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心の治癒と魂の覚醒

        

 聖フランチェスコと聖女クララ


 性とスピリチュアリティの問題に関連して、今回はアッシジの聖女クララについて考えてみたいと思います。
 クララは、あの清貧の聖者アッシジの聖フランチェスコの弟子であり、フランチェスコの命令で女子修道院を設立し、その院長として長い間修道女の教育に当たった人です。
 ここで注目したいのは、フランチェスコとクララの間に恋愛感情があったかどうか、ということです。クララが初めてフランチェスコに会い、彼の説教に感銘を受けたのが16歳のときでした。そのときフランチェスコは28歳です。歳は12歳離れていますが、クララにとって十分に恋愛対象になる相手です。
 もちろん、フランチェスコとクララの間には、現象的には何もありませんでした。フランチェスコにとってクララは弟子の一人であり、クララにとってフランチェスコは尊敬する師であり聖者で、少なくても記録に残されている限り、二人の間にロマンスめいたものはなかったようです。もちろん、その他の男性との間にもそういうことはなく、生涯純潔を通しました。
 しかし、16歳といえば思春期のまっただ中であり、少なくても普通の女の子であれば、よほど歳が離れた男性でない限り、相手がいかに聖者として知られている人物でも、多少なりとも恋愛感情が湧いてきても不思議ではありませんし、むしろ自然なことではないかと思うのです。
 ただ、修道女ということで弟子入りしたわけですから、そのような感情を持つことはゆるされません。そのため、そのような感情を持っていたとしても、彼女は否定し抑圧したでしょう。なにぶん、キリスト教の価値観では、性に関することは罪とみなされていたからです。
 ところが、30歳くらいのときかと思われますが、彼女が次のようなビジョン(夢?)を見たことを記録が伝えています。
「クララはあるとき霊的直観を受けたことを話した。その霊的直観の中で、クララは聖フランチェスコにお湯の入った洗面器に手拭きタオルを添えて届けたように思えた。クララははるか高い階段を登っていたが、まるで平地を歩くように速やかな足取りだった。聖フランチェスコのもとにたどりつくと、聖人は胸をはだけて、「さあ、お飲みなさい」とおっしゃった。(聖フランチェスコの乳首に口をつけて)クララが飲むと、聖人はもう一度吸うようにうながされた。クララがそうすると、その味はとても説明できないほど甘くて快いものだった。飲んだ後、ミルクの流れ出た乳首、というよりは胸の吸い口が、祝せられたクララの唇の間に残っていた。それを口の中から取り出して手に取って見ると、明るく輝く黄金のようで、まるで鏡のように何でも映していたとのことである。
                           (『初期の文書』一四四)

 この夢の解釈は、聖フランチェスコから何らかの霊的な恩恵を授かったことになっています。実際、その通りだと思います。フランチェスコの乳首を吸うという行為は、あくまでもシンボルということになるのでしょう。
 しかし、シンボルとしても、ここにはたぶんに性的な雰囲気が感じられないでしょうか。霊的な恩恵を授かるというのであれば、他のシンボルでもよかったはずです。聖フランチェスコの乳首を吸うというのは、あまりにも生々しすぎます。性を罪として厳しく禁じるキリスト教徒が見る夢とは思えないわけです。私はここに、フランチェスコに対するクララの性的な欲求が表現されているように思われるのです。
 この夢が実際、どのようなことを暗示していたのかはわかりませんが、私の勝手な、しかもひとつの解釈としては、これは「性愛の昇華」を物語っているのではないかと思うのです。
 つまり、フランチェスコの乳首を吸うというのは、まさにそのまま性行為のことであり、その結果、乳首が取れて口のなかから取り出すと、「明るく輝く黄金のような、まるで鏡のように何でも映すもの」を得たというのは、ある種の錬金術であり、性愛が「聖愛」へと変容することを暗示したものではないかと思うわけです。

