心の治癒と魂の覚醒

        

推薦図書  『レ・ミゼラブル』第一巻

 推薦図書  『レ・ミゼラブル』第一巻
          ヴィクトル・ユゴー著 角川文庫(他の出版社でも翻訳あり)

 今さら解説するまでもない、フランスの文豪ユゴーの傑作です。人類最高の文化遺産のうち、音楽の分野がベートーベンの第九なら、文学の分野ではこの作品をおいて他にはないでしょう。真実の愛(神の愛)をこれほど見事に描いた作品を、私は知りません。

 貧しさゆえにパンを盗んで19年も投獄されていた主人公のジャン・バルジャン。釈放された彼の心はすさみ、ある田舎町にやってきますが、刑務所にいたという理由で彼を泊めてくれる家はありませんでした。そんな中で唯一、ミリエル司教だけが温かく迎え入れてくれます。ところがジャンは、その恩も忘れて夜中に銀の食器を盗んで逃げてしまいます。しかしすぐに憲兵につかまり、ミリエル司教の家に連れてこられます。するとミリエル司教は彼にこういいました。
「この食器は君にあげたといったじゃないか。それから、これもあげるといったのに、なぜ持っていかなかったんだい?」
 そうして、ミリエル司教はジャンに、銀の燭台まで渡したのです。
 人間不信ですっかりすさんでいたジャンは、この予期せぬ対応に何がなんだかわからなくなり、そのまま解放されて旅に出ます。ところが、長い間彼の心に染みついてしまった悪の傾向はすぐには消えず、少年から小銭を奪い取ってしまったのです。
 しかし、その小銭を盗んだ後、今までになく激しい良心の呵責に襲われ、自分は善人として生きると心のなかでミリエル司教に誓います。
 その後、偽名を使って別の人間になりすまし、事業で成功し、ついには市長となって慈善活動を行い、人々の尊敬を集めます。ところが、少年から小銭を盗んだのはこの市長ではないかと疑いをもったジャベールという名の警部から、執拗に追いかけられることになります。このジャベールという男は、自分にも厳しいが人にも厳しく、法律こそすべてだという冷たい性格で、わずかな罪であろうと法に基づいて厳格に罰して償いをしなければならないという信念に凝り固まった人物として描かれています。
 それからの物語は、まさに人間の苦悩と愛の、波乱に満ちた人生が展開されていくのですが、いかなる試練に遭っても、ジャンは人間として正しい選択をしていくのです。

 非常に長い小説なので、ここでは最初の第一巻だけを取り上げました。
 この第一巻は、ジャンがミリエル司教と出会い、改心する話が中心となります。
 小説では、このミリエル司教のことが実によく描かれているのです。まるで実在するかのようなリアルな存在に感じられます。若い頃は放蕩や女遊びをしていたが、後に謙虚で慈愛に満ちた、高潔ですばらしい聖職者になったことが描かれています。しかも、いわゆる権威主義的な伝統を重んじるわけでもなく、かといって神秘体験に熱中しているわけでもなく、ただただ質素に生き、素朴に人を愛するという、愛すべき人物として描かれており、小説のなかの架空の人物でありながら、私はこのミリエル司教をもっとも尊敬すべき聖人のひとりとして、お手本にしているくらいです。まさに、真の聖職者とはこういう人のことをいうのだと思います。
 このような人物像を描くことができるユゴーという作家は、本当に凄いと思います。
 しかも、ミリエル司教がジャンに銀の燭台を渡すときの会話のやりとりのなかに、私から見ると、驚くような霊的真理が込められているのです。

 司教はかれ(ジャン)に近より、低い声で言った。
「忘れてはいけない、決して忘れてはいけないよ。きみはまっとうな人間になるためにこの銀器を使うと、わたしに約束したことを」
 何も約束などしたおぼえなどないジャン・ヴァルジャンは、あっけにとられていた。司教は力をこめてその言葉を言った。かれは一種の荘重さをもってまた言った。
「ジャン・ヴァルジャン、わたしの兄弟よ、きみはもう悪には縁がない、善の者なのです。きみの魂を、私が償います。わたしはきみの魂を、くらい考えや滅亡の精神から引き抜いて、それを神に捧げるのです」

