心の治癒と魂の覚醒

        

神への愛と覚醒

 神への愛
 ヨーガの教典を見ますと、覚醒するには「自在神への祈念」が欠かせないとあります。「自在神」とは、究極的で法則的な神というより、もう少し人間的なレベルの神のことを指しているようです。いわゆる「守護神」が、ニュアンスとしては近いかもしれません。
 宇宙の法則としての神は、私たちの魂を覚醒させる、ある種の物理的な流れや法則を司っており、極論をいえば、個々の人間が苦しもうと悩もうと意に介さず、厳格に法則を実行していきます。それに比べると、自在神は、人間の苦悩をよく理解したうえで、慈悲の気持ちを抱き、覚醒(苦しみからの解脱)を助けてあげようという志を持っているようで、いわば霊的なグルとされています。人間のグルがいない場合(たとえいる場合でも)、ヨーガ行者は自在神に導きを祈りながら修行を続けていくのです。すると、霊感を与えてくれたり、運命的に導いてくれるとされています。

 実際、覚醒という、未知で危険なジャングルを歩んでいくには、導き手が必要だと思います。しかし、人間のグルに出会うことが現実に難しい状況である私たちの大半は、この自在神を頼りにするしかありません。
 要するに、神への信仰心を持つということになるわけです。
 日本は、宗教や信仰というものに、ある種のアレルギーを持っている人が少なくないようです。その原因は、狂信的で宗教とはいえないようなものが宗教の名を借りてひどいことをしていたり、なにか迷信的なものというイメージがあるからでしょう。
 しかし、ここでそういう既成概念はすべて取り払い、まっさらな気持ちで神についての考えを新たに構築していくことが大切であると思います。神、あるいは仏といったことに対する、あれこれと論じられてきた神学的な知識は必要ないし、むしろ邪魔になるかもしれません。もっとシンプルに、ちょうど子供が親を慕い、助けを求めるような素朴な気持ちで、神に対峙することが大切ではないかと思うのです。

 これは私の個人的な意見ですが、私たちが覚醒することがこんなにも難しいのは、神に対する正しい、また情熱的な信仰が希薄であるからだと思うのです。つまり、神は、覚醒というものをめざすときの、単なる手段や付属品程度の認識しか持っていないことが原因なのです。「なになに? 覚醒するには神に祈る必要があるのか。それではそうしよう……」といった感じです。神を覚醒のための道具に利用しているだけなのです。哲学者マルティン・ブーバーの言葉を借りれば、「我とそれ」の関係(打算の関係)ということになります。
 しかし、これでは覚醒は難しいと思います。「我とそれ」の関係ではなく、「我と汝」の関係(真実の愛の関係)でなければ、神は私たちを助けてあげたいと思っても、助けてあげることはできないように思うのです。

 たとえ、ヨーガに伝わるような、瞑想法や呼吸法、チャクラやクンダリニーを活性化させる特殊な修行などしなくても、熱烈な神への信仰さえあれば、チャクラもクンダリニーも活性化させ覚醒できるといわれていますし、実際、西洋の聖者や神秘家たちの大半は、これで覚醒したのです(実はヨーガの一派でバクティ・ヨーガというのがあるのですが、これはまさにこうした信仰で覚醒に到ろうとするものです)。
 恋をすれば、24時間、恋人のことを思い、恋人への熱情で体が熱くなるほど思いを寄せると思いますが(たぶん……)、これと同じ、あるいはこれ以上の熱情を神に向けることが必要なのです。恋人のためなら命を捨てても惜しくはない、という熱烈な愛を神に向けるわけです。
 そして、本気で恋をしたら、恋人のことを完全に信じるでしょう。それが本当の恋(愛)であるならば、たとえそれで恋人から騙されたとしても、それでもいいと思えるはずです(たぶん……)。
 浄土真宗の親鸞は、その師匠である法然に対して熱い思慕の念を向けていました。「法然様の教え通り、南無阿弥陀仏を唱えれば必ず救われる。しかし、もしそれで地獄に落ちるようなことがあったとしても、それでもかまわない!」
 親鸞はそこまで法然を慕っていました。これと同じ情熱が、覚醒するためには必要だと思うのです。過去も現在も(現在はとくに)、妙にクールで打算的な、頭でっかちだけの人ばかりだから、瞑想だの呼吸法といったテクニックだけにこだわり、もっと肝心な土台の部分が軟弱となっているために、覚醒が難しくなっているのだと思うのです。
 覚醒が難しいのは、修行が難しいのではなく(それも確かに難しいのですが)、むしろ神への愛が欠如していること、これが本当の原因ではないかと思うのです。

 神をこのように愛し、神に救いを求めるならば、神は絶対に自分を救ってくれると信じられるでしょうし、神のそんな働きに報いるためにも、自らも一所懸命に努力をするでしょう。人に何かを頼んでおいて、自分では何も努力せず、相手に苦労かけているような人は、本当に相手を愛しているとはいえないでしょう。
 人間は不完全だから、たとえ自分は相手を愛しても、相手が自分を愛してくれるとは限りません。しかし、神は自分の好みで人間をひいきしたりしないはずです。自分を愛する者に対して、神は愛を持って報いてくれるはずです。しかも、何倍も大きく強い愛で返してくれると思います。
 したがって、本気で神を愛する者は、「私は神に助けを祈ったが、本当に助けてくれるのだろうか?」などという疑惑や不安は決して湧いてこないと思うのです。そのような疑惑や不安があるのは、まだ神への愛が十分ではないことからくるように思います。

 そして、そのように本当に神を愛し、神は自分を必ず救ってくれる(覚醒に導いてくれる)と確信できたならば、人生で起こるどのような辛いことや不運でも、「ああ、こういうことが私に起こったのは、これによって私を救おうとなさってくださっているのだ。ありがとうございます!」と、感謝の気持ちで受け入れることができるようになると思うのです。「なにが起こっても、すべてそれはいいことなのだ」という確信、そして、そんな確信から生まれる明るさ、落ち着き、楽天さが生まれてくるのはないでしょうか。
 そのような境地こそが、心にサットヴァ・グナのエネルギーを満たしてくれるのだと思うのです。

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コメント

こんにちは、斉藤さん。このブログを読んで思ったのは、「これも神の思し召しです」という言葉はこういう意味だったのかもしれないという気持ちです。
 
人生に起こるあらゆる苦難を「神の愛の鞭」だと考えることで、大きなゆとりが生まれてきました。そしてだんだん、神への感謝の気持ちが言葉だけではなくなってきた感じがします。
2010-07-01 Thu 11:01 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。コメント、ありがとうございました。
「人生で起こることは神の思し召しである」と思うことは、覚醒を妨げている自我の放棄であり、実は非常に重要なことであると思っています。これは「カルマ・ヨーガ」の真髄でもあります。
こういう思いが、言葉だけでなく心からわかってこられたということは、かなり大きな一歩を踏み出されたのではないかと思いました。
2010-07-01 Thu 19:33 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]

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