人生には苦しいこともあるけれど、楽しいこともあるし、みんなそうやって何とか人生を送っているではないか。人生を苦しいと決めつけるのは極端だし、ずいぶん悲観的ではないのか」と。
 確かに、ほとんどの人は、喜怒哀楽を経験しながら、仏道の修行などしなくても、なんだかんだ言いながら一生を終えていきます。それでいいのではないかという考えも湧いてきます。
 しかし釈迦は、そうした苦諦の真理が理解できない人を「愚か者」と呼んでおり、いかに人生というものが苦しいものであるか、繰り返し繰り返し説いています。
 私個人としては、人の生き方はそれぞれなのですから、他人がとやかくいう筋合いではないと思っているのですが、釈迦は容赦がありません。苦諦という「真理」を見よと、何回も説いているのです。

 ここで問われるのは、苦しみは主観的な感覚であり、人によって強く感じたり弱く感じたりするということです。家族など身内が亡くなっても、それほど悲しまない人もいます。かと思うと、猫やウサギといったペットが死んだだけで、食事も喉を通らないほど苦しむ人もいます。
 苦しみをあまり感じない人にとっては、この世は苦しみではないでしょう。
 ただし、「今のところ」という条件がつきます。
 というのは、仏教で説かれる輪廻転生が本当であるとすると、何回も何回も生まれ変わり、さまざまな経験をいやというほど積んでいくわけです。すると、いい加減に人生というものにうんざりするであろうからです。つまり、地上のあらゆる快楽をとことん味わい尽くし、あらゆる苦しみをとことん味わい尽くすと、苦しみはもちろんですが、快楽さえも、「もう勘弁してくれ」となるのです。おいしい料理を次から次へと食べさせられたら、しまいにはうんざりするのと同じようなものです。しかも、快楽にはきりがなく、どんどんと膨張して、ついにはその快楽が苦しみの原因になるということを、肌身に沁みて感じ取ることになります。そして、快楽と苦しみの往復という不安定な状況から抜け出したくなってくるのです。

 過去に、そうして何回も何回も生まれ変わりを繰り返し、さまざまな経験をイヤというほど積んで地上人生にうんざりして生まれてきた魂が、釈迦の苦諦を理解できるのだと思います。それは理屈ではなく、共感的に理解するといった方がいいでしょう。
 そういう魂を持って生まれた人は、地上の楽しみに接しても、一時的に憂さ晴らしができる程度で、その後には虚しい気持ちに襲われるものです。人々が楽しいと思えるものも、心底楽しいとは思えません。また、苦しみに対しては人一倍鋭く反応します。過去の生でさんざんひどい苦しみを受けてきたために、ちょっとしたことでも、苦しみを強く感じるようになっているのでしょう。また、こういう人は、子供の頃から生きづらさを感じたりします。
 そこで、地上の楽しみも、苦しみもない、地上を離れた、別次元の安定した清らかな幸せというものを希求するようになるのです。
 釈迦は、そういう魂の持ち主であったのでしょう。そして、そんな釈迦の教えに惹かれる人も、そういう魂の持ち主なのだと思います。そういう人が、真剣に仏道を歩もうという気持ちになり、チャンスに恵まれれば、実際に歩んでいくわけです。
 仏教は、そういう魂の持ち主のための宗教なのです。
 差別的な言い方をするようで恐縮なのですが、生まれ変わりの回数が多くない、つまり地上人生の経験が少ない「若い魂」は、四諦の教えは理解できません。しかし、何回も生まれ変わりを繰り返し、数多くの人生を経験して「年配の魂」になると、四諦の教えをすんなりと理解し、仏教に関心を抱くようになり、また実践するようになるのです。
 つまり、どんな人もいつかは、釈迦の教えを理解する日が来るということです。
 けれども、そこに至るまでには、怖ろしいほどの苦しみを経験しなければなりません。来世も現世と同じような人生を歩むとは限りません。たとえば北朝鮮に生まれ、言いたいことも言えず、貧しい生活を余儀なくされ、餓死したり、反抗しようものなら拷問を受けて目玉をえぐられるかもしれません。そんな人生を送りたいと思うでしょうか。「自分は悪いことをしていないからそんなことは起きない」とは言えません。仏教によれば、過去生で犯した悪事が現世で現れるとは限らず、さらに持ち越して来世で現れるかもしれないからです。来世は、どんなひどい悲惨な人生になるか、わからないわけです。
 ですから釈迦は、なるべく早く仏教の真理を理解し、この地上と輪廻の苦しみから解脱した方がいいと言っているのです。そのために、しつこいほど、「この世は苦しみだぞ、この人生は苦しみだぞ、このことをわかってくれよ」と、繰り返し説いているのです。それは、釈迦の慈悲のあらわれなのです。
 このように、「この世は苦しみ」という「真理」は、理屈というよりは感覚的な共感によって理解されるものだと思います。この最初の苦諦を理解できなければ、残りの集諦、滅諦、道諦は理解できません。つまり、仏教を真に理解することはできないでしょう。
 苦諦を理解した人、つまり、仏教を理解できる可能性を秘めた人は、この世俗にあまり魅力を感じません。厭世的な傾向があるかもしれません。金儲けや欲望をつかみとるために血眼になることはないでしょう。頭だけ丸めただけの金儲け坊主などは、仏教をまるで理解していないことは明白です。
 こういう人は、世俗に対する野心といったものが希薄ですから、まず出世したりしません。なので、社会的には無能あつかいされることが多いかもしれません。ある種の「社会不適応者」です。釈迦の生きた当時なども、出家する人などは、世の中に生きづらさを覚え、世の中とうまくやっていけない社会不適応者だったと言えるでしょう。
 真の仏教が理解できる人というのは、そうした社会不適応者の中にいるのだと思います。