 確かに、司教とジャンは何も約束などしていませんでした。なのに、司教は「約束した」と言ったのです。私はここに、非常に深い霊的な意味を感じます。司教はジャンの魂と直接にコンタクトしたのです。そのことを、肉体の彼に思い起こさせるために、こう言ったのではないかと思います。決して嘘を言ったわけではないのです。そして、ジャンの魂を司教が償うというのです。このような言動は、もう覚者の言動そのものです。
 このような文章は、相当な霊的な素養がなければ、書くことはできないと思います。ユゴーは本当に凄いと思います。

 それにしても、小説のなかであるとはいえ、ミリエル司教はまさに聖人です。
 一夜の宿を貸してあげるくらいなら、もしかしたら私にもできるかもしれません。しかし、その恩をアダで返すように、家のなかの貴重品を持ち逃げされたら、私だったらカンカンに怒って、再び会ったら、ひっぱたいで「よくも人の善意を裏切るようなことをしたな!」と、罵詈雑言の限りを浴びせかけるでしょう(笑)。
 しかし、ミリエル司教は、そんな小さな人間ではなかったのです。怒らないどころか、「これもあげるといったじゃないか」といって、さらに貴重な銀の燭台まであげたのです。
 人によっては、「何てバカなお人好しだ」と思うかもしれません。しかし、こういうことができるところが、神と一体化して愛そのものとなった聖人だけができることなのだと思います。

 悪の習慣が染みついた人間を救うには、その習慣をうち破るほどの大きなショックが必要です。たいていの場合、それは苦しみというショックを通して為されることが多いのですが、苦しみの他に、人間を変えるほどのショックを与えるもうひとつの要素は、愛であると私は思います。ただし、そんじょそこらの平凡な愛ではダメです。ちょっと親切なくらいの愛ではダメです。信じられないほど大胆な愛が必要となります。それを、ミリエル司教はやったのです。人や世の中を呪い、すさみきった彼を変えるためには、これほどのショックを与える必要があったわけです。
 このような大胆な愛を与えられる人というのは、ただ愛が深いとか優しいだけでは不可能だと思います。それこそ、命を奪われても怖くないというほどの勇気と強さがなければ、絶対にこういうまねはできません。小説のなかでは、ミリエル司教のそうした勇敢さや強さといったものが、さりげなく描かれています。ユゴーはそういったこともよくわかっており、本当に脱帽してしまいます。

 ユゴーの伝記を調べますと、生涯を通してたくさんの女性と熱烈な愛の遍歴を重ねていたようです。「性とスピリチュアリティ」の項目でも言及しましたが、性愛のエネルギーが強い人というのは、神の愛に通じるものをもっているのです。
 私は、覚醒をめざすような人は、大胆に人を愛することができるようでなければならないと思うのです。あれをしてはダメ、これをしてはダメ、こんなことをしたらカルマの法則の罰を受けてしまう……などと、いちいちびくびくするようでは、大胆に人を愛せるような人間にはなれないでしょう。こういう小さな善人では、この汚濁の世界において人を救うことはできません。少しくらい難点があっても、スケールの大きな人間になることを、神は望んでいるのだと私は思います。その方が世の中のためになるからです。
 人間である以上、罪を犯さないで生きることは不可能なのです。また、罪を犯したり失敗をすることによって学ぶようにできているのです。ある程度、罪を犯したり失敗をしなければ、私たちは深く教訓を学ぶことはできません。
 大切なことは、罪を犯したり失敗をしないことではなく、そこから学ぶことではないでしょうか。とくに、愛することを学ぶことがもっとも大切であると思います。極論をいえば、人生の経験のすべては、愛することを学ぶためにあるのだと思います。繰り返しますが、人間は、人生という場所に、罪を犯さないようにするために来たのではありません。反対に、罪を犯したり失敗をすることを通して、愛することを学びに来たのです。それが私の考えです。

 物語の最後の方で、あの冷たい法の番人であるジャベールは、ついにジャンを逮捕するまでにこぎつけるのですが、ジャンの数々の慈善とその気高さ、慈愛を知ったジャベールは、結局ジャンを逮捕せず、彼の前から姿を消してしまいます。そして、「法を破った自分に罰を与えるために」、川に身投げして死んでしてしまうのです。これは象徴的に「法よりも愛の方が大切である」ことを訴えているのではないでしょうか。
 人間という存在は、愛することを学ぶために、罪を犯したり、挫折したり、あらゆる苦難を通り抜けていかなければなりません。おそらくそうした理由から、ユゴーはこの小説に、「レ・ミゼラブル」(悲惨な人々)という題名をつけたのではないかと思うのです。この小説に登場してくる人たちは、いろいろな意味で、みんな悲惨な人たちばかりなのです。しかし、それが人間という存在ではないのでしょうか。

