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心の治癒と魂の覚醒

        

地上人生の目的 ②

 まずはご報告とお知らせから
 今月のイデア ライフ アカデミーは、前回に引き続きシュタイナーの瞑想法について紹介しました。目的は霊能力の開発ですが、それは同時に、人格向上のための、きわめて貴重な教えの宝庫でもあります。ぜひダイジェスト版をご覧ください。
●瞑想教室第26回「シュタイナーの瞑想法2」
なお、来月(9月17/18)の授業は、社会心理学者エーリッヒ・フロムを取り上げます。現代人を悩ませる自由と孤独について、また真の愛とは何かについて紹介していく予定です。参加ご希望の方は以下まで。
斉藤啓一のホームページ

 では、本題に入ります。
 前回は、地上に生きる目的は「人格を高潔にする修行」のためであり、それが真の幸福への道であること、真の幸福とは、死後、高い霊的次元に移行することであると述べました。地上とは、予備校のようなもの、あるいはトレーニングジムのようなもので、重いバーベルを持ち上げて負荷をかけなければ筋力はつかないように、この地上で、さまざまな苦しみを経験することで魂は鍛えられ、高潔な人格が形成されることを説明しました。
 ところが、この世の成功や名声や物質的な豊かさといった、むなしくはかない、つまらないものを、必死になって求めているのが、たいていの人たちであること、しかし、とはいえ、そういう人は、ある意味、それでいいのだと、そこまで説明しました。

 今回は、いったいなぜ、むなしくはかないこの世の成功や名声や物質的豊かさを追い求めている人は、ある意味で、それでいいのかという説明をしたいと思います。
 結論から言えば、それも長い眼で見れば「修行」だからです。
 成功や名声や豊かさといったものは、それを手に入れるまではすばらしいものだと誰もが憧れますが、いざ手にしてしまえば、幸せを感じるのはしばしの間だけで、みるみると感激が薄れてきます。すると、人間の欲にはきりがありませんから、「もっとすばらしい成功、もっとすばらしい名声、もっと豊かな生活」となります。そのために必死に働きますが、人生いつもうまくいくとは限りません。失敗することもあります。人間は、一度味わった贅沢や生活水準を下げることには、非常な苦痛を覚えるものです。しかしどうしてもそうせざるを得ない状況に追い込まれることもあります。そうして、嫌と言うほど辛酸をなめて、ようやくこの世の成功や名声や豊かさのはかなくむなしいことを悟るのです。
 そうして、人間の真の幸せとは何かということを深く真剣に考え、その結果、この物質世界を超えた霊的次元に、その可能性を見出そうとするのです。しかしそうなるのは、今生ではなく来世かもしれません。しかし、骨身に染みて物質的な快楽を追い求めることに嫌気がさした人(魂)は、修行の取り組み方が違います。ものすごく真剣になります。その結果、非常に早い進歩を遂げるのです。

 一方、そこまで地上的な世界に嫌悪せず、なんとなく霊的な事柄が好きだという程度の、いわば中途半端な人は、霊的な教えを学んでも、深く学ぼうとしませんし、真剣さが足りません。ですから、せいぜい霊的な知識が豊富になるだけで、高潔な魂を育成するまでには至らないことが多いのです。そうして、生まれ変わって来世になっても、やはり中途半端となり、霊的探求は単なる趣味程度になって、また来世に……というように、いつまでもずるずると先延ばししてしまいます。

 以上のような理由から、中途半端に霊的な知識をもてあそぶ人よりも、そういったことにはまったく無関心で、この世の成功や名声や豊かさを貪欲に求めた人の方が、結果として早く高潔な魂を実現させ、真の幸せをつかむようになる可能性も否定できないと思っているのです。
 ですから、霊的なことをまったく否定し馬鹿にして、この世の富や名声に執着し追い求めている人を見ても、私は特になんとも思わないのです。「急がば回れ」という言葉があるように、今はそのように生きることが、その人にとっては最善かもしれないからです。

 それともうひとつの理由は、この世の成功や名声や富を手に入れるために必死になって、仮にそれが実現されたなら、それはこの世の物質的繁栄に貢献したことになるということです。
 霊的な道を歩む人の中には、物質的なものを追い求めている人を軽蔑するふしが見られたりしますが、それは間違いです。霊的な道を歩むにしても、ある程度は物質的に恵まれていなければできません。寝るところも、食べるものも、着るものもない、というのでは、修行どころではありません。学ぶためにどこかに行くとしても交通費がかかります。むかしは歩いていくより他はありませんでした。物質的なものを追い求めてくれた人のおかげで、電車やクルマや飛行機が発明され、私たちは時間を節約して遠い場所に行くことができるようになりました。最近ではインターネットを通して地球上どこにいても(電波が届く範囲なら)、リアルタイムで霊的な教えを学ぶことすらできるようになりました。こうした恩恵にあずかることができるのも、物質を追い求めてくれた人のおかげなのです。ですから、物質的なものを軽蔑したり、物質的なものに執着する人を軽蔑したりしてはいけないのです。