 余談になりますが、私も若い頃、世の中に生きづらさを感じ、厭世的な社会不適応者でした。20歳のとき、仏教の教えに惹かれたのですが、金儲けの坊主は嫌いで、そういうのは本当の仏教徒とは思えなかったので、釈迦の生きていた時代の、あの真の求道心をもった、清らかな修行僧がいないかどうか、いたら弟子入りしたいと願っていました。
 そうしたら、ふとしたきっかけで、そのようなお坊さんの存在を知りました。
 その方は、葬式などはせず、どの宗派にも属さず、貧しい小さな寺に独り住み、托鉢によって生計を立て、原始仏典を読みながら釈迦のオリジナルな教えを実践されている方でした。詳しいことは忘れましたが、当時、関西地方に住んでいらして、けっこうな年配だったと思いますので、もうご存命ではないと思います。
 私はその方に手紙を書きました。するとすぐに返事が来て、「あなたのようなタイプは出家するのがよい。出家して私と一緒に暮らしながら修行しませんか?」と、ありがたいお言葉を頂きました。不思議なことに、その方の本名は、私の名前と一字違いの「斉藤●一」さんであることが、お手紙を頂いてから知りました。その方も「深い縁を感じます」と書かれておられました。
 迷いました。本気で世を捨てて出家しようかなと思いました。
 しかし、私は中途半端な人間でした。
 若かった私は、まだ未知なるこの世界に対する好奇心が旺盛で、今でもそうなのですが、冒険心が強く、なんでも見てやれ経験してやれ、といった熱情が抑えられなかったのです。出家して、欲望を捨てながら狭い世界で刺激のない生き方をすることは、とうていできないと思いました。そこで、かなり迷いましたが、丁重にお断りの返事を差し上げたしだいです。
 結局、私は世俗にも、かといって世俗を離れた出家生活にも、どちらにも安住の地を見出せない、中途半端な人生を送りながら、今日まで来てしまったわけです。今でもどっちつかずの中途半端な立ち位置です。
 なので、その意味では私も、真の仏教が何であるかなど、偉そうに語る資格はないのです。

