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心の治癒と魂の覚醒

        

美への愛

 まずはご報告とお知らせから。 
 今月9月18日/19日のイデア ライフ アカデミー哲学教室は、前回の続きである「ギリシアの仏陀 プロティノス2」を行いました。彼の思想は難解ですが、およそ宗教というものの本質をついたすぐれた内容を持っています。ダイジェスト版では、とりわけプロティノスの人生観と世界観について解説してあります。ぜひご覧になってください。
 動画視聴
 イデア ライフ アカデミーも、今月で三周年を迎えました。三年間も続けられたのは、皆様のあたたかいご支援のおかげです。心より感謝申し上げます。
さて、来月(10月16日/17日)は瞑想教室で、禅に伝わる「十牛図」について紹介いたします。これは悟りの段階を牛をモチーフに描かれた十枚の絵のことです。
 参加ご希望の方は「斉藤啓一のホームページ」まで

 では、本題にはいります。
 宗教やスピリチュアルの世界は、あいまいであり、混沌として、魑魅魍魎、玉石混交の世界です。つまり、何が真実であるかがはっきりしないのです。そのために、いわゆる「狂信」と呼ばれる現象が生じてくるわけです。しかし、狂信という非難も、たいてい世俗的な常識を基準にして一方的に判断しているわけで、もしかしたら世俗的な常識の方が「狂信」であり、「狂信」と呼ばれるものにこそ、真理がある場合も、あるかもしれません。実際、釈迦やキリストが、当時、説いた教えをそのまま現代で説いたら、おそらく狂信扱いされるのではないかと思います。つまり、彼らの教えはそれだけ世間的な価値観と隔たっていたのです。
 
 もちろん、自分の信じる宗教のために、何の罪もない人を殺したりすることは、あきらかに狂信でしょうが、基本的には、何が狂信で何が狂信でないかは、宗教の世界ではわからないのです。宗教やスピリチュアルの道は、一歩間違うと狂信に陥ってしまう、きわめて危険な道なのです。しかも、やっかいなことに、狂信に陥っているということさえ気づきにくいのです(気づいたら狂信とはならないでしょうが)。
 では、どのようにしたら、狂信という落とし穴にはまることなく、宗教やスピリチュアルの道をまっとうに歩んでいくことができるでしょうか?

 そのひとつの指針となるのが、「美への愛」です。すなわち、美醜を正確に見極め、美しいものを美しいと感じることができる感性、そして、そうした美を愛し求める情熱です。
 裏返して言えば、醜いものへの嫌悪です。
 たとえば、誰が見ても美貌の持ち主がいたとしましょう。誰もがそこに美を感じるでしょう。しかし、そのような美への愛は表面的です。もしその人が、非常に傲慢で自惚れ屋で人を見下し、嫉妬深く、人の悪口ばかり言っているとしたら、そうしたものに「醜さ」を感じて嫌悪を覚え、その人を美しいとは感じなくなるはずです。
 逆に、ルックスはいまひとつだけれど、人格が非常に立派であれば、その人に美を感じるはずです。つまり、見た目より人格に美を感じる愛の方が、より深く本質的なのです。

 このような、深く本質的な美への感性と愛が、狂信に陥る危険を回避するために、とても重要になってくるのです。金ピカの絢爛豪華な大伽藍に住み、派手な法衣を身にまとって仰々しい演出のもので舞台に立つ教祖を見て、そこに「美」を感じるとしたら、その美は浅はかです。宗教の世界は、世俗的物質世界からの超脱にあるのですから、むしろ反対に、質素な寺院や教会に住み、質素な衣服に身を包んだ、まったく飾り気のない柔和で謙虚な宗教家に美を感じる感性こそが、本質的な美への愛です。

 世の中には、「美」ということに関して、ほとんど感性も関心もない人がいます。美しさなどよりも、おいしいものを食べたりとか、金持ちになるとか、有名になるとか、そういったものにしか価値を感じない人がいます。
 しかし、こういう人は、宗教やスピリチュアルには向いていません。
 美とは、究極的には善であり真理から生じてくるものです。言い換えれば、美の根源は神です。ですから、美への愛を育てていくことを通して、ついには神に到達するわけです。
 美に対する感性がほとんど欠如している場合は、最初は物質的な美を愛することから第一歩を踏み出すべきです。美人への愛、自然への愛、芸術への愛、美しいデザインをした服、クルマ、バッグへの愛など、なんでもけっこうです。そうして、とにかく美の感性を養うことが求められます。
 しかし、次の段階では、そうした表面的な美ではなく、より本質的な人格的な美を感じる感性、そして、そのような美を愛する心を養うことです。

 このようにして、深く本質的な美への感性と愛を育てていくなら、宗教的なことで、何か判断に困ったときには(実際、何が本当かどうかよくわからない世界ですから)、「それは美しいか、美しくないか」で判断することができます。美しいと感じることは、絶対ではありませんが、ほぼ正しいものです。
 考えればわかることは考えて結論を出すべきですが、考えてもわからないものは、無理に理性や思考に頼りよりも、美的センスに頼った方が、より正しい選択となる可能性が高くなるでしょう。
 そして、狂信に陥る危険も少なくなると思います。なぜなら、深く本質的な美への愛をもっていたら、狂信は、美しくなく、醜いと感じるに違いないからです。
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母の死


