心の治癒と魂の覚醒

        

 隣人愛の実践


 偉人や聖者たちは、いわゆる隣人愛を説きました。なかでもイエス・キリストはもっとも隣人愛の実践を訴えた人だといえるでしょう。覚醒をめざす私たちも、隣人愛の実践は大切な修行といいますか、(魂である)人間が当然のこととして行っていくべきものだと思います。
 しかしながら、それは何と難しいことでしょうか。「汝の敵を愛せ」とイエスはいいましたが、友人や家族でさえも、ときには愛せないことがあるというのに、敵、すなわち自分に危害を加えたり、不愉快にさせる人間を愛することなど、本当にできるのでしょうか?
 ちょっとした親切くらいなら、できるかもしれません。しかし、その程度で「愛する」といえるのでしょうか? 愛とはそんなにも軽いものなのでしょうか?
 しかも、たとえその場合でも、隣人が自分の気に入らなかったり、無愛想だったりすると、とたんに小さな親切でさえ、する気がなくなってしまうのです。私たちの愛する力というものは、何と脆弱なのでしょうか。
 愛というのは、まるでUFOだとか幽霊のようなもので、話はよく耳にするけれども、誰も見たことがない、あるいは何か他のものと錯覚するといったもののように感じられます。
 結局、隣人愛の実践に憧れ、隣人愛を実践しようと努力していっても、偽善や欺瞞の気持ちなく自分自身を見つめたならば、隣人愛など、とうてい人間には実践できるものではないことを知り、絶望的になってしまうのです。

 ただ、世の中には百パーセント純粋な愛は存在しないとしても、ゼロ・パーセントということもないと思います。たとえば、人に親切にしたとき、その動機には「感謝されたい、自分を善良な人だと思いたい」といった打算や自惚れ、高慢な気持ちがあると思います。しかし、そこに愛がないかというと、そうでもないでしょう。ほんの数パーセントかもしれませんが、やはりそこには、隣人に対する真の愛があると思うのです。果汁が3パーセントしか入っていないのに「フルーツ・ジュース」と銘打ったジュースが売られており、誰もそれに苦情をいう人はいないように、真実の愛は3パーセントしか入っていないのに「隣人愛」だといっても、ゆるされるのかもしれません。
 少なくても、そのくらいに考えない限り、とても「隣人愛」など実践できはしません。あとは、修行と努力で、少しずつその割合を増やしていけばいいのではないでしょうか。3パーセントを4パーセントに、4パーセントを5パーセントにというように、百パーセントは不可能だとしても、仮に50パーセントを超えたら大成功で、聖人の仲間入りができるのではないかと思います。

 私個人としては、「人を愛そう」という視点はもっていません。「愛」というと、何となく家族や恋人に対する熱い感情的なものが連想されます。しかし、隣人や赤の他人にそのような熱い感情を抱くことは、なかなか難しいと思うからです。
 そのかわり、私は「大切にする」という視点を心がけています。すなわち、「人を大切にする」ということです。自分に縁のある人は、無理のない範囲において最大限に、大切にしようという気持ちです。
 大切にしてあげることは、必ずしも「熱い気持ち」を伴う必要はありません。大切にするということは、けっこう知的なものです。なぜなら、大切にするには、「この人を大切にするとは、どういうことなのか?」、「どうすれば、大切にすることができるか?」ということを考えなければ実践できないからです。
 こうしたことは、熱い感情に比べるとクールに感じられるかもしれませんが、熱い感情はしばしば独善的で自己満足的な「愛」になりがちなのに対して、このような知的なアプローチは、冷静に相手の立場を考えることを基盤としていますから、独善や自己満足には成りにくいという利点があります。案外、こうした知的な視点こそが、実は本当の意味で「隣人愛」に近いのかもしれません。
 人だけでなく、すべてのものを大切にするという気持ちは大切だと思います。肉体を大切にする、モノを大切にする、お金を大切にする、自然を大切にする、時間を大切にする、人生を大切にする……、すべてのことを大切にする気持ちが、文字通り大切であると思うのです。
 夜寝る前に、「私は今日、人やその他のものを大切にしただろうか?」と反省するといいかもしれません。そのような積み重ねが、覚醒に必要な人格性の向上に寄与してくれるものと思います。
スポンサーサイト

修行の基本的な姿勢 | コメント:5 | トラックバック:0 |
<< 正義感 | ホーム |  震災後の人々の意識>>

コメント

 おはようございます、斉藤先生。この間は、ご多忙な時にメールして申し訳ありませんでした。

 取り急ぎ、昨晩三度目のクンダリニー発動を確認しましたのでお知らせします。今回は霊光はありませんでした。ただ、ゴオオオッという例の音が体を包みました。恐怖感はあまりありませんでした。それも、日月神示で「大我に溶け込んでも小我がなくなるわけではない」という意の言葉を見つけたためだと思います。

 菜食等の生活改善、アーサナの本格的な導入より約半年、最近では床についたときなどに、体の振動のようなものを感じます。別に疲れてぷるぷるとしているわけではなく、魂が確かに体の内部に「在る」ことがわかるのです。

 そんな感じです。では、セミナーの成功を祈ります。お体に気を付けて、日々邁進してまいりましょう。
2011-06-08 Wed 05:38 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ワタナベさん、コメントありがとうございました。
修行、着々と進んでいるご様子ですね。こちらとしてもとても参考になります。
また、いつも励ましのお言葉、感謝しています。
これからも、ともにがんばってまいりましょう。
2011-06-08 Wed 08:04 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2011-06-08 Wed 20:07 | | [ 編集 ]
 こんばんは、斉藤先生。セミナーお疲れさまでした。

 このブログには本当にいつも学ばされます。隣人を愛するというと、ちょっと重いですね。「愛」はそんなに容易いものではないでしょう。

 それならば、「日月神示」の「すべてを拝む」姿勢をお勧めします。神だけ拝んではいけません。この世界は神の腹の中であり、すべては神の具現であるから、あらゆる相手を拝む、あらゆる自然物・人工物を拝む、とくに何に対していない時でも拝むのです。24時間、あらゆる事象を神として拝んでみましょう。よい出来事はもちろんのこと、一見悪いと思える出来事でも、神のはからいであるから拝むのです。

 低いところには高いところから力・知恵、いろんなことが流れ込みます。専門家ぶったり、偉ぶった心は高いところに自分を置くので学べません。

 とりあえず、汚い物・不要物・醜いもの・嫌いなことを神の「おかげ」であり、必要だから存在するのだと観想して接しましょう。小さなことから毎日こつこつとこの「拝む」心境を実践すると、霊的には大きな前進となりますよ。
2011-06-11 Sat 19:18 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ワタナベさん、いつも労いのお言葉、感謝いたします。
また、コメント、まさにその通りですね。そもそも、すべては神であり、神の現れなのですから、すべてを神だと思って拝む気持ちはとても大切だと思います。
出会う人すべてに「あなたは仏になる人だからあなたを敬います」といって、どんな人も軽く扱ったりしなかっら「常不軽菩薩」というのが法華経で説かれているそうです。名僧良寛は、そのような常不軽菩薩こそが僧のあるべき姿であり、そのほかは必要ないとまでいっています。
この姿勢を見習いたいものです。出会う人すべてを神(仏)として敬うように努力していきたいと思います。
とてもよいアドバイス、ありがとうございました。
2011-06-11 Sat 21:59 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

| ホーム |