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お知らせ カバラセミナーについて

今回はお知らせとなります。
8月26日(日)、東京にて、ユダヤ教の神秘主義「カバラ」についてセミナーをすることになりました。
私はカバラの学者というわけではなく、「魂の覚醒法」を知る目的で古今東西の思想や哲学、宗教を学んでいるうち、カバラと出会いました。なので、カバラといっても何でも知っているわけではなく、そこに説かれている魂の覚醒法しか学んでおりません。しかも、それを現代人向けにアレンジしています。
現代を代表する七人のカバラ研究者のひとりとして、カバラの概要、カバラと数秘術、カバラの説く宇宙体系図である「生命の樹」、そして、カバラ流の魂の覚醒法などについて、まる一日かけてお話する予定です。
興味のある方は、まずそのセミナーのために作られたプロモーション動画をご覧になってみてください。
下記のURLにアクセスして登録するとすぐに無料でご覧になれます。
http://s3.aspservice.jp/51collabo/link.php?i=5b0fb9722f065&m=5b1db6d9cc82a&guid=ON

よろしくお願い申し上げます。



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「仏法僧」の本当の意味  

 
 前回は、「葬式仏教は仏教ではない」ということをお話いたしました。
 葬式以外で、一般の人が仏教といって思い浮かべるのは、お寺にお参りして、仏様にさまざまな祈願をすることではないかと思います。「商売が繁盛しますように、受験に合格しますように、病気が治りますように、結婚できますように、いやな人と縁が切れますように」などと、さまざまなお願いを、仏様が叶えてくれるように祈るわけです。
 これもまた、仏教(釈迦の説いた教え)とは関係ありません。
 というより、仏教とは正反対のことをしています。
 仏教では、仏というのは覚者(悟った人)のことであり、○○仏だとか○○菩薩と呼ばれる神霊的な存在のことではありません。そういう、いわゆる「仏様」に祈れば、現世的な福を叶えてくれるなどとは、まったく説かれていません。
 では、神霊的な存在ではなく、肉体を持った生きた仏、つまり覚者に対して、何かお願いをすれば、それを叶えてくれるのでしょうか? たとえば、釈迦に対して「悟りが開けますように」と祈れば、釈迦は叶えてくれたのでしょうか?
 しばしば、覚者だとか聖者のそばにいて帰依すれば、何か福徳が得られたり、悟りが開かれるエネルギーのようなものをもらえるのだと信じている人がいますが、釈迦はそういったことを否定しています。
 「私は指導者として教えているが、涅槃に到達する者もあれば、しない者もある。それを、私がどうすることができよう。私はただ、道を教えるのみである」(阿含経 南伝 中部経典 107)と言っているのです。
 仏とは、ただ教えを説くだけであり、救われるかどうかは本人(の努力)しだいだというわけです。お願いをすれば叶えてくれる存在ではないのです。
 しかも、そのお願いというのが、現世的な幸せであれば、なおさらのことです。
 なぜなら、釈迦は、現世的な幸せを求めるなと説いているからです。「切に世の中を忌み嫌う者となれ」と言っています。原始仏典を読めば、そういう言葉を繰り返し繰り返し見るでしょう。現世的な幸せを徹底的に否定しているのです。その理由はいずれ詳しく述べます。
 だから、仏様に現世的なお願いをする信者、また、それを勧めている坊主は、仏教とはまったく正反対のことをしているのです。仏教とは正反対のことをしていて、「自分は仏教徒だ」と言っているわけです。まったくおかしなことなのですが、誰もそのおかしなことに気づいていないのです。

 ところで、仏教徒や仏教信者は、「仏法僧」に帰依するものとされています。
 「帰依」とは、「(仏や神など)すぐれたものを頼みとして、その力にすがること」です。
 確かに釈迦は、仏法僧に帰依しなさいと語っています。
 そうして今日、僧侶たちも「仏法僧」に帰依しなさいと説いているわけですが、この「仏法僧」の内容が、釈迦が説いたものとまったく違っているのです。
 今日では、「仏に帰依する」とは、神霊的な仏様に帰依すること、「法に帰依する」とは、真理に帰依すること、「僧に帰依する」とは、僧侶に帰依することであるとしているようですが、これはまったく違います。
 まず、すでに述べたように、釈迦は神霊的な仏様に帰依しなさいとは言っていません。釈迦の言う仏とは覚者であり、具体的には自分のことを指していました。そして、自分の死後は他の指導者に帰依してはいけないと言っています。ですから、釈迦が死んだ時点で「仏法僧」のうちの「仏」は除外されるのです。

