心の治癒と魂の覚醒

        

性とスピリチュアリティ

 性(セックス)の問題と、霊的覚醒やスピリチュアリティとは深い関係があると言われており、そのためいつかこのブログで論じていこうと思っていたのですが、先日、読者の方から、この問題についてどう考えているかと質問を受けましたので、今回はこの件について考えを述べさせていただこうと思います。といっても、一回や二回で片づく内容ではないので、今後、何回かに分けていくことになるでしょう。

 さて、性的な事柄と霊的な事柄は深い関係があるとされているのですが、たとえばヨーガやヒンズー教などインドの宗教では、男女の性の交わりは神性なものと考えられている側面があり、私がむかしインドへ行ったとき、ある寺院の外壁に、これでもかというほど男女が交接している像が数多く彫り込まれていました。寺院にこのような像が飾られているなど、キリスト教やイスラム教などではとても信じられないことでしょう。ニューエイジの精神世界などでは、セックスの絶頂感は、悟りの境地と同じであるといった主張をしている人もいるようです。
 一方、キリスト教などでは、性はインドの宗教とは別の意味で霊的な関係を持っています。インドの宗教が、どちらかと言えば性を肯定的にとらえているのに対して、キリスト教では否定的にとらえています。性に関することは非常に罪深く、人間を堕落させる不浄なものだと考えられているのです。
 この点について、有名な数学者で哲学者ののバートランド・ラッセルは、自らの著書『なぜ私はキリスト教徒ではないか?』において、キリスト教が性の罪深さを、まるで殺人と同じか、場合によってはそれ以上に重く見ている傾向はおかしいと指摘しています。私も正直なところ、これほど性を罪悪視する傾向には、なにか精神的に病んだものを感じなくもありません。
 しかしだからといって、性がそのままスピリチュアルなものだと考えることも、正しいとは思えないのです。

 性の問題に限らず、どのような問題でもそうなのですが、私はひとつの基本的なスタンスを持っています。それは「極端に偏らない」ということです。極端に偏った考え方は、どこか間違っている気がするのです。これは感覚的なものにすぎませんが、やはり真理というものは微妙なバランスのなかに、中道に、あると思うのです。
 したがって、性というものを評価する場合、私はそれを過大にすばらしいものとしても評価しませんし、過大に罪深く汚れたものだとも評価しません。性のあやまちをおかしたからといって、地獄に墜ちて永遠の罰を受けるとも思いませんし、セックスをすれば悟りが開かれるとも思っていません。

 性の問題を論じるときの難しさは、それが性だけの問題ではないということです。たとえば、性欲だけでセックスしている人はいないでしょう。そこには感情が伴っているはずです。感情は複雑ですから、そのために性の問題も複雑になり、単純に善いとか悪いとか決められないことが出てくるのです。
 たとえば、社会的には夫婦や恋人とのセックスは善しとされますが、売春や不倫は悪いとされます。売春が違法なのは、そこに金銭のやりとりがあるからです。つまり、相手をモノ扱いしているからです。
 ならば、たとえ夫婦の間であっても、たとえばもし妻が「夫に愛情はないが、生活をめんどうみてくれるかわりに体を夫に貸すのだ」と思ってセックスをしているならば、それは売春行為と同じではないでしょうか? セックスは愛し合う人とだけ行うべきだとするならば、愛がない相手とセックスをすることは、倫理道徳的にゆるされることなのでしょうか? これもある種の「不倫」であると言えないでしょうか?
 第一、異性をモノ扱いしている人は、本当の意味で「セックス」をしているとは言えません。ただ異性の体を使って「マスターベーション」しているだけです。

 性の問題を難しくさせている他の要素としては、とくに覚醒修行の場合、性のエネルギーが覚醒のエネルギーと直結しているらしいという理由があります。そのため、性的禁欲が推奨されていることが多いのですが、しかしなまじ禁欲をすると、そのエネルギーが精神を不安定にさせてしまい、かえって逆効果になるということもあるようなのです。

 このように、性の問題は、一筋縄では解決できない複雑で多面的な問題を含んでいます。ですから、今後、時間をかけて論じていこうと思っています。

 ただ、これだけは言えるでしょう。
 それは、性に関する余計な偏見は捨てるということです。
 すなわち、性は恥ずかしいことであり、汚らわしいことであり、罪深いことであるという考えや想念です。性の問題をこれから論じていく前に、こうした考えは、いっさい消していただきたいと思います。白紙から考えていくべきだと思うのです。
 性そのものは恥ずかしいことでも、汚らわしいことでも、罪深いことでもありません。性に対して恥ずかしい心で接したときに、性は恥ずかしいものになり、汚らわしい心や罪の意識で接したとき、その性は汚らわしいものに、罪深いものになるだけです。
 たとえば、アダルトビデオで描かれている性行為は、ほとんど汚らわしいものです。なぜなら、女性をモノ扱いしているからです。換言すれば、その性行為には愛がありません。どのような性行為であれ、愛のない性行為はすべて汚らわしい、私はそう思うのです。
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