 とにかく、この小説は、真実の愛について、その他、さまざまな大切なことを、私たちに教えてくれます。覚醒をめざす者はこう生きるのだという、お手本となる作品です。一巻だけでもけっこうですので、読まれることをお勧めします。
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コメント

ブログの開設 1周年 おめでとうございます!
去年 先生の新しいホームページが 立ち上がるのを 今か今かと 毎日チェックしていた日々が懐かしく思い出されます。これからも 御指導 よろしくお願いいたします。
2011-05-26 Thu 02:02 | URL | リョウナンダ [ 編集 ]
 そうですか、一周年ですか。斉藤先生、おめでとうございます。
 思えばこのブログに出会わなかったら、どうなっていたことか。真理の芽を生やしていただいた御恩、どう報いてよいか悩むほどです。ありがとうございます。
 
 このブログで覚醒の道を目指す人々がこれからも増えますように・・・。
2011-05-26 Thu 05:51 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
 慌てて書くといけませんね、正確には中坊時代に「ファウスト博士の超人覚醒法」で心理の芽が植えられ、このブログと「真実への旅」で育てられたということです。
2011-05-26 Thu 06:36 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。
皆さん、お祝いの言葉をどうもありがとうございます。管理人本人がすっかり忘れてました(笑)。

こうしてブログを続けることができるのも、皆さんのあたたかいご支援や励ましのおかげです。
心より感謝しています。

これからも、よろしくお願い申し上げます。

2011-05-26 Thu 09:13 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2011-05-26 Thu 10:06 | | [ 編集 ]
確かにカルマの法則等でびくついては小さな善人のままですね。
失敗もせずパーフェクトに生活することを心がけていましたが、失敗をして愛を学ぶことも大切ですね。
カルマの法則等にとらわれすぎていたのかもしれません。改めて考え直したいと思います。
2011-05-26 Thu 19:14 | URL | 19 [ 編集 ]
先生は ずっと以前からホームページを開設なさっていたので 一周年という感覚がないのかもしれません。新装オープン一周年 おめでとうございます が正確な表現でしょう。 レ・ミゼラブル 読むのはハードなので 図書館に寄って ビデオを借りてきました。自分は 昔の ああ無情 の方がしっくりきます。本当は この本や トルストイの「戦争と平和」、ドストエフスキーの「罪と罰」等も読んでみたいのですがどうしても後回しになってしまいます。神よ もっと時間を (笑)。
2011-05-26 Thu 19:38 | URL | リョウナンダ [ 編集 ]
斉藤啓一です。
お嬢さんが「レ・ミゼラブル」の演劇をされたというコメントをいただきました。ありがとうございます。

19さん、その通り、大きな人間をめざしてください。
とくに若いときの苦労と失敗は買ってでもせよ、です。若いときに苦労もなく失敗もなかったとしたら、それこそ重大な失敗です。

リョウナンダさん、コメントありがとうございました。映画もいいですが、やはり小説の方がいいですよ。いつか小説にもチャレンジしてみてください。
2011-05-26 Thu 19:47 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]
「国語」か「道徳」の教科書か、もしかしたら全く無関係の読み物だったか定かでないのですけど、
“その後”の神父と執事(?)の会話で銀の食器を渡してしまってこれから何を使って食事をすると訊かれた神父があれも良くないこれも良くないと言われて
「それなら木の食器にするさ」
と答えた話を読んだことがあるように思います。

※ブログをHPから独立して開設して下さって、メールを送るほど構えずにコメントができるようになったのは嬉しいです。
2011-05-26 Thu 21:38 | URL | nakatsu [ 編集 ]
右脳を使っていますか?右脳は直感 創造性 イメージ 芸術性等を司っています。学校教育によって右脳を使うことが減っているらしいです。新しい時代は 右脳型人間が要求されると思います。右脳を鍛えましょう!
2011-05-27 Fri 01:20 | URL | リョウナンダ [ 編集 ]
左右の脳のバランスのとれた人間に訂正しないと左脳が言いました(笑)。失礼いたしました。
2011-05-27 Fri 03:36 | URL | リョウナンダ [ 編集 ]
斉藤啓一です。
nakatsuさん、はい。確かにそういうシーンがありますよ。ミリエル司教の物事にこだわらないひょうひょうとした性格が良く現れていますね。

