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心の治癒と魂の覚醒

        

 いかにして聖者の教えを実践するか?

 例によってまずはご報告とお知らせから。
 今月19日と20日、イデア ライフ アカデミー瞑想教室第10回「苦難を瞑想によって乗り越える」というテーマで授業を行いました。月並みな苦しみではなく、苦難と呼ばれるほど激しい苦しみに見舞われたときは、超越的な存在(いわゆる神や仏)との霊的交流が非常に重要であると私は考えます。いわば「信仰」の領域になるわけですが、信仰といっても、特定の宗教とは関係ありません。信仰とは超越的存在との霊的交わりのことです。授業では、どうすれば超越的存在と霊的な交流ができ、そうして苦難を乗り越えることができるかどうか、その方法を解説しました。ダイジェスト版ではそのための理論を説明しています。ぜひご覧ください。
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 次回は哲学教室(11月2日、3日)で、「易経に学ぶ運命の法則」の続きです。64卦ある易の卦のなかで、生きる指針としてもっとも含蓄が深く示唆に富んでいると思われるものを、霊性の進化という視点から解説していきます。今まで易経を単なる占いの書と思っていた人は、新たな視野が開かれることと思います。
 参加ご希望の方は「斉藤啓一のホームページ」まで

 さて、本題に入ります。
 私が今まで長い間、ずっと疑問に感じ、思い悩んでいることがあります。
 それは、「なぜ世の中にはすばらしい教えが溢れているのに、すばらしい人が少ないのか?」ということです。
 たとえば、世界で一番売れている本は「聖書」です。仏典もたくさん読まれているでしょう。宗教とは縁のない人は、いわゆるスピリチュアル系の本を読んでいるかもしれません。どれもすばらしい教えが説かれています。新興宗教でも、よほどあやしいカルト教団でない限り、すばらしい教えを説いています。
 これだけすばらしい教えが溢れかえっているのに、それに比べて、私たちはそれに見合うほどすばらしいと言えるでしょうか?
 少しはすばらしくなっているかもしれませんが、大多数の人は、すばらしい教えの内容からはほど遠いのが現実です。
 いったいこれはどうしてなのか?
 私はずっとこのことを考えているのです。
 西洋には「サンデー・クリスチャン」という言葉があるそうです。つまり、日曜日には教会へ行き、神様の話や隣人愛の話を耳にしてクリスチャンらしく過ごすのですが、残りの平日は、クリスチャンとは無縁の、すなわち、隣人愛などほとんど頭にない、冷酷で、物欲や虚栄心まるだしの生活をしているのです。
 いったいこういう人たちは、自分たちの矛盾に気づかないのでしょうか? 自分をクリスチャンと言いながら、一方で愛のかけらもない、虚栄心や物欲を満たすばかりの生活をしていることに、違和感を覚えたり、恥ずかしい気持ちが湧かないのでしょうか? こうなると、ある種の二重人格としか思えません。
 もちろんこれは、クリスチャンに限りません。仏教徒も、スピリチュアルの信奉者も同じです。
 結局、すばらしい教えが書かれた本を読んだり、あるいは話を聞いたりするだけでは不十分なのです。それだけでは人は変われないのです。その他に、何かが必要なのです。
 多くの人たちは、そうした宗教やスピリチュアルを、ある種の「娯楽」や「気晴らし」、あるいは教養の一環くらいにしか思っていないのかもしれません。
 もちろん、すばらしい本を読まないよりは読んだ方がいいでしょう。しかし、人間はしばしば、頭で理解しただけなのに、自分がすばらしい人間になったような錯覚をしたりします。愛についての高邁な理論を学んだというだけで、愛の深い人になったと勘違いしたりします。知識というものは、こういう落とし穴、危険があるのです。ですから、必ずしもすばらしい本を読むことがすばらしい結果になるとは限りません。ときには逆に、人間性を低めてしまう危険もあるのです。残念ながら、宗教やスピリチュアルの世界には、この種の人たちは掃いて捨てるほどたくさんいます。
 これでは、いくら今後、たとえイエスや仏陀のような大聖者が現れたとしても、何の意味もありません。
 教えはもう十分なのです。
 あえて「教え」というものが必要であるとするならば、それは、「教えを実践に移すための教え」ではないでしょうか?
 ならば、いったいそれは何なのか?
 どうすれば、過去の聖者たちが残してくれた教えを、自らの血肉とし、そうして自らを変え、すばらしい教えの実践者になることができるのか?
 これが、私がもっとも関心を抱いているテーマであり、現在、模索している最中なのです。

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修行の基本的な姿勢 | コメント:10 | トラックバック:0 |

