心の治癒と魂の覚醒

        

 正義感


 病院で心理カウンセラーをしていたとき、二人くらいの看護婦さんから、「斉藤さんは今まで怒ったことあるの?」といわれた。つまり、どこまでも穏和で優しい人であると見られたらしい。私はその言葉を聞いて、内心、驚いた。
 私は、いわゆる正義感が強い若者であった。中学生のときの通信簿の欄にもそう評価されたり、親からも「おまえは曲がったことが嫌いでまっすぐな人間だな」といわれた。しばしば、「潔白すぎる」とか「自分にも厳しいが人にも厳しすぎる」といわれたこともある。当時は、あまり自分のことをそうだとは感じなかったが、今から見ると、確かにそうだったかもしれないと思う。
 だが、私の「正義感」は、怒りに支えられていた。悪い人間、だらしない人間に対して怒りを覚え、それがゆるせなかった。
 たとえば二十代の頃、電車のなかで、図体の大きな酔った男が若い女性に卑猥な言葉をいいながら体に触っていたことがあり、周りの者はみんな見て見ぬ振りをしていた。私はその男と見て見ぬふりをしている乗客に腹を立て、怒りに燃えてその男の腕をつかみ、ドアが開いたとき、その男を外に突き飛ばしたことがあった。男は仰向けに倒れ、ようやく正気に戻った様子だった(『電車男』は私が元祖かもしれない(笑))。
 だが、こうした行動が、必ずしも「正義感」といえるものなのだろうか?
 私は痩せており、ひ弱なインテリ、いいところの上品な「お坊ちゃま」に見られたりすることが多いのだが、少なくても若い頃は、腕力には自信があり、高校生のとき、腕相撲で私に勝てる者はクラスではいなかったし、体育祭では砲丸投げで優勝したこともある。そして喧嘩をしたら負けない自信があった。
 インテリのいいところのお坊ちゃまというのは誤解もいいところで、父方は大学を卒業した人など誰も身内にいない農村出身者で双眼鏡を組み立てる職人であり、母は、兄弟が不良ばかりの家に育ち、万引きや売春までしていたキャバレーのホステスであった(母はその後二度変わった)。若いときの父はやくざやちんぴらと交際があり、家にもそんな人間がやってきて、非常に屈辱的な言葉を投げかけられてひどく傷ついたことを今でも覚えている。
 そのような、血筋的には最低最悪といってもいいような家系から、曲がったことが嫌いで哲学などの学問が好きな堅物の息子が生まれたことを、父はときどき皮肉っぽく「トンビがタカを生んだ」などといっていた。
 実際、このブログでの「性とスピリチュアリティ」に書いているような内容とは正反対に、若かったときの私は、不倫などはいうまでもなく、恋愛でさえ結婚を前提にしない場合は罪であり、汚らわしいと思っていたくらいだし、ある程度の歳をして風采のあがらない人は、単に努力が足りないだけで自業自得だとも思っていた。悪人などはどんどん厳しく罰すればいいと思っていた。相手の至らない点をトゲのある言葉で遠慮なく非難し、理屈で相手をやりこめるのが私の得意中の得意であった。

 しかし、その後、自分自身が多くの挫折や失敗や苦しみを味わうにつれて、少しずつ考えが変わっていった。人生の不条理、社会のタテマエと本音、正直に努力しても認められずに失敗することもあること、人生の失敗や苦難は、必ずしも自業自得ではないということ、まっとうに生きたいと思っても、つい罪を犯してしまう業の深さ、それに対する怖ろしいまでの悔悟の苦しみや絶望感、あるいは、物事がうまくいけばつい傲慢になってしまう弱さや愚かさ、お金がないことの惨めさや辛さ、異性から愛されない寂しさ、消えてしまいたくなるほどの孤独感、愛しているのに愛している人を傷つけてしまう胸がえぐられるような苦しみ……、もう、ありとあらゆる苦しみを経験したような気がする(だが実際はまだまだほんの一部なのだ)。
 そしてまた、いろいろな人間にも接してきた。人生の最下層ともいうべき人たちと同じ釜の飯を食べたこともあれば、英国の貴族の家に招かれて昼食を食べたこともあった。世界的に有名な人たちと多少の交流をしたこともあれば、精神的に病んだ人たち、貧困の上に病気で苦しむ悲惨な人たち、やることなすこと、ことごとく成功してきた幸運な人、ことごとく不運な人、若くして死んでいった人……、あらゆる人たちと接してきた。ドラマに出てくるようなセレブと会ったこともあれば、大企業から数億円もの金をだまし取った詐欺師と会ったこともある。
 アルバイトも含めて私が経験した職業は20近くある。恵まれた上流の人たちのなかにも、立派な人もいれば、卑劣な人たちもいること、貧しくて社会の底辺にいる人たちのなかにも、立派な人もいれば、卑劣な人たちもいることを見た。自分のことにも人のことにもまるで鈍感で、のほほんと生きている人もいれば、自分のことにも人のことにも大変に繊細な気持ちをもって生きている人がいることも知った。宗教や霊的なことしか頭にない人、カネのことしか頭にない人にも会ってきた。

 そんな経験を重ね、歳をとるにつれて、正義よりも「愛」が、人生において優先されるようになってきた。愛といっても、そんなに立派なものではないが、それでも多少なりとも愛というものがわかるようになってきた。
 正義は、もちろん大切である。世の中には、正義の鉄槌を下さなければわからない人間が少なからずいることもよく知っている。だが、私の経験上、正義を貫いて事情が好転したことは、思っていたより少なかった。一時的に正義の鉄槌を下すことは有効である。それで現状が打破され、方向が変わることもあるからだ。しかし方向が変わったら、いつまでも正義を優先させるべきではない。永続的に正義を振り回すことは、あまりいい結果をもたらすことはないというのが、私がこれまでの経験から得た教訓である。
 そしてもうひとつ、経験から得たことがある。
 それは、愛さないで後悔することはあっても、愛して後悔することはない、ということだ。傷つくことはあるかもしれないが、真実の愛ならば、愛して後悔することは決してない。
 長期的に見れば、いい結果をもたらすものは、忍耐強い愛と優しさだということを、半世紀以上も生きて、ようやく気づいたように思う。そして、このことをもう少し早く気づいていたらよかったのに、と後悔する思いが少しある。
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コメント

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2011-06-12 Sun 07:49 | | [ 編集 ]
 おはようございます、斉藤先生。たしかに電車男の元祖ですね(笑)。ただ、酔っ払いを組み伏せたのは居合わせたリーマンなので、そちらかもしれません。
 気づきに早い遅いはないと思います。人はそうやって着々と霊的進化を遂げていくのですね。

 今朝、天之日津久神様への挨拶に遠出することを産土様に連絡してきました。ただ、昨晩見た夢が気になります。太陽が海に移りこむような感じで3つ、4つと増え、世界がパニックになります。そして地球規模での重力異常のさなか、私はこれが、日月神示で書かれていた「世界がグレンと引っくり返る」状態だな、と納得しているのです。

 何事もなければそれでいいのですが、こういう意味深な夢は気になるものです。
2011-06-14 Tue 06:55 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ワタナベさん、コメントありがとうございます。
そんな夢を見たのですか。
たぶん、なにか象徴的なものだとは思いますが、現実にならないことを祈ります・・・
2011-06-14 Tue 08:32 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]

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