リョウナンダさん、右脳は覚醒に深い関係がありますね。覚醒をめざすには、ある意味で芸術家になる必要があると私は考えています。
2011-05-27 Fri 11:41 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]
タレントの山本太郎さんが 放射能基準値引き下げを求めて立ち上がってくれました。「3月11日を機に もう自分を守るのは やめたい。何も行動しなければ 僕は自分を許せない!」と男泣きして語っていました。単位は 省略しますが チェルノブイリでは 5 だったそうです。4倍の20など ありえません。山本さんは 迷惑がかかるとして事務所を 辞めたそうです。彼にこそ一刻も早く政治家になっていただきたいです。自分は何も力になれませんが 山本さんの 志 が1日でも早く実現するのを心よりお祈りいたします。
2011-05-28 Sat 14:35 | URL | リョウナンダ [ 編集 ]
 レ・ミゼラブル、深いですね~。さっそく幾つかの項目をいちマイに加えさせていただきました。もちろん、ミリエル司教のエピソードです。

 まず、人への施しを「我が家の支出規定」と呼んでいた点。ワールドワイドな人ですね、ミリエル司教。世界も我が家なんですね。貧しい人への施しをするキリスト教徒はたくさんいますが、ここまで徹底する人はそういないでしょう。隣人を家族とまで観ずる視点からして規模が違います。

 周囲の事情を斟酌せずして咎めることがなかった、「誤ちが経てきた道を見てみよう」にも共感します。自分が相手と同じ人生に放り込まれて育っていたら、相手と同じ失敗をしていなかったとは、自信を持って言えるでしょうか?嫌な相手にもそうせざるを得ない「人生」「環境」があるからこそその「思想」「発想」および「行動」があるのです。
2011-06-18 Sat 08:05 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
 社会は自ら作り出した闇の責を負うべきである。~罪人は罪を犯した者ではなく、影を作った者である。~「そして、その検事はどこで裁判されるのですか。」 この一連のくだりも好きです。おもわず、死刑という刑罰について交わされている論争を思い出します。

 「私がこの世にいるのは、自分の生命を守るためではなくて、人々の魂を守らんがためです。」~「大きな危険は我々の内部にある。我々の頭や財布を脅かすものは何でもない。我々の心霊を脅かすもののことだけ考えればよいのだ。」
 人の霊魂が永遠であることを知っていれば、本当に守らねばならないのはちっぽけな肉体的な命や財産ではなくて、良心なのだというこでしょう。

 無神論者との対談でもミリエル司教は、「あなたの唯物主義は実にりっぱ」「そんな主義を会得した暁には、もう欺かるることはないです」と称賛する。ここでも相手の経てきた人生を認める姿勢を貫く。
2011-06-18 Sat 08:29 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
 長々とすいません、これで最後です。

 そして、ジャン・ヴァルジャンの窃盗と逮捕。「私は誤って長い間あの銀の器を私(私物化)していた。あれは貧しい人たちのものなんだ。ところであの男は何であったろう。明らかに一人の貧しい人だったではないか」と即座にジャンを擁護して、「私が購うのはあなたの魂です。私はあなたの魂を暗黒な思想や破滅の精神から引き出して、それを神に捧げます」

 ここにはミリエル司教の覚醒者的な真骨頂があります。他人のカルマをわが身に引き受けようとの姿勢があります。暗黒的思想・破滅的精神の只中にあるジャンのカルマを購おうというのです。自分に余裕のない一般修行者は他人の魂までは気がまわらないものです。

 私もミリエル司教のようになりたいものです。
2011-06-18 Sat 08:41 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ワタナベさん、コメントありがとうございました。
あらためて、この小説(ミリエル司教)のすごさに感動したと同時に、ワタナベさんの求道の姿勢と感性にも感動しました。ここまで深く読み込むワタナベさんも本当にすごいです。
あらためて、すばらしいコメントをいただきましたこと、心よりお礼申し上げます。

2011-06-18 Sat 09:28 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]

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