心の治癒と魂の覚醒

        

 瞑想法 その5

 さて、アジナー・チャクラに光球をおいて、それに意識を集中することは、同時に神への集中である(そのような意図で行う)と申し上げました。キリスト教の神秘家は、ひたすら神への祈り、神の観想によって覚醒をしているわけですから、ただ機械的な気持ちでアジナー・チャクラに集中するのではなく、神を前にしたときにふさわしい思い、すなわち「畏敬」の念で集中することが大きなポイントになります。
 シュタイナーも「畏敬の念は神秘修行を志す者が絶対に養うべき感情であり、これなくして神秘道が成就することはない」とまで言っています。実際、畏敬の念というものは、高い次元の感情であるがゆえに、とても大切なものなのだと思います。
 ところが、この「畏敬の念」というものは、辞書的な意味としては理解できても、実感としては、よく把握できないのではないかと思います。もしかしたらその点では、むかしの人々の方がよくわかっていたかもしれません。むかしは、偉い人を敬うといった気持ちがあったと思います。教師や先生と呼ばれる人には、それなりの敬意を表して対応したと思います。しかし、そういう気持ちは少なくなっているように思います。
 畏敬を広辞苑で引くと「(崇高・偉大なものを)かしこまり敬うこと」とあります。畏敬の「畏」というのは、「おそれる」ことです。
 したがって、畏敬というのは、あまりにも崇高で偉大なため、思わずおそれてしまう気持ちがあるわけです。もし本当に神と遭遇したら、そういう気持ちになってしまうだろうということです。もちろん、「おそれる」といっても、暴力団や強盗に遭遇したときのような「おそれ」とは違います。こういう人たちは私たちを怖がらせることを目的としますが、神にはそんな意図はありません。それどころか、神は愛ですから、どこまでも深く慈愛を持って私たちを包み込み愛してくれる存在のはずです。ところが、あまりにも偉大すぎるので、人間の側が勝手に「おそれ」を抱いてしまうわけです。なぜ、あまりにも偉大な存在を前にすると「おそれ」の感情が湧いてくるのか、その心理的なメカニズムはよくわかりませんが、それが単純な恐怖心とは少し違う、うまく表現できないような感情であることは確かです。
 いずれにしろ、本当に畏敬の念を抱いたなら、神である光球に対して、非常によく精神集中ができるようになります。精神集中を支えているのは、強烈な動機です。たとえば、やくざに絡まれているときに「今夜の夕食は何を食べようかな?」などという雑念は浮かんでこないはずです。必死に今の状況に精神を集中しているはずです。
 それなのに、神に意識を集中している最中に、「今夜の夕食は何を食べようかな?」といった雑念が出て来るということは、本当に畏敬の念を抱いていないのだと思います。このような雑念が出るということは、言葉は悪いですが、「神をなめている」のです。
 光球(神)を前に精神を集中しているときは、「神を前にしているつもり」で行わないようにして下さい。「つもり」になってしまうから、畏敬の念が湧かずに精神集中を深めることができないのです。「つもり」ではなく、「本当に」神を目の前にしているのだと思って下さい。実際、本当に神は目の前にいるのです! 神は時空を超えて、真剣に道を求めている人のことはすべてわかっています。さもなければ神ではありません。神は私たちの心をずっと見つめています。念じれば目の前に存在するのです。
 この広大な宇宙を創造した神、溢れるような愛と途方もない智恵を持った神、それはアメリカ大統領よりも天皇陛下よりも、坂本龍馬よりもマイケル・ジャクソンよりも、「嵐」よりも(笑)、はるかにはるかに、はるかに偉大なのです(比較になりません!)。
 そんな偉大な存在を、本当に、目の前にしているのです。「おそれ」で、からだが震えてこないでしょうか? そんな畏敬の念で精神集中をしたら、信じられないほど行が進むはずです。
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コメント

こんばんは、斉藤先生。
 
私は先生やこのブログのみんなと共に覚醒したいので、自分が気づいたことを提案させてもらいます。

私は今まで、将来の希望が絶たれ、病気にまで追い込まれる経験を4度しましたが、最後の1度は神が与えた試練と考え、心から感謝しました。その直後にクンダリニーが動きだしたのです。

どうやら、苦しみや傷みをじっと耐えるだけでは、負の感情でそれらを迎えてしまっているようなので、それを「神様からのメッセージ」として歓喜して迎え入れるようにするとよいと思います。

そして日常生活に訪れる全てが「祈りの時間」と考えて愛の感情で受け入れてください。負の感情を反射させてはいけません。

そんな感じなのです。うまく説明できなくてすいません。今まさに苦しみや傷みのまっただ中にいる方、どうか実践してみてください。自分の中で何かが変化していきます。
2011-01-17 Mon 18:27 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ワタナベさん、貴重なコメント、どうもありがとうございました。この言葉はまさに本質をついたもので、きっとたくさんの人の支えになると思います。私もとても励まされました。
せっかく大きな霊的進歩を遂げるチャンスとして苦しみが訪れたのに、それに耐えきれず、みすみす貴重な機会を失ってしまうというのは、何とも残念なことです。苦しいときは本当に苦しいのですが、何とか耐え抜いて、道を開いていきたいものです。

このブログは、みんなで知恵を出し合ってともに覚醒をめざしていくことが目的です。その他の皆さんも、よろしければどんどんとご意見をお寄せ下さい。

2011-01-17 Mon 21:21 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]
 ワタナベ 様のコメントに励まされました。
くじけて、神と運命を嘆く誘惑が雑念となってくることが多いです。耐えるだけで前へ進めず、行の形は真似できても徳が実行できず、ただ呆然としいている自分ですが、頑張っていきたいと思います。
2011-01-22 Sat 11:10 | URL | うの [ 編集 ]
斉藤啓一です。コメントありがとうございました。
お辛い状況にあるご様子ですが、そういう状況をただ耐えるだけでも、それはある種の瞑想のような状態になっており、実は前進しているのではないかと思うのです。
自我という幻想をうち破るのは、辛いものです。神の愛というものは、その点では厳しいですね。過去の聖者の記録を見ても、たくさんの嘆きや苦悩が告白されています。
しかし、これは天国に続いている「険しい道」です。どうかくじけないで、しばらく耐えていただきたいと思います。たくさんの人が地獄へ続く「安楽な道」を歩んでいるのではないでしょうか。そう思えば、たとえ険しくでも、その先が天国(真の幸せ=覚醒)に通じている道を歩んでいる私たちは、幸せだといえるのではないかと思うのです。
2011-01-22 Sat 15:25 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]

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