心の治癒と魂の覚醒

        

修行は辛く厳しいものか?

「修行」という言葉からは、辛くて禁欲的で厳しいといったイメージが浮かんでくるかと思います。確かに、宗教の世界で修行というと、何時間も座禅をしたり、真冬に水をかぶったり、断食などをしたりします。それは実際、辛いのではないかと思います。
 しかし、だからといって、「修行は辛い気持ちで行うべきもの」「辛くなければ修行ではない」といった考えは、正しくないと思います。むしろ、修行というものは、楽しんでやるくらいの気持ちが大切ではないかと思うのです。
 たとえば、ゴルフが好きな人は、ゴルフの練習は辛いとは思っていないはずです。それは楽しい娯楽であり、まして修行などとは思っていないでしょう。ちょっとした時間があれば傘などを振り回してスイングの練習をしていたりします。しかし、ゴルフなど好きではないのに、ゴルフを上達するために練習しなければならないとしたら、きっとそれは辛いと思います。それこそ「修行」だと感じるかもしれません。
 結局、何をするにしても、その気持ちしだいで娯楽にもなれば、(辛い)修行にもなるのだと思います。ですから、修行をするにしても、修行に楽しさを見つけるようにすれば、それほど辛くはならないのではないかと思うわけです。

 しかしながら、いくらゴルフが好きだとしても、プロとなると、話は別です。ゴルフに限らず、たとえばピアノが好きだとしても、プロのピアニストとなると、なかにはピアノなんて見たくもないという人もいるようです。いくら好きなことでも、ずっとやっていたら飽きてきます。娯楽でやっている人は、飽きたら止めればいいのですが、仕事でやっている人はそうはいきません。気分が乗っても乗らなくても、楽しくても楽しくなくても、やらなければならないのです。それは実に辛いのではないかと思います。
 覚醒の修行も同じです。飽きたからといって止めることはできません。気分が乗っても乗らなくても、楽しくても楽しくなくても、やり続けなければならないのです。そうなると、やはり修行というものは、辛いということになるのかもしれません。

 ところで、熱愛する男女が、いわゆる遠距離恋愛をしていたとしましょう。たとえば一ヶ月に一度とか二度ほど、新幹線に乗って相手のもとに会いにいくわけです。ところが、何らかの事情で交通手段が麻痺してしまったとします。恋人のもとに、歩いていかなければならなくなりました。そうして、恋人に会いに行くために、それこそ何日も歩き続ける人は、そのことを辛いと思うでしょうか?
 確かに、肉体的には辛いと思うかもしれませんが、精神的にはそうは思わないでしょう。一歩踏み出すごとに、あのすばらしい恋人に近づいているのですから、気持ちは喜びに満ちているでしょう。恋人に会ったときのことを思いながら、ワクワクする気持ちで、どんなに遠くても、どんなに日数がかかろうとも、ひたすら歩き続けていくに違いありません。それが恋に焦がれた者の情熱というものです(それができないようなら、それは恋ではなかったのです)。
 覚醒の修行も同じではないでしょうか。
 すなわち、私たちは神という最愛の恋人に会うために、一歩一歩、修行という歩みを進めているのです。人間の恋人に会って抱擁を交わすことも、いてもたってもいられないほど至福の喜びを与えてくれますが、神という恋人との抱擁は、おそらくその何百倍も何千倍もすばらしい甘美な喜びなのです。歩み続ける限り必ず会えるのだとしたら、すべての人は、どんなに遠くて、どんなに時間がかかっても、歩き続けていくに違いありません。
 修行が辛くて萎えてしまうのは、単純に意志が弱いとか、根性が足りないからではないのです。神という恋人がどれほど美しく、どれほど優しく、どれほど魅力的で、どれほどあなたのことを愛しているか、ただ、そのことがわからないだけなのです。そんな恋人と抱き合い、愛を交わし合う喜びが、どれほど幸せなものであるか、そのことに気づいていないだけなのです。
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コメント

近くの林の小道を通ると うぐいすの美しいさえずりが聴こえてきます。うぐいすもいきなり ホーホケキョ と鳴くわけではありません。ホーホーやケキョケキョと繰り返し さえずりながら いつの間にか ホーホケキョと鳴くようになります。覚醒への道も同じように思います。様々な経験を繰り返し その経験を糧として 小覚醒 大覚醒へと目覚めていくように思います。うぐいすに負けないようにしたいです(笑)。
2011-05-12 Thu 12:37 | URL | リョウナンダ [ 編集 ]
こんにちは、斉藤先生。たしかに修行は楽しんでやるべきだと思います。楽しんでなければ続かないというのもあるし、楽しいという感情が神の感情だと思うからです。

19さんの影響で日月神示を読むようになりましたが、神示では「嬉し嬉し」の気持ち、つまり歓喜こそが神の感情だと書いてあります。先生のブログでもサットヴァ・グナの心境こそ修行者に必要な要素であると紹介されていましたね。

ところで、アーサナの修行で気づいたのですが、肩立ちのあとで魚のポーズを入れると、いままで停滞しがちだった首から後頭部にかけてのプラーナが良く通るようになりました。この順番でのアーサナは非常に理にかなっていると思います。

背中の軽い鈍痛は、現在首の付け根のあたりに来ていますが、呼吸法を取り入れることによって、以前のようにプラーナの欠乏した感じや、精神的な不安定さが薄れ、毎日楽しく修業に邁進しております。
2011-05-12 Thu 16:59 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。リョウナンダさん、そしてワタナベさん、コメントありがとうございました。

うぐいずのたとえ、美しくていいですね。どのようなことからも、教えを学ぶことができますね。

修行は喜びをもって行うようにすることは大切ですね。まさに、サットヴァ・グナの境地です。また、アーサナの順番が大切なことはわかっていましたが、ワタナベさんの体験から、このことを深く理解することができました。いずれにしろ、いい方向に進んでいる様子でよかったです。

2011-05-12 Thu 19:14 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]

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