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心の治癒と魂の覚醒

        

 性とスピリチュアリティ③

 前回の「性とスピリチュアリティ②」において、超意識と交流した人が、性に関して次のような啓示を得たことを紹介しました。
「超意識からの返事がかえってきました。それによれば、性愛は道徳心や人を助ける心、慈悲の心を培うものであり、人を結び付けて霊的な成長を助けるものであるというのです」
 この言葉が正しければ、性を否定したり抑圧することは、道徳心や人を助ける心、慈悲の心を否定し、霊的な成長を疎外してしまうということになります。
 実際、これは本当ではないかと思うのです。
 占い師だとか心理カウンセラーのようなことをやってきて、これまで恋愛や結婚の相談、セックスの相談、不倫の相談などたくさん受けてきました。そうした経験からいえることなのですが、がいして性的な欲求が強い人は、人間的な魅力が豊かであるということです。その理由はやはり、性の欲求というものが、根源的には生命エネルギーから来ていることと関係しているのかもしれません。
 不倫に関しても、単に自分の性的欲求を満たすために、配偶者だけでは満足せず、相手をモノ扱いして性の快楽をむさぼるようなものは醜悪としかいえませんが、たまたま好きになった人が既婚者だったとか、あるいは結婚していても他の異性が好きになってしまったといった場合の不倫については、そうした相談者を見てみると、意外にも人間として良識があり、礼儀正しく、また思いやりが深いことが多いのです。「不倫なんてする人は、ふしだらで悪い人間だ」といったイメージがあるかもしれませんが(最初にあげた醜悪な場合は別として)、私の知る限りでは、優しくて、思いやりがあるのです。とくに弱者に対して献身的であったり、よく世話などをしたりします。社会的な尊敬を受けているような人も少なくありません。これなどは、冒頭の超意識のメッセージの正しさを裏付けるものなのかもしれません。
 一方、「不倫なんてけしからん、セックスは恥ずべきものだ」といったような主張をする人にも会ってきましたが、そういう人の方がむしろ、良識がなかったり、礼儀を知らなかったり、また思いやりに欠けていることが多いように思われます

 もちろん、これは私の限定的な経験から得た結果であり、おおまかな傾向にすぎず、不倫をしている人がすべて善い人だとか、していない人が思いやりがないといっているわけでは決してありません。まして不倫を称賛しているわけではありませんが、経験的な事実として、こうした傾向が見られることは確かなのです。
 私の個人的な価値観でいえば、不倫はしないが冷たい人より、不倫はしても思いやりのある人の方が、天国に近いような気がします。もちろん、不倫はせず、なおかつ思いやりがあるというのがベストなのでしょうが、恋愛感情というものは理屈を超えているものですから、すべての人が聖人君子のようなわけにはいきません。むしろ、不倫になるからと簡単にその恋を諦めることができるようなら、それは最初から恋と呼べるようなものではなかったのではないでしょうか。

 浄土真宗の開祖である親鸞は、当時としては異例の妻帯者であり、しかもその上、妻以外の複数の女性とも性的な関係があったようです。そうした欲情を捨てられない自分について、親鸞はずいぶん苦悩したようですが、あるとき、夢のなかに女性の仏だったか菩薩が現れて「私があなたの(セックスの)相手をしましょう」と告げたそうです。そのとき以来、親鸞は何かふっきれたものがあったとされていますが、親鸞の持つ温かい人間愛といったものは、こうした性の欲求と苦悩を通して練り上げられたものではないかという気がいたします。
 一方、一休さんなども、正々堂々と「わしは女が大好きじゃ」といって、盲目の女性を愛しました。そんな“女好き”の一休さんは、常に弱者の味方であり、正義感と思いやりの強い魅力的な僧でした。
 以上のように考えてきますと、性は汚らわしく罪だとして、それを否定したり抑圧することは、間違っているように思います。もちろんだからといって、性の欲望を暴走させてしまってもいけないでしょう。
 では、覚醒を歩む私たちは、性の問題について、どのように向き合っていけばいいのでしょうか?

 性とスピリチュアリティ①でも申し上げたように、問題はそこに愛があるかどうかだと思うのです。愛があるセックスを行い、セックスが愛の表現手段であるならば、それはまさに魂の融合の相似形であり、決して堕落させるものになるとは思えません(ただし男性の場合、精液の消費は生命エネルギーを消費させることにつながるようなので、この点は注意した方がいいようです。この問題についてはあらためて触れたいと思います)。堕落するどころか、霊的な成長を促進させてくれるのではないかとも思います。
 クリシュナムルティ(インドの思想家)は、「愛があれば、何をやってもゆるされる」といいました。あらゆることに懐疑的で、理知的な彼の口からこういう言葉が出てくるのは意外に思われるのですが、そうなのかもしれません。

 愛は所有欲ではありません。不倫や浮気が社会的に責められる原因は、ひとつにはそういうことをすると社会的な混乱を招くからですが、心理的には所有欲から来ているように思われます。嫉妬や妬みというのは、所有欲の産物です。カウンセラーをしていてひとつ気づいたことは、所有欲や嫉妬の強い人は、夫婦関係もうまくいっていないことが多いということです。たとえば、何年も前の夫の浮気を、いまだにゆるせず事あるごとに責める妻がいたりするわけです。そういう夫婦は冷たく、家庭も冷たくなるので、子供が病んでいたりします。一方、お互いに「ちょっとくらい浮気したっていいんじゃない」くらいに思っている夫婦の方が、かえって仲良くうまくいっていることが多かったりするのです。
 もちろん、これも私の限定的な経験から得たもので、普遍的な事実とまでいえるかどうかはわかりませんが、ただいえることは、嫉妬と愛は決して同居しないということです。

 とはいえ、だからといって、むかしアメリカで流行ったような、「フリーセックス」運動だとか、セックスはスピリチュアルなものだから信者同士は自由にセックスをしてもいいといった宗教団体があるようですが、そういったものは好ましいとは思いません。そこまで野放しにすると、あり地獄のように、性の欲望に引きずり込まれてしまう危険があります。スピリチュアルという免罪符によって自分をごまかし、肉欲に溺れてしまいかねません。極端はよくありません。性を否定しても、性にのめり込んでもいけないと思うのです。

 人生というものは、どのようなものが霊的成長の学びになるかわかりません。恋愛もセックスも、相手の存在を魂の深みから愛する気持ちで臨むならば、霊的成長のために役立ち、天の配慮も手伝って、そういう機会が訪れるのではないかと思うのです。そうしたら、その運命をありがたく素直に受け取ってセックスをすればいいし、そういう相手と縁が訪れなければ、それはその方が霊的成長にとってふさわしいのだと思って、たとえ寂しくても、同じように素直に受け入れていくことが大切ではないかと思うのです。

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コメント

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2011-05-15 Sun 14:36 | | [ 編集 ]
斉藤啓一です。1年前からヨガをされている方からコメントをいただきました。ありがとうございました。
ヨガの実践と、試練による浄化が、覚醒にとって非常に大切であることがあらためてわかりました。
これからも、よろしくお願い致します。
2011-05-15 Sun 19:57 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]

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