今月1日、母が老衰のため91歳で亡くなりました。天寿を全うしたと言えますので、とりわけ悲しみもなく、むしろ、長い間、施設で寝たきりとなっており、認知症もひどくて私のことも認識できないくらいでしたから、そういう状態から解放されたと考えるならば、むしろ喜ばしいことだと思っています。葬儀は火葬のみ身内だけで行い、あくる日には共同墓地に納骨しました。いわゆる葬式も戒名も位牌もお墓もない、最低限のシンプルなもので終えました。これは母の希望でもありました。

 ところで、遺体を焼却した後で骨を骨壷におさめるとき、その骨がほんのわずかな量であるのに驚きました。また、骨を箸で軽くつかんだだけで、ぼろぼろと砕け散ってしまうので、骨壷に入れるのに苦労しました。高齢だったので骨の密度がかなり低くなっていたせいだと思いますが、それにしても、かつては生き生きと元気に活動していた一人の人間が、最後にはこのような、もろい骨と化してしまう様子を見て、あらためて人間存在のはかなさを感じました。

 父の場合は、癌で入院してから一ヶ月で亡くなりました。75歳でした。その後、母は2年ほど一人暮らしをしていましたが、身体が自由に動かなくなり、施設に入って、十年ほど過ごして亡くなりました。
 人間は、突然の事故や自殺などで亡くなる場合をのぞき、私の父のように病気で入院して短期間で死ぬか、あるいは母のように、施設に長い間すごしてから老衰か、または何らかの病気になって死ぬかの、いずれかになるかと思います。
 どちらにしても、つらいものです。苦しまずに突如としてコロリと死んでいく幸運な人もいますが、そういうケースは稀でしょう。ほとんどの人は、大なり小なり、苦しみを味わいながら死んでいくのです。

 肉体に宿ってこの地上で生きるということは、まことに悲惨であると思います。人生の苦しみや悲惨さの原因の多くは、肉体にあります。肉体を維持させるために、衣食住で苦労しなければなりませんし、肉体があるがゆえに、病気の苦しみ、老いの苦しみ、そして、死ぬ苦しみがあるわけです。肉体をもたないで生きることができたなら、それだけでなんという幸せなことでしょうか。
 ですから、仮に魂とか霊魂といったものが存在するとすれば、死とは、やっかいな肉体から解放されることを意味しますから、死というものは、忌むべきものであるどころか、非常に喜ばしいものであると思うのです。

 死ぬときには、肉体を捨て、財産も捨てなければなりません。家族や友人とも別れなければなりません。つまり、地上の物質的な事物のすべてを捨てなければならないのです。地上に生きていた証といったものも、やがて故人を知っている人もすべて死んでしまいますから、その人が生きていたことも忘れられてしまいます。歴史に名を残すほど名声を得た人であれば、いつまでも人々の記憶に残り続けるでしょうが、そういう人は稀です。ほとんどの人は、この世に存在していたことさえ、まもなく忘れられてしまうのです。

 このように、人間なんて、はかない存在です。長く生きてもせいぜい百年、その間、いかに楽しく生き、大きな財産をつかみ、贅沢をし、名声を得て人々から賞賛される人生を送ったとしても、そんなものはあっという間に幕を閉じてしまいます。若い人は実感できないかもしれませんが、ある程度の年齢になると、人生というものは本当にあっという間の短いものであることが実感できるはずです。

 しかし、死が間近にせまったとき、地上的な事物に強い執着を抱いていると、精神的に苦しむことになります。無理やり地上の事物から切り離されてしまうわけですから、当然でしょう。
 ですから、ある程度の年齢になったら、少しずつ地上の事物への執着や未練といったものを捨てていくようにすることが大切だと思います。
 いえ、人間はいつ死ぬかわかりませんので、いつ死が訪れてもいいように、年齢にかかわりなく、なるべく地上の事物への執着や未練をなくしておいた方がいいのではないかと思います。
 衣食住においては、贅沢を避けて質素な生活で満足するようにするのです。家族や友人に関しては、愛情をもっているのは当然であるにしても、過剰な愛着はもたない方がいいと思います。人情としては難しいと思いますが、人生の無常さは容赦ありません。どんなに手放したくない、別れたくないと願っても、ばっさりと断ち切られます。そのとき、執着が強ければ強いほど、その苦悶も激しいものとなるわけです。
 もっとも、死を自覚するよりも前に、認知症になれば、そうした苦悶も受けなくてすむのかもしれません。その意味では、認知症は苦悩を回避するという意義があると言えなくもありません(ただし家族や周囲を苦しめる原因になる場合はありますが)。
 いずれにしろ、地上世界に生きるということは、大変なことです。そして死ぬということも、大変なことです。誰も死を避けて通ることはできません。いつかは、私の父あるいは母が経験したことを、ほとんどの人が経験することになるのです。

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