心の治癒と魂の覚醒

        

性的禁欲は覚醒に必要か?

 
宗教や覚醒の修行をしている私たちにとって、一番気になるのは、覚醒のために禁欲、つまりセックスをしてはならないかどうか、ということだと思います。
 ヨーガでは、禁欲は戒律に入っていますし、キリスト教神秘主義は言うまでもなく、禁欲はもっとも大切なものとされます。ただし、禁欲の目的は、両者によって違いがあります。ヨーガの場合、禁欲は修行に専念するためとか、性的エネルギーを覚醒エネルギーに転換することが目的ですが、キリスト教神秘主義の場合、(少なくても表面上は)性行為は罪であり堕落といった道徳的な理由によるものです。

 こうした教えを見る限り、覚醒修行においてセックスは障害になるのかもしれません。
 ただ、前にも述べましたように、性の問題は多面的で複雑なので、そう簡単に肯定も否定もできない場合があると思うのです。
 たとえば、誰か愛する人とセックスをしたとしましょう。そうして精神的にも肉体的にもすばらしい愛の喜びに満たされたことで、それが純粋な「愛」に火をつける可能性も出てくると思います。すなわち、神に対する愛、すべての人々に対する愛です。そういう愛こそが、覚醒にとってもっとも重要な要素になることは言うまでもありません。
 そうなると、セックスは必ずしも覚醒の障害になるどころか、覚醒を促進させる要素になるとも言えるのではないでしょうか。あくまでも愛を伴っているという条件つきですが、そのようなセックスなら、中途半端に禁欲をするよりも、結果的には覚醒を促してくれる可能性もあるかもしれないわけです。

 また、セックスはしないが、そのために欲求不満になり、頭の中はセックスのことでいっぱいになっていたのでは、瞑想に集中することなどできないでしょう。精神的に不安定になってしまうこともあります。それならば、適度にセックスをして、瞑想に集中できるようになった方が、覚醒に寄与するという考え方もあるかもしれません。

 しかし逆の考え方をしますと、セックスの欲望は非常に強いものなので、それゆえに、性の欲望に耐え、それを支配するように努力するならば、覚醒にとっても、あるいは世俗的な生活にとっても、非常に強い精神力が養われるようになり、そのために覚醒修行がうまくいくという可能性もあるでしょう。
 こう考えてきますと、性の問題は、なかなか一筋縄ではいきません。

 さらにまた、もう少し大きな視野で考えますと、そもそもこの地上が存在している理由は何かという次元から考えてみる必要があるかと思うのですが、おそらくこの地上が存在する目的は、人間がそこでさまざまな経験をして欲望を満たし、あるいは欲望に絶望したり嫌悪を抱くようになって、地上の欲望を断ち切り、卒業していくことにあるのです。
 こうした目的のために、私たちの魂は、この地上に生まれる前に、計画を立てると言われています。ある魂は、お金に対する欲望から解放されるために、大金持ちになる人生を計画するとか、別の魂は性欲から解放されるために恋愛やセックスの経験をたくさんする人生を計画することがあるようなのです。そうして、欲望を味わい尽くすことで欲望に未練がなくなるようにさせているわけです。これが事実なら、気がすむだけセックスをしてみるというのも、長い目で見れば、覚醒に役に立つのかもしれません。

 ただ、こうした試みがうまくいくかというと、それは微妙かもしれません。
 実際にはいくらお金があっても満たされないし、いくらセックスをしても、これでいい、というところまでは、なかなか至らないのではないでしょうか。
 皆さんの中に、お金はもうたくさんだといって財産のほとんどを寄付した人、セックスはもうたくさんだといって完全な禁欲生活に入った人を、どのくらいご存じでしょうか? 世界中を見れば、そういう人もいるかもしれませんが、決して多くはないでしょう。仮に、そういう境地になれたとしても、もうその頃には高齢となり、そのため脳の機能が低下した理由によって、単に欲望中枢が低下したにすぎないのかもしれません。そうなってから覚醒の修行を始めるには、もう遅すぎるのではないかと思うわけです。

 いずれにしろ、セックスに対する欲望は非常に強いものがあり、多少のことくらいでは克服したり消したりすることは難しいと思います。そしておそらく、このことはむかしの修行者もよくわかっていたのでしょう。そのために、セックスをしながら覚醒する方法を考えたり、セックスそのものを覚醒の修行に利用しようということまで考えたりしたようです。これについては、機会をあらためてご紹介したいと思います。
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コメント

江戸後期の名僧の面白いエピソードを紹介させていただきます。 あるとき 友人の僧と二人で旅に出ました。川にさしかかったのですが橋も渡し舟もありません。やむをえず 服を頭にのせ川を渡りました。振り返ってみると もといた岸に一人の女性がいます。困った様子なので 名僧は引き返して 女性を背負って再び川を渡りました。二人は服を着て歩きはじめます。しばらくたっても連れの僧は 我慢がなりません。憤然として「和尚は僧侶の身でありながら 女性を背負うとは 何ごとですか?」と問いただすと名僧は「 わしはとっくに娘をおろしたのに そなたは まだ背負っているのか?」と平然と応えたという話です。
2011-05-29 Sun 05:38 | URL | リョウナンダ [ 編集 ]
「速読と精読」のエッセイありがとうございます。今度是非 精読 についての ご講義をお願いいたします。
英語学習法では よく目にします。速読と精読は車の両輪であると。中国の名言には 読書百編 意おのずからあらわる という言葉もあります。「ファウスト博士」は 何回読んだか 忘れましたが 千回以上は読んでいます。全く身に付いていません(笑)が 来世 来来世に きっと役立つと信じています。
2011-05-29 Sun 15:31 | URL | リョウナンダ [ 編集 ]
斉藤啓一です。リョウナンダさん、一連のコメント、ありがとうございました。また、「ファウスト博士」千回も読んでくださり、著者としてとても嬉しく思います。
来世だとか、来来世などといわず、現世で役に立ててください(笑)。そうして、今回の人生を最後にしようではありませんか。

2011-05-30 Mon 09:35 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]
お励まし ありがとうございます。自分は エンドレス タイマーですから(笑)。ただ もし今世 で ラストタイマーに なれたら 地上に何度も生まれ変わって 人々の覚醒へのお役に立ちたいと思います。宮沢賢治のような心境になりたいですから。
2011-05-30 Mon 21:15 | URL | リョウナンダ [ 編集 ]

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