 このような解釈をすると、キリスト教の関係者は憤慨されるかもしれませんが、性愛というものは、まさに聖愛(神の愛、博愛)に通じるものであり、それは否定されるべきものではなく、成長させるもの、昇華させるものだということです。
 前にも述べたかもしれませんが、性に対する過剰な禁欲主義や、性を罪や汚れとして否定する人たちは、がいして人間的な優しさや寛容さに欠けるところがあり、杓子定規に人を規則で縛ったり、善悪を厳しく責め立てる冷たいところがあったりするように思います。しかし、このような傾向には「愛」が感じられません。愛というものは、生命を生き生きさせ、生長させていくものです。もし「これをしたらダメ、あれをしたら罪だ」といって生命を萎縮させてしまうだけなら、それは本当の愛であるとは思えません。
 しかしクララには、人を生き生きさせる本当の愛がありました。
 それは、次のようなエピソードに端的に現れていると思います。
 修道女がやむを得ない用事があって街に出なければならないとき、普通は厳しい規則があり、視線を地面に向けておくとか、異性とは口をきかないといったことを守るように要求されるのですが、クララはそのような規則はいっさい作りませんでした。そのかわり、次のようなことを求めたのです。
「美しい木や花や茂みを見たら神を讃美することを忘れないように、そして人々と生き物を見たとき、常に神と神が万物を創造されたことを讃美するように」
                           (『初期の文書』一六九)。
 すべてのもの、すべての人に神を見るようにしなさいと、こう告げたわけです。ここにはすべてのもの、すべての人に対する愛が感じられます。これこそが真のキリスト教徒の、いえ、あらゆる宗教者の姿勢ではないでしょうか。

 私は、クララはフランチェスコに恋をしたところから、宗教の道が始まったと考えています。恋という感情には当然、性愛の欲求も入ってきます。しかし、それのどこが悪いのでしょう。彼女は熱烈な恋の感情を通して、それを聖なる愛にまで高めていったのです。逆にいえば、熱烈な恋の感情がなかったら、聖なる愛にまで高めていくことはできなかったかもしれないと思うのです。
 絶対とまではいえないかもしれませんが、異性を恋することを知らない人は、宗教的な理想の境地に至ることは難しいと思うのです。もちろん、異性に恋をすればそれだけで理想の境地に至るというわけではありません。人間的にも立派な(少なくても立派になろうと努めている)異性に熱烈な恋をし、そして自分もそんな異性にふさわしい立派な人間になろうと共に努力を重ねていく、そんな恋愛関係であれば、それはお互いを高い霊的次元にひっぱりあげてくれると思うのです(「クララははるか高い階段を登っていたが、まるで平地を歩くように速やかな足取りだった」)。
 なぜなら、結局のところ、覚醒とは神と一体となることですが、男も女もすべての人間はもともと神であり、神と一体になろうと努力している男(女)に熱烈な思慕を寄せることは、そのまま神と一体になるプロセスそのものとなるからです。むしろ、恋という強大な推進力によって、だらだらと瞑想しているよりも、はるかに早く霊的な世界に到達できる可能性さえあるように思うのです。
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性とスピリチュアリティ | コメント:9 | トラックバック:0 |
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コメント

こんばんは、斉藤先生。たしかに人を愛せない人が神を愛すこともできません。神を愛せない人は万物を愛する心境にも達せないのです。私が尊敬する「良寛さん」にも、尼僧との(精神的な)ロマンスがあった記録があります。

 ところで、わたしが好きなホームページのひとつを紹介させてください。いいこと書いてあります。
http://mujaki666.seesaa.net/
神仙組といいます。

 それでは人類が迎える偉大な「次元上昇」を目指して、みなさん毎日を「喜び」で迎えてください。
2011-06-15 Wed 19:57 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ワタナベさん、コメントありがとうございました。
そうですね。人を愛さなければ神を愛せないと思います。
良寛さんは私も大好きな人のひとりです。
2011-06-15 Wed 20:28 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]
久しぶりにコメントさせていただきます。今回の教えを学んで思いだしたことがありました。仏陀と弟子の話です。出家した弟子には美しい妻がいて 妻のことが忘れられず修行に身が入りません。見るにみかねた仏陀は神通力を使って弟子を山に連れていきます。そこには 顔のただれた猿がいました。仏陀は「そなたの妻とその猿とどちらが美しいか?」と尋ねると「妻でございます」。弟子はこう応えます。仏陀は神通力を使って天上界にいる美しい天女の姿をあらわしました。仏陀は再び尋ねます。「そなたの妻と天女とどちらが美しいか?」「天女でございます。我が妻など先ほどの猿のようです」「では しっかり修行に励んで天女を手に入れるがよい」。弟子は修行に励むと天女のことなど、どうでもよくなり修行者の悟りを得ることができたという話です。覚醒 することが 重要なことであって恋愛するしないは重要ではないでしょう。「理趣教」にも 愛欲も菩薩の位とあります。間違って解釈すると とんでもない世界になってしまいますが 慈悲の法でしょう。女性は「私と仕事、どちらが大切なの?」と聞きますが 神も「私と地上の喜びとどちらが大切なのか?」と問い掛けているように思います。聖フランシスコの祈りは 祈りの中の祈りですが 祈りにとどまらず 祈りのとうりに生きられれば 神のベールをはがすことが出来るように思います。ありがとうございました。
2011-06-16 Thu 16:34 | URL | リョウナンダ [ 編集 ]
斉藤啓一です。リョウナンダさん、コメントありがとうございました。この仏陀の話は後の人が作った創作で、おそらく本物の仏陀はこんなことはしないでしょう。なぜなら、ルックスに惑わされるこの弟子は本当に妻を愛してはいなかったからです。仏を本質とする妻を愛せない人が、いくら修行しても悟りなど開けるはずがありません。仏陀なら最初からそれを見抜いていたはずです。
また、「仕事と私とどちらが大切なの?」と尋ねる女はロクな女ではありません。すぐに別れた方がいいです(笑)。
同じように、「私と地上の喜びとどちらが大切なのか?」という神も、ロクな神ではありません。すぐに別れた方がいいです。
いい女はこういいます。「あなたの仕事がうまくいくように、私にできることがあれば協力するわ」
いい神はこういいます。「地上の喜びがあなたを霊的な次元に導くように、協力してあげよう」
2011-06-16 Thu 22:18 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2011-06-17 Fri 01:41 | | [ 編集 ]
おはようございます、斉藤先生。日月神示のオオヒツキクニオオカミこと天之日津久神に挨拶がてら遠出して参拝する計画、やはり唯物論者の母は理解をしめさず、避難します。「旅費がもったいない」そうです。