 次に、「法に帰依する」とは、真理に帰依するということですが(法とは真理という意味)、これは釈迦の教えと一致しています。しかし、問題は何をもって「法」というかです。今日、それはあいまいになっているようですが、釈迦は明確に法とは何かを語っています。それは前に紹介した「四諦」です(諦とは真理という意味)。すなわち、
・苦諦=この世は苦しみであるという真理
・集諦=苦しみが生じる原因の真理
・滅諦=苦しみが消滅するしくみの真理
・道諦=苦しみを消滅するための方法の真理、およびその実践
 ところが、この四つのうちもっとも重要な心臓部である「道諦」、すなわち、八正道の実践をしていないとしたら、「法に帰依する」ことにはなりません。おそらく、今の仏教徒や信者のほとんどは八正道の実践などしていないでしょう。ですから、「仏法僧」のうち、「法に帰依する」ことはできないのです。ですから、これも除外されてしまうのです。

 最後の「僧に帰依する」というのは、僧侶に帰依するという意味ではありません。そのへんの坊主に帰依するという意味ではないのです。
 釈迦の説いた「僧に帰依する」という意味は、修行仲間の「集団」に帰依するという意味です。というのは、善き修行仲間と一緒に修行することで、修行の完成が期待できるからです。次のような経文があります。(阿含経 南伝 相応部経典 45-2)
 あるとき、弟子のアーナンダが釈迦に尋ねました。
 「お釈迦様、(修行仲間と)よき友情を持ち、善き交わりを持つことは、修行のなかばにも等しいと思うのですが、いかがでありましょうか?」
 すると、釈迦は次のような回答をしています。
 「アーナンダよ、それは違うよ。よき友情を持ち、善き交わりを持つことは、修行のなかばではなくして、そのすべてである。なぜなら、そのような交わりを持てば、八正道を実践し、その修行を最後まで重ねるであろうことが期待できるからである」
 つまり、「僧に帰依する」という意味は、「善き修行仲間と一緒に修行しなさい」ということなのです。ですから、修行をしていない者は、「僧に帰依する」ことはできないのです。
 そこで、「仏法僧」のうち、「僧に帰依する」も除外されます。
 これで、全滅です。
 今日、「仏法僧に帰依する」という仏教徒の言い分は、本来の釈迦の教えから見た場合、まったくデタラメなことをしているわけです(大乗仏教なりの言い分はあるでしょうが)。

 釈迦は生前、「仏法僧」に帰依しなさい、すなわち、自分と四諦と修行僧の集まりに帰依しなさいと説きましたが、死ぬ直前は、次のように言っています。
 「(私の亡き後は)、自己を拠り所とし、他人を拠り所とすることなく、法を拠り所とせよ」(阿含経 南伝 相応部経典 47,9)
 また、バラモン教徒から、釈迦という拠り所がなくなったあなたがた修行僧たちは、今後どうするのですか? と問われたとき、アーナンダがこう答えています。
 「私たちには拠り所があります。すなわち、法という拠り所があるのです」(阿含経 南伝 中部経典 108)
 これは、何を意味しているのでしょうか?
 釈迦が存在していない今、真の仏教徒は、ただ「法」を拠り所とし、「法」に帰依しなさいということです。他人、つまり、グルだとか指導者といった存在を拠り所としたり帰依したりせず、ましてや神霊的な仏様に帰依したりせず、自分を拠り所とし、法を拠り所として、修行に励みなさいということになるのです。
 要するに、釈迦の教えをもとに、ひとり仏道を歩む者、これが、現代における真の仏教徒の姿ということになるのです。葬式をしたり、寺にお参りに行ったり、仏様に祈ったりすることが、仏教徒なのではありません。そんなことは、仏教とは何の関係もないばかりか、むしろ仏教の教えに反する場合もあるわけです。

 では、真の仏教(釈迦の説いた教え)とは、いかなるものだったのでしょうか?
 それを次回から、少しずつ説明していきたいと思います。

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