心の治癒と魂の覚醒

        

求道者の慰め

 いうまでもなく、覚醒への道は、決して平坦ではない。そんな道を歩む私、あるいはあなたを、世間の人は「変わり者」と思うかもしれないし、無謀だとか、妄想を抱いているとか、頭がおかしいなどとさえ思うかもしれない。
 もっとも身近な人、家族や友人や恋人でさえ、この道を理解してもらえないかもしれない。そんなとき、私たちは孤独にこの道を歩まなければならない。この道でいかなる辛いことに遭遇しても、だれにも理解されない以上、自分で自分を慰めて歩いていかなければならない。そのこと自体が、なににもましてこの道を歩む辛さではある。

 覚醒への道は、何か特別な存在になる道ではない。
 まったく逆に、人間が(本来の)人間に帰る道である。私たちはみんな旅人なのであり、さまざまな場所にでかけ、その行く先は人それぞれだろうが、最後に向かう道は同じだ。すなわち、家路である。異邦人は祖国に戻らなければならない。それが決まりだ。旅人たちの多くは、家路に帰る道がわからない。いや、自分の祖国がどこなのかさえわからない。そうしてさまよい歩いている。
 覚醒をめざしている私たちは、自分の祖国がどこなのか、たとえうっすらでも気づいたのであり、確信は持てないにしても、そこに帰還する道らしいものを発見した者たちなのだ。決して「変わり者」なのではない。それどころか、人間としてもっとも当たり前のことをしようとしているだけだ。たとえ、帰還への試みがいかに無謀に見えようとも、それが宿命づけられている以上、その道を歩んでいかなければならないのだと、私は思う。

 先人が若干の航路を残してくれているとはいえ、覚醒の地をめざすことは、未知なる海へ船出していくようなものといえるかもしれない。コロンブスが航海に出ようとしたとき、地球が丸いことを知らなかった当時の人々は「海の果てに行ったら(滝のように)落っこちてしまいますよ」と警告し、彼の試みを無謀だといった。
 今日、地球が丸いことは誰もが知っているし、数多くの船舶が地球の裏まで往来している。同じように、覚醒もまた、いつの日か、だれもがそれを常識として受け入れる日が来るに違いないし、その頃には、もっと簡単に人々は覚醒できるようになっているかもしれない。
 覚醒などということを考え、ましてやその道を歩もうとする人々などは、今日の人類のなかでも少数派の少数派、さらにまた少数派であろう。ほとんどの人は、そもそも「覚醒」などという概念さえ知らないし、理解できないし、理解しようとも思わない。もちろん、だからといって、覚醒をめざしている人が偉いとか、そうでない人は低いとか、そういう問題ではない。
 ただ、まだ航海が危険な冒険であった時代に航海に出てその道を開いた人が英雄だったように、まだ覚醒という未知なる道が危険であると見なされているこの時代において、それに挑もうとする私たちは、後世の人類から英雄であると見なされることだろう。覚醒こそが人間の本当の幸福の源泉であり、人類が抱える悲惨さに最終的な終焉をもたらす智恵の源泉であることは間違いない。そんな道を切り開いていこうとしている私たちは、たとえだれからの理解が得られなくても、自分は英雄なのだとひそかに思って(自分を慰めながら)道を歩むことにしよう……。

 覚醒をめざすときに気になるのは、「果たして自分にはそんな才能があるのか?」という思いだ。覚醒などというものは、お釈迦様だとかキリストだとか、もともと天才的な資質を持った人が、非常によい環境のもとで、非常な難行苦行の末にようやく到達できるもので、才能もあるとは思えず、環境も悪く、難行苦行などできない自分に、覚醒など不可能ではないのかと。
 だが、それはだれにもわからないのではないだろうか。
 オリンピックが最初に行われたとき、100メートル走で金メダルを取った人の記録は、今では高校生でも出せるような記録だった。その当時、100メートルを10秒以内で人間が走れるなどとはだれも思っていなかったが、今では10秒以内で走ることができる人は何人かいる。
 覚醒も同じではないのか? 確かに、むかしは難しかったかもしれない。あらゆる難行苦行を尽くしてようやく到達できたかもしれない。だが、その当時の記録に、私たちは今なお洗脳されており、できないのだと勝手に思いこんでいるのかもしれない。もしかしたら今は、むかしより簡単になっている可能性もある。
 曹洞宗の開祖である道元が、こんな言葉を残している。
「愚鈍というは、志の到らざるときのことなり」
 つまり、愚かなのは、志がないからだというのである。逆にいえば、志があれば利発になるというのだ。
 志があれば、簡単にはあきらめない。私たちはたいてい、ちょっと障害があると「これはできない、不可能だ」とすぐに結論を出してしまう。だが、志があれば、「できないなら、できるようにするにはどうすればいいだろうか? 不可能を可能にするにはどうすればいいだろうか?」と考える。その答えが見つかるまで、考えに考え抜く。
 すると面白いことに、できるようになる方法、不可能を可能にする方法が、けっこう見つかることが多い。エジソンなどは、電球の発明に一万回も失敗したそうだが、結局はやり遂げてしまった。ちなみに彼は、「私は一回も失敗していない。うまくいかない理由を一万回発見することができたのだ」といった。その前向きで健全な楽天さを見習うべきではないだろうか。
 覚醒も、そんな志で歩んでいくことにしよう。
 確かに、その道は楽ではないだろう。長期にわたる忍耐強い努力や自制心が求められるだろう。しかし、いかなる困難に遭遇しても、すぐに無理だと決めつける思考パターンをいっさい捨てることにしよう。そのかわり、どんなときでも「この困難を解決するにはどうすればいいか? 不可能を可能にするにはどうすればいいか?」と考えるようにしよう。
「神は自らを救おうとする者を救う」と聖書ではいっている。このような前向きな姿勢で道を歩んでいけば、きっと天からの助けも得られて、この険しい覚醒の道を乗り越えていくことができるものと思うことにしよう。
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