心の治癒と魂の覚醒

        

 人格の向上

 人生というものは、50歳を過ぎたら、できれば40歳を過ぎたら、自らの人格を磨くことを、他の何よりも優先して全力を尽くすべきだと思う。人格を磨き、人間的に高潔で立派になることが、結局は人生の目的であり、この地上に生まれてきた目的なのだから。
 もちろん、30代、20代、10代でそのような志を持つならば、それはすばらしいことだ。しかし10代から20代にかけては、世の中というものも自分というものもよくわからないし、若い情熱をもって世の中を知りたいという欲求がある。それは人間形成にも必要なことなのだから、思う存分に世の中に出ていろいろな経験をすることにエネルギーの中心を向ければいいと思う。
 20代から30代になると、世の中というものもだいたいわかってきて、今度は世の中に働きかけて自分の可能性を試したいという欲求が出てくる。それも人間形成には必要だと思うので、思う存分やればいいと思う。
 しかしいずれにしろ大切なことは、全力で真剣にやるということだ。だらだらといい加減にやるなら、そこから得られるものは何もなく、後の人間形成に貢献するものも得られない。
 この時期には、苦労や失敗が多ければ多いほどよい。たとえばこの時期に「棚からぼた餅」のような「幸運」に見舞われると、もうそこで退廃が始まるだろう。たとえば株などで大儲けしたといったことだ。そんな幸運はない方がいい。人生を真剣に生きなくなるからだ。若い頃に人生を真剣に生きなくなると、歳を取るにつれて醜悪になってくる。そして、歳を取ってから人生を真剣に生きようとしても難しくなる。というより、そんなことは思いも寄らなくなるだろう。いつの年代でも、人生は真剣に生きられなければならない。
 さて、そんな30代を過ぎて40代になると、世の中のこともだいたいわかり、自分の力も試して気が済むようになってくる。そうなると、いったい次にどのような目的があるというのか? ただ馬車馬のように仕事にのめり込んだり、飲み食いしたり、趣味に興じたりするだけで、人生の目的を見失ってしまう。まるで羅針盤を失った船のように。
 その意味では、もっとも危険な時期ではないかと思う。この年代が大きな分岐点になる。少し大袈裟にいえば、俗人になるか聖人になるかが決まる。老人になったとき、醜悪となるか美しくなるか、この年代で決まるのではないかと思う。この年代は、どちらの道を歩むようになるか、模索する時期なのかもしれない。
 そのため、やはりこの時期も幸運という「災難」には恵まれない方がよい(自ら努力してつかんだ幸運であればもちろんOKだ)。できれば、ある程度の挫折や苦しみを味わった方がいい。その方が人格向上の道に進むきっかけになりやすいからだ。もちろん一番いいのはそうした苦しみを味わうことなく、人格向上の道を志すようになることだ。しかしそれが無理なら、不運を味わってでも人格向上の道を歩むようになった方がいい。
 そうして50歳からは、仕事や私生活は大切にしながらも、興味の対象は自分自身を磨くこと、人格を向上させること、神の道具となるべく高潔で豊かな人間性を構築させることに可能な限り集中し、全力を尽くすべきだと思う。
 そして、この生き方を死ぬまで続けることだ。
 人格の向上に「これでいい」というゴールはない。人間は一生涯、生長し続けなければならない。どんなに自分を高めても、まださらに高い地点が存在する。「自分は立派になった、もうこれでいいのだ」などといった高慢や自惚れの気持ちが出たり、「自分は立派だが周りの連中はレベルが低い」などといった差別意識が出たとしたら、今までの努力は偽物だ。まるでメッキのように表面的なものだけを繕っていたに過ぎないことになる。なぜなら、そのような高慢や自惚れや差別意識そのものが、俗悪な畑から生える雑草のようなものだからだ。
 人格の向上とは、清浄で肥沃な畑を作ることだ。すぐれた畑さえ作れば、あとは自然に、美しい花々や樹木のようにあらゆる美徳が生まれ育っていくだろう。
 そして、人格の向上をめざす者が唯一ゆるされる喜びは、自分の畑がそのような美しい花々や樹木でにぎわっている光景を見ることである。これは自惚れではない。
 魂からの純粋で神聖な喜びである。
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コメント

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2011-02-08 Tue 18:12 | | [ 編集 ]
斉藤啓一です。「自分も人格の向上を目指していきたいと思います」というコメント、ありがとうございました。
このような志を表明していただけるというのは、なんと嬉しいことでしょうか。
こういうことをいうと、まわりから変な目で見られるとありますが、そうなのでしょうね。
けれども、未来の人類は違います。このような志が当たり前の人が平均的な国民になるのです。
そういう時代を創造していく人というのは、当時の世間からは変な目で見られるものなんです。
でも、それでいいではありませんか(笑)。
がんばっていきましょう。

2011-02-08 Tue 19:25 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]
こんばんは、斉藤先生。カバラ数秘術の講義お疲れ様です。

瞑想のとき、CDを使わないようにしたら霊障の類はやみました。そして、アジナーチャクラへの集中度が増しました。心で音を追わなくなれば、集中度が増すのは当たり前でしたね。それを指摘されていたような気がします。

今では、瞑想時間を少し減らして、アジナーチャクラの光を維持したまま日常生活をおくるような方法をとっています。毎日の中で起こる事件、出会う人などにその光を放射するようなイメージをもつようにしています。おかげで退屈というようなことは全然ありません。すべてが修業と関係しています。

現在背骨中央部にまで圧迫感が広がってきて、ときどき傷みますが、クンダリニー上昇のような光は出てきません。ところで、どうして体内の光が目を閉じているのに見えるのでしょうね?
2011-02-11 Fri 18:12 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ワタナベさん、寒かった今日一日を暖めてくれるようなコメントに、感謝です。

それと、今回のワタナベさんの少し変わった経験も、今後、あるいはすでに、似たような経験をする人がいる可能性がありますので、その意味でも、貴重な情報を提供してくださったものでした。心より感謝いたします。
すべてを修行にするための工夫とアイデアもありがとうございます。多忙でまとまった時間がとれなくても、このような工夫しだいでいくらでも修行の時間はとれるようになれますね。「意志あれば道あり」ということでしょうか。

ところで、体内の光が目を閉じているのになぜ見えるかですが、おそらく人間の魂である意識体は、360度方向の視力を持っているのだと思います。幽体離脱した人が世界を見ることができるのと同じだと思います。だから、肉眼をその方向に向けなくても、なぜか見えるのですね。不思議といえば不思議ですが、実は、これが本来の姿なのかもしれませんね。
今後も体験のご報告楽しみにしています
よろしくお願い致します。
2011-02-11 Fri 19:53 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]
なるほど、魂はよく球体で表現されますね。あれは全方位視覚というわけですね。納得です。
2011-02-11 Fri 21:05 | URL | ワタナベ [ 編集 ]

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