 とはいえ、それでもこの物質的な世界における幸せというものは、非常にレベルが低いということも確かなのです。そのことに気づかないのは、高い霊的次元の幸せを知らないからです。人間は、比較するものがないと、どうしてもそのものの価値を知ることができません。高い霊的次元のすばらしい至福を少しでもかいまみたら、物質的な幸せなど、いっきに色あせます。ゴミのようなものだとさえ思うでしょう。それを知っている人たちが、いわゆる聖者と呼ばれる人たちなのです。釈迦やキリスト、その他、大勢の聖者が異口同音に同じことを説いています。
 それとも、彼らは単なる狂人で、単なる幻想を見ただけなのでしょうか? 脳内麻薬物質が何らかの原因で過剰に分泌されただけなのでしょうか? 本当に霊的次元に至福の世界など存在するのでしょうか?
 この点については、次回、とりあげたいと思います。

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人生をどう生きるか | コメント:2 | トラックバック:0 |

地上人生の目的 ①

 今回は、あらためて人生に対する私の基本的な考え方を紹介させていただきます。これは同時に、私が主催するイデア ライフ アカデミーの考え方、理念でもあります。
 まず、地上人生は何のためにあるのか、言い換えれば、生きる目的は何かと言えば、「人格を高潔にする修行」のためです。なぜ人格を高潔にする必要があるのかと言えば、真の幸福をつかむためです。真の幸福とは、死後、高い霊的次元に移行することです。
 高い霊的次元に行くには、人格を向上させ高潔にならなければなりません。なぜなら、霊的な世界は「類は友を呼ぶ」世界であり、高潔な魂は高潔な魂どうし、下劣な魂は下劣な魂どうしが集まる世界だからです。下劣な魂たちが集まっている世界に、真の幸福はあるでしょうか。そこはだましあいの世界であり、人を傷つけても自分の利益を追求する世界であり、羨望、妬み、憎しみ、争い、足の引っ張り合いの世界です。そんな世界に真の幸福があるわけはありません。しかし、高潔な魂だけが住む世界は、愛と誠実さで結び合っているはずであり、真の幸福があるとすれば、そこにこそあるでしょう。

 地上世界は、高潔な魂も下劣な魂も、混ぜ合わさっています。しばしば、高潔な魂が苦しめられることもある理不尽な世界です。正義や愛というものは、まれに花火のようにちらりと見られることもありますが、基本的には悪や利己主義がはびこる世界であり、悲惨なことが平気で起こる世界です。つまり、はっきり申し上げれば、この地上世界に真の幸せは存在しないのです。

 こうした、ある種の厭世的なことを話しますと、少なからず反感を覚える人もいます。しかし、私は決して自分の考え方を人に押し付けることはしません。私と考え方が違うからといって、その人を軽蔑したり反感を抱くこともありません。
 なぜかというと、私の考え方が間違っているかもしれないからです。私の考え方は科学的に証明されたわけではなく、あくまでも私の、ある種の確信といいますか、信念にすぎません。たとえいくら自分では正しいと思っていたとしても、つまり確信していたとしても、しょせんは「信」、つまり「信じる」ということが土台にあるわけで、信じるということには必ず間違う可能性があるからです。

 私がやっていることは、いわゆる宗教ではないので、私の考えを信じなさいとは言いません。しかし、自分の頭で理性的によく考えていただきたいとは思います。
 たとえば、「(地上の)人生は悲惨である」という私の考えについて、(私が考えたように)こう考えていただきたいのです。
 まず「地上には悲惨な人生を送っている人は存在するかしないか」と。そうしたら、ほとんどの人は「存在する」と答えるでしょう。これはあきらかな「事実」と言えるでしょう。
 では、「その悲惨な人生が、自分に訪れないという保証はあるか」と考えてみてください。そうしたら、やはりほとんどの人は「そんな保障はない」と答えると思います。これも「事実」と言えるでしょう。
 つまり、私たちはいつ、悲惨な人生を送らなければならないか、わからないということになるのです。私たちは、きわめて不安定な、きわどく危なっかしい人生を送っていることになるのです。これも事実ではないでしょうか。今までは、たまたま運よく悲惨なことが起こらなかっただけで、いつ悲惨な状態に叩き落されるか、誰にもわからないのです。それは明日にも訪れるかもしれないのです。
 もちろん、個人差はあります。一生を悲惨なくして平穏無事に、なかには幸運に恵まれて終える人もいるでしょう。しかし、誰もが悲惨な状況になる可能性があるという事実をもとに、人生というものを一般的に定義するならば、「人生は悲惨である」ということになるわけです。悲惨というものが、誰の人生であれ存在するからです。あなたの人生が悲惨になるかどうかはわかりません。しかし、「悲惨になる可能性がある」ことだけは確かです。これは事実でしょう。