 本当に覚醒という次元上昇を目指すのであれば、自分のことばかり考えていてはいけません。このような無神論者である親の業を一部分でも軽くできないかと試みる実践が必要ではないでしょうか?具体的にはもう少し信仰に理解をしめすように、神の話をするようにしたらいいのではと思うのです。それで、親が気分を悪くするのは私の悪徳となりますか?
2011-06-17 Fri 07:37 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ワタナベさん、コメントありがとうございました。
これは難しい問題ですね。もちろん、お母様が信仰を持たれることはいいことだと思いますし、そのように誘うこともいいことだと思いますが、本人の自由意志を曲げてまでそれを行うことがどこまでゆるされるか、ということになります。
信仰というのはデリケートな領域ですから、無理強いしてもかえって反発してしまう可能性の方が大きいかもしれません。こういうものは、時期がこないとなかなか難しいような気もします。
ひとつの方法としては、高飛車に説得するのではなく、「息子のためにお母さんにきて欲しい」といった感じで、頼るように説得するといいかもしれません。
それでもダメなら、忍耐強く時期を待つ方がいいのではないかと、私は思います。


2011-06-17 Fri 08:50 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]
いつも 学ばせていただいています。ありがとうございます。谷口雅春師の教えでは 神への感謝に入る前に 両親への感謝があります。そして天地万物と調和して神への感謝とすすめていきます。お母様も現象界では 無神論者に見えますが、実相の世界、真の姿は愛深い 信心深い 神の化身そのものです。お母様は無神論者だと思っているとそのとうりの現象が現れてしまいます。お母様は素直な方なので学校で教えてくれなかったから、無神論者になってしまったのかもしれません。そう思って愛と感謝の想いを深めていくといいと思います。愛と感謝の想いは必ず届きます。先生の「真実への旅」の エミリーとジョナサンのように。自分も千葉から祈っています。
2011-06-18 Sat 01:48 | URL | リョウナンダ [ 編集 ]
 おはようございます、斉藤先生、リョウナンダさん、返答ありがとうございます。

 そうですね、時期って大切ですよね。私も社会的な活動をしていた頃なら、無理でした。会席の場で「霊界」や「神」の話をしようものなら、鼻で笑われた経験があります。彼ら「マルクス主義者たち」は霊の存在に重きを置いていないばかりか、いかがわしい人間コントロールの手段のひとつとしか位置づけをしていません。

 それこそ、次元上昇が起こるとか、宇宙人が攻めてくるとか「多大な」変化が起きないと改心しない人々です。人は自分の見たいものを見て、信じたいものを信じるのですから、他人が強制しても、受け入れるのが難しい人は多いでしょう。

 ただ、母は基本「霊の話」は怖がりますし、金縛りも多いそうです(私の体質は遺伝のようです)。本質的には霊の存在は感知しているはずなのに、物質主義に毒されているんですよね、やっぱり。リョウナンダさんがいうように、実相ではすべての人が霊的な価値観をもっているはずなんです。

 今後アセンションの動向を読みながら、少しづつ感化できないものかと様子見ですね。
2011-06-18 Sat 05:08 | URL | ワタナベ [ 編集 ]

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