人生の目的をはっきりと自覚する ②2011-06-25 Sat 08:24
前回申し上げたように、地上に生まれてきた目的は、成長するためであり、快感を得るためではないと、私は思っています。そしておそらく私たちの魂は、そのことをよくわかっているのです。わかっていて、この地上にやってきたはずです。
ですから、この人生で価値あることというのは、やや極論となりますが、自分を成長させることだけです。その他のことは、どうだっていいのです。人生の価値は、どれだけ成長できるか、どれだけ成長の機会に恵まれているかによって決まるのです。 したがって、生まれてから死ぬまで、それこそ苦労ばっかりの人生であったとしても、それですばらしく成長したとしたら、それは人生の勝利者だと思うのです。快感を得ることが目的だとしている(誤解している)この世の中の基準からしますと、そういう人生には価値がなく不運だとされてしまうかもしれませんが、霊的な真実からすれば、そういう人生こそがもっとも「幸運」であり、大成功だったということになると思います。それは辛い人生かもしれませんが、辛いイコール不幸とは限りません。人生の意味と幸福は、どれだけ成長したかによって決められるのです。 確かに、一生を苦労なく穏やかに過ごすという経験も、宇宙的な長い視野から見れば、進化のために必要だったのかもしれません。その魂が持っている計画や意図を、第三者が軽々しく評価することはできないでしょう。 ただ、あくまでも一般論からいいますと、何の苦労も悩みもなく平穏に一生を終えるというのは、幸せだったとは思いません。もちろん、そういう人生でも非常に成長を遂げれて別ですが、がいして人間というものは、苦しみを通して成長していくものだからです。 人間を霊的に成長させるものは、たくさんありますが、大きな柱は二つあると思います。それは、苦しみと愛です。苦しみの経験を通して、あるいは愛の経験を通して、私たちの魂は大きく成長していくのです。もちろん、そうした経験をすれば必ずというわけではありません。ときには何も学ぶことができず成長できないこともあるでしょう。釣りでいえば、魚は引っかかったが逃してしまったような感じです。人間は完全ではないから、すべてのチャンスを活かすことは無理なのだと思います。しかし、チャンスというものは何度でもやってきてくれるのです。苦しみと愛の経験というのは、まさにそのチャンスなのです。 ですから、苦しみの経験が来たら、全身でそれを受け止め、十分に苦しめばいいと思います。もちろん、苦しむのが目的ではなく、成長を通してその苦しみを乗り越え、いっときも早く苦しみから解放されるためです。皮肉なことに、苦しみは逃げるほどしつこく追いかけてきて、いつまでもずるずると居座ります。ですから、敢然と受け止めた方がいいのです。その方が結果的に、苦しみは早く去っていきます。 あるいはまた、愛の経験が訪れたら、全身全霊をもって愛するのです。中途半端はいけません。中途半端では、中途半端な成長しか得られないからです。愛の機会が訪れたら、すなわち、愛すべき人に出会ったら、全身全霊で愛するのです(ただしこれは執着を持てという意味ではありません。逆に、愛するというのは執着を捨てることです)。 余談ですが、占いなどは、ここまで霊的な真実を反映していませんから、単純に物質的に恵まれている場合を「吉」とし、そうでない場合を「凶」などといっています。そのため、占いが人生をあやまらせる要因となりかねません。実際には「凶」と出たときには本当の吉への第一歩であることがあり、「吉」と出たときには凶への第一歩となりかねないこともあるのです。本当に人を幸せに導く占い師は、そこまで考えなければいけないと思うのです。 いずれにしろ、人間というものは、苦しみと愛を経験することを通して成長していくために地上にやってきたのです。それが人生の目的です。 たとえるなら、課題をたくさん与えられた学生のようなものです。学校は勉強して成長するためにあるのですから、その学校でたくさんの課題が与えられることは、本来の目的に合致したことであり、それは「幸運」なことなのです。辛く苦しいかもしれませんが、それでもなおそれは「幸運」だと言わなければならないわけです。 ですから、何不自由なく苦労を知らずに生きている人を見かけたら、そんな人を羨ましく思うのはナンセンスです。苦労ばかりしている人こそ羨ましく思うべきです。苦労をしながらもそれを乗り越えていこうとがんばっている人たちです。 人間というものは、たとえ苦労が自分に大切だとわかっていても、なかなか苦労を自ら求めることはできません。いくら苦労したくても、実際には与えられなければ、苦労をしたくてもできないのです。 ですから、そんな貴重な成長の機会である苦労が与えられたというのは、幸運なことなのです。