心の治癒と魂の覚醒

        

 ワタナベさんの体験談の感想

 ワタナベさん、貴重な体験をどうもありがとうございました。
まず、統合失調症を患っておられたとのことですが、統合失調症と霊的な障害はしばしば混同されやすく、医師はその区別はできませんから、霊的な障害でも統合失調症という病気にされてしまうことはけっこうあるようです。
 ところが、東北のイタコや奄美地方のユタという霊能者を育成する土地柄だと、統合失調症のような症状が現れても、それは霊的な目覚めのための一時的な混乱だとわかることが多く、それなりの対応をして霊能力を育てていくことができるわけです。やたらに薬などで抑圧して、そのために本当の病気にしてしまうようなことがないわけです。
 それはともかく、たぶんワタナベさんは前世で霊的な修行を積んでおられたのではないかという気がしました。そのため、クンダリニーの覚醒もスムーズに行われたのではないかと思うのです。要するに、もともと素質があるわけですね。
 ただ、自分に素質があるかどうかはわからないことが多いので、とにかく修行をすることが大切であると思います。素質があっても修行をしなければ開花しませんし、素質はないと思っていても、案外、修行をして素質があることがわかることもあるでしょう。
 もっとも、素質があろうとなかろうと、覚醒への修行はすべての人間(魂)の進むべき道であるとは思いますが。

 ところで、ワタナベさんが強調されていたのは、試練(苦しみ)に対して、どのような姿勢で臨むかです。これが、覚醒にとって大切ということです。私も同感です。テクニックも大切ですが、こうした心構えは、テクニックよりも大切なのかもしれません。少なくても、こうした心構えなくテクニックを行じても、大きな効果は期待できないように思います。
 私個人的には、ワタナベさんの次のひとことに、すべてが収束されているように感じました。

-生活する24時間すべてが修行であると意識して、神様のことを忘れないように、すべての事柄・人物・病気を「神様のあらわれである」と考えました。-

 まさに、これにつきるのではないでしょうか。
 神は愛だと思いますので、この「神」を「愛」と言い換えてもいいと思います。つまり、「すべては愛の現れだ」ということですね。苦しみは愛をもって受け入れる、これが宗教の極意ではないかと思うわけです。
 もちろん、これは簡単なことではありません。簡単にできるようなら修行とは言えないでしょう。全身全霊をもって真剣に臨んでいかなければ、こういう心境に近づくことはできないと思います。イエスがいうように、まさに天国への門は「狭い」わけです。
 しかし、これこそが、人間がこの地上という学校を卒業するための、最後の卒業試験ではないでしょうか? これが、私たちの「最後の戦い」ではないでしょうか。これさえ打破できたら、あとはどのような障害が人生に残っているというのでしょう。
 ワタナベさんが言われるように、どんな人にも、愛する人にも憎い人にも、太陽のように愛を放つことができるように、努力をしていこうではありませんか。
 やはり、誰かを憎んでいるような人が、瞑想だとかクンダリニーの覚醒といった修行をしてそのまま覚醒するとは、思えないのです。たとえ愛するまではできなくても、「誰をも悪く思わない」という境地にならなければ、覚醒は不可能ではないかと思います。

 プライベートに関わることなど、言いにくいこともあったかと思いますが、それでも私たちに貴重な体験を開示してくださったワタナベさんには、心から感謝いたします。
 今後また機会があれば、再び体験やご意見をお伺いできればありがたく思います。
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コメント

ワタナベさんの神様に対する思いは、とても立派です。
見習って、私も信仰を深めるよう頑張ります。
神様の力を借ります。

年末からやっている10分瞑想も怠けがちですが
もっと頑張ります。
2011-02-03 Thu 23:38 | URL | 両さん [ 編集 ]
斉藤啓一です。コメント、ありがとうございました。
本当に、立派ですね。見習いましょう。
10分間瞑想、がんばってください。
それと、やはり瞑想の時間を特別にとるだけではなく、何をやっていても、可能な限り祈りといいますか、神に思いを向けているのがポイントのようですね。
2011-02-04 Fri 20:39 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]
お早うございます、斉藤先生。私の体験をとりあげていだだいてありがとうございます。

今回は神様(指導霊)は流儀にこだわるらしいということを提案させてください。

今さらと思われるかもしれませんが、神秘修業は一種の降霊術になっています。私の場合、本格的に始めてからは、修業開始とともにラップ音があったり、朝の修業をせず寝てたりするとベッドの横を誰か歩いてる音がしたりは以前からありました。
それで漠然と「いるかも」ぐらいには感じていましたが、今朝方「いる」という確信に変わりました。

私は瞑想のときCDでグレゴリアン・チャントをかけるようにしていましたが、最近、チベット密教をかけるようになったあたりから、ラップ音に変化があり、今朝になって神道の祝詞をかけると、本棚から本が落下してきました。地震のときにもそんなことはありませんでした。「流儀を統一しろ」とお怒りになったんだと思います。

すぐあとでその方角に詫びをいれましたが、どうやら、霊的な存在は「物理的」にいて、感情を持っているようです。よくしていただいた神様を怒らせてしまって、現在かなりヘコんでいます。

みなさんも修業するときは流儀を統一したほうがよいと思います。
2011-02-05 Sat 07:33 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。再び、貴重な体験についてコメントいただき、ありがとうございました。
これについては、このコメント欄では納められないので、ブログにて、私の考えをご回答させていただきたいと思います。
よろしくお願い致します。
2011-02-05 Sat 09:39 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]

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