 そのような世界で、真の幸福というものを追い求めることができるでしょうか。一時的に幸福を覚える経験はするでしょうが、ほとんどそれは長く続きません。長く続いたとしても、最終的には病気や老化、そして死によってすべては失われてしまいます。地上の人生というのはきわめてはかないものなのです。なぜなら、地上の人生は物質の人生であり、物質は無常であり、はかないからです。そもそも肉体(という物質)を持っているというだけで悲惨です。若い頃は健康で美しくても、歳を取れば健康は失われ醜くなってきます。肉体があるから、私たちはその肉体の住む家、肉体を養う食、肉体にまとう衣服をどうにかしなければなりません。そのためにあくせく働かなければなりません。そして簡単に健康は失われ病気になります。そのたびに痛みや苦しみ、不自由さに見舞われます。さらにそれを治療するためにお金がかかります。
 また、生まれつき、あるいは人生の途上で著しく肉体機能が失われる、つまり、障碍者になる可能性もあります。障碍者が必ずしも不幸だとは申し上げませんが、あなたは障碍者になりたいでしょうか? 誰も望む人はいないでしょう。しかし、その望まないことが平気で起こるのが、この地上人生なのです。もし肉体をもたずに存在できるとしたらどうでしょうか。以上のような煩わしさからいっぺんに解放されるのです。
 人生の苦労の大半は、肉体があるゆえに起こっています。肉体を持たないというだけで、どれほど救われることでしょうか。逆に言えば、肉体を持っているというだけで、すでに苦しみであり、悲惨なのです。

 では、そんな地上の人生に、私たちは何のために生きているのでしょうか?
 それは、人格を向上させて高潔になって、死後に真の幸せを得るための「修行」のために生きているのです。私たちは、この地上人生に、幸福になるために来たのではなく、修行のために来たのです。たとえるなら、地上とは、大学(真の幸福が存在する高い霊的世界)へ行くための「予備校」のようなものです。予備校に遊びに行く人はいないでしょう。予備校は勉強するところです。もちろん大学も勉強するところですが、大学では好きな勉強ができますから幸せです。しかし予備校では、受験のために、嫌いな勉強もしなければなりません。それはとても辛いものです。しかしそれは大学へ行くために必要な勉強なのです。

 人生も同じです。嫌いな勉強もしなければならないのです。だから修行なのです。修行は遊びではありません。修行は辛いものです。自分の悪しきところを改善することは、基本的に辛いものだからです。辛いから修行になるのです。
 この地上人生は、辛いことに満ちています。しかし、これでいいのです。だからこそ修行になるからです。ここは予備校であり、トレーニングジムなのです。ジムに行って鍛えるには、重いバーベルを持ち上げて負荷をかけなければなりません。そうしなければ筋力はつきません。重いバーベルを持ち上げているときは、ある種の辛さ、苦しみを感じているでしょう。しかしこれで筋肉がついてマッチョな格好いい肉体になれると思っているから、その辛さに耐えていけるわけです。負荷をかけなければマッチョにはなれません。

 人生も同じです。辛さ、苦しみという負荷を、あえて自分に課さなければ、高潔な人間になることはできないのです。つまり、真の幸せを得ることはできないのです。繰り返しますが、私たちは修行するために地上に生まれてきたのです。ですから、辛いことや苦しみが訪れることは、当然なのであり、決して悪いことではないのです。むしろよいことなのです。ある意味、苦しむために生まれてきたのです。
 もちろん、マゾヒスティックにやたらに苦しみを求めるべきだと言っているのではありません。ただ、人格を向上させ、高潔になろうとすると、自然と辛いことや苦しいことがやってくるようになります。それを受けて立つ勇気と、じっと耐え抜く忍耐が大切になってきます。勇気と忍耐こそは、真の救い、真の幸福に至る上での貴重な資質であり、こう言ってよければ、貴重な「才能」なのです。

 ところが、以上のような(私がそうだと信じる)真実に気づかず、この世の、いわゆる成功や名声や物質的な豊かさだけを追求している人がほとんどです。これでは、予備校に遊びに行っているようなものです。この世の成功、名声、物質的豊かさに比べたら、はるかにすばらしい真の幸福が存在するというのに、それに気づかず、むなしくはかない、つまらないものを、必死になって求めているのが、たいていの人たちなのです。
 とはいえ、そういう人は、ある意味、それでいいのです。
 その理由については次回、述べさせていただきます。

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