実際、それは“与えられる”もの、すなわち「恩恵」なのかもしれません。苦しみというものが、カルマの法則によって「過去生で悪いことをした罰なんだ」と思うことは、消極的なとらえ方です。もし物質的に恵まれている人が、いわゆる過去生でよい行いをしたよい報いであるとするなら、今まで考察してきたように、それは必ずしも「よい報い」とはいえないことがわかるでしょう。 人生は快感を得るためではなく、成長するためにあるのだととらえ、人生がうまくいかなかったとしても、それが自分の弱点や悪にあるなどと思ったり、そのために引け目を感じたりせず、むしろ「人生のエリートコースを歩んでいるんだ」というくらいの秘かなプライドをもって、人生の苦難を心静かに受け入れるようにすることが、覚醒の道であると思います。 スポンサーサイト
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コメント
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2011-06-26 Sun 09:19 | | [ 編集 ]
オクです。斉藤先生 先日は温かい励ましの言葉を頂きありがとうございました。「人生の目的は成長をすることにこそある」という今回の記事の内容は、私個人として非常に共感できます。ただ世の中一般には、若い頃は楽しく 逆に老いてからは淋しく というような『肉体の盛衰こそ全て』という人生の図式が完全に出来上がっているように思うのです。私自身は若い頃に女性の(性的な)問題などで、悪い業をつくってしまい、45歳の今になってもそのことで苦しんでいるのですが。しかし人間というのは今世だけでは解決しきれない問題も多いのかもしれませんね。
斉藤啓一です。オクさん、コメント、ありがとうございました。確かに、物質的な価値観では、若いときは楽しく老いてからは寂しくなるでしょうね。しかし、どんな人もみんな通らなければならない道です。問題は、年とってもこの価値観で生きていくか、霊的な価値観に目覚めるかではないでしょうか。霊的な価値観に目覚めることができなければ、老年は悲惨以外のなにものでもないでしょう。しかし霊的な価値観に目覚めた人にとって、老年は成長への大きなチャンスに満ちたものとなります。
いずれにしろ、この地上は課題が与えられる場所です。オクさんは若い頃に悪い業を作ったということですが、おそらく正確にいえば、「悪い業を作るようにさせられた」のです。そうして課題を与えるためです。 2011-06-27 Mon 20:49 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]
オクです。お答えありがとうございます。斉藤先生の、正確にいえば「悪い業を作るようにさせられた」というお話しですが、確かに、霊によって精神世界にひきずりこまれた(世の中から切り離された)という感じは自分の中で強いです。ただ指導霊や守護霊の存在(守護であり導き)をこの先の人生でも信じていけるかどうかについては、自分の中で現在、非常に曖昧なものとなっています。
斉藤啓一です。オクさん、コメント、ありがとうございます。
私が「悪い業を作るようにさせられた」といった意味は、守護霊とか、そのようなレベルの話ではなく、もっと宇宙的な摂理のことをいったのですよ。 守護霊の存在を信じるかどうかについては、これは実証できないと思いますので、知性で証明しようとする気持ちがある限り、一生信じられないと思います。無理に信じることはないと思いますし、無理に信じることもできないでしょう。 ただ、宇宙の流れは善に向かっているのか、そうでないのかと問われたとき、善に向かっていると思うのなら、そのような働きをする存在がいてもおかしくないという気はしませんか? 2011-06-28 Tue 21:09 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]
はじめまして。先生のブログに出逢われたのは 最近でしょうか?去年の7月に「いかにして霊的存在から導きを得るか?」という教えがあります。ヒントになると思いますが これだけを読んでも ? かもしれません。お時間のあるときにでも ブログの最初から お読みになることを おすすめします。
2011-06-29 Wed 02:42 | URL | リョウナンダ [ 編集 ]
オクです。斉藤先生まったくその通りですね。宇宙は善に向かっていて、そのような存在がいると思いたいものです。それからリョウナンダさん私へのコメントありがとうございました。参考にしてみます。
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