訂正とお詫び&苦難について

 前回のブログで、今月19日と20日の瞑想教室は「怒りを捨てる瞑想」というテーマで行うと告知しましたが、これは来月の瞑想教室のテーマでした、今月は「 苦難を瞑想によって乗り越える」がテーマです。訂正してお詫び申し上げます。
 苦難と言えば、今この文章を書いているのがお昼頃で、今まで経験したことがないと言われる大型台風が、私の住んでいる関東地方では今日の夕方から深夜に通過してピークを迎えると報道しています。すでにかなり強い雨風で外は荒れており、ピーク時にはこの何倍も強い暴風雨になると思うと、さすがに不穏な気持ちになります。
 人生においては、さまざまな苦難が訪れますが、今回は自然がもたらす苦難です。自然がもたらす苦難だけはどうしようもありません。とにかく、少しでも被害が少なくてすむように、できる限りのことをして、後は、天命を待つしか仕方がありません。
 避けられる苦難であるならば、避けるように努力すべきです。しかし、どうしても避けられない苦難であれば、それを受け入れるしかありません。ただ、苦難を受け入れるということは、口で言うほど簡単ではありません。「溺れるものはワラをもつかむ」という言葉がありますが、明らかに無駄だと思われるものにも、すがりたくなってきます。しかし、しょせん、ワラはワラです。ワラをつかんでも何の助けにもなりません。
 その一方で、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という言葉があります。溺れている人は、もがくからかえって沈んでしまうのです。こういうときは、思いきり息を吸って(肺に空気をいっぱい入れて)、手足をばたつかせることなく体の力を抜けば、たいてい浮かぶことができます(たくさん服を着ていると難しいかもしれませんが)。つまり、いたずらにもがくのをやめた方が、助かる可能性が高いのです。
 この教訓は、人生における他の苦難にも当てはまります。どうしても避けられない苦難に見舞われたとき、それを心静かに受け入れることができる境地を、日頃から瞑想によって養っていくことが大切になってきます。いざというとき、そうして練ってきた心が、救いをもたらしてくれるでしょう。苦難を乗り越える勇気を与えてくれるでしょう。
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自分を変えるために何から始めるか?

 例によってまずはご報告とお知らせから。
 今月5日と6日、イデア ライフ アカデミー哲学教室第10回「易経に学ぶ運命の法則 1」というテーマで授業を行いました。易経は孔子も熱心に学んだ生きる指針の書であり、占いの書であり、何よりも宇宙の法則と合致して生きるための「宗教書」です。授業では、易の基本的知識から始まり、占い方のかなり高等なテクニックまでを紹介しました。ダイジェスト版では、易経を学ぶ意義についての話を収録しています。ぜひご覧ください。
 動画視聴はこちらから
 なお、今月19日と20日は瞑想教室で、「怒りを捨てる瞑想」というテーマで行います。怒りは「三大煩悩」のひとつにあげられるくらい、人生において破壊的な作用をもたらし、私たちを苦しめる最大のものです。その怒りを捨てることができれば、人生の幸せに向けて非常に大きな一歩を踏み出すことになり、瞑想も格段に上達していきます。ご参加、お待ちしています。
 参加ご希望の方は「斉藤啓一のホームページ」まで
 
 さて、本題に入ります。
 この世のあらゆる生き物は進化しています。進化というと、肉体的な形態や機能だけを思い浮かべますが、脳も肉体の一部なわけですから、脳の進化、すなわち精神の進化もまた、あらゆる生物に課せられたものだと言っていいでしょう。
 人間の場合、おそらく脳をのぞいた身体的な進化は、かなり完成に近い水準に達していると思います。というのは、人間は脳が発達したおかげで、いろいろな環境に適応できるようになっているからです。たとえば、寒い場所で生きなければならないとしても、そのために体毛を濃くする必要はないわけです。
 そうなると、人間に残された進化の課題は、主に精神面での進化ということになると思います。
 進化とは、「より生存と繁栄に適した存在になること」です。
 私たちは、自分とは異なるさまざまな他者と共存していかなければなりません。さもないと生存と繁栄が難しくなるからです。
 そして、自分とは異なる他者と共存していくために必要な精神的な特徴は何かといえば、それは「寛容さ」です。つまり、自分とは異質な人も受け入れて仲良くやっていく「広い心」です。したがって、人間は進化するにつれて、寛容さ、心の広さを持つようになっていくはずです。
 しかし、この寛容さ、心の広さという美徳を養うことは、想像するよりも難しいのです。
 人はどうしても、自分と気心の合った人とだけ付き合いたくなります。自分と気の合わない相手は、たとえその相手が立派な人であっても、仲良くしたくないのです。たいていそういう場合、単純に「好き」とか「嫌い」とか、馬が合うとか合わないとか、生理的に受け付けないとか、そういった感情的な理由で仲良くしたり拒絶したりします。
 もちろん、嫌いな人と必要以上に仲良くするべきだ、と主張したいわけではありません。相手が間違っているのに無理に合わせなければならない、ということではありません。どうしても考え方が合わなければ、そのときは別れても仕方がないと思います。
 しかし、よほど常軌を逸した人でない限り、とりあえずどんな人とでも、そつなく仲良くできる、という人こそが、成長し進化した人の特徴です。好きな人とだけ仲良くできるがそうではない人とはやっていけないと、最初からそのような態度しかできないのは、幼児的な精神の持ち主です。
 人間は、さまざまなタイプの人と交わることで、さまざまなことを学んでいき、成長進化していくものです。自分と同質の人とだけ交わっていても成長しません。
 もしも、自分を変えようと真剣に望むなら、まずは、どんな人でもその異質性や個性を受け入れて仲良くやっていく、そうした寛容さ、心の広さを養うことから始めることを勧めます。こうした寛容さ、心の広さという美徳を養うことができれば、他のさまざまな美徳も修得しやすくなるはずです。

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