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心の治癒と魂の覚醒

        

 覚者かどうかを見分ける方法 ①


 先日のブログのコメントで、「覚醒していると言っている人がいるが、本当に覚醒しているのかを確かめる必要がある」といった話題が少し出ました。今回は、これについて話してみたいと思います。
 精神世界のセミナーなどにいろいろ出席していますと、「私は覚醒した、私は悟りを開いた、私はグルである」と言う人にときどき出会います。インターネットを見ても、「私は覚醒したグルである」と言って、セミナーの勧誘をしていたりします(それがけっこうな料金です)。なかには、「一瞬で覚醒させる」と言っている人もいます。
 私は若い頃、そうしたグルを求めていた時期があり、もし当時の私なら、そういう人を片っ端からあたってみたかもしれません。
 しかし、今の私は、正直なところ、そのような人たちにはほとんど興味がありません。というのは、自分のグルとして指導を願う前に、その人が本当に覚醒しているかどうか確かめなければなりませんが、その人が本当に覚醒しているかどうかは、わからないからです。超能力は、そのための客観的なひとつの目安となるでしょうが、超能力があるだけでは覚醒しているとは限りません。長時間息を止めたり、空中浮揚をしたり、念力で火をおこすとか、そういうことができる人もいるようですが、それだけでは覚醒しているとは言えないからです。極論を言えば、その人が本当に覚醒しているかどうかは、自分が覚醒してみないとわからないのだと思います。

 ただ、私がこの人に師事したいと感じさせるものがあるとしたら、それはその人の人間的な魅力、品格です。私はその人がすばらしい人間性と品格を持っていたら、たとえその人が覚醒していなくても、師事したいと思うでしょう。たとえば、『レ・ミゼラブル』のミリエル司教のような方がおられたら、土下座して弟子にして下さいと頼むかもしれません。
 覚醒することと、人間性が立派になることは、同じなのか違うのか、そのへんはよくわかりません。覚醒した人はすべて尊敬に値する立派な人になるのか、それとも、覚醒しても品性が低い人は低いのか?
 ただ、少なくても私の考えでは、人間性が立派にならない覚醒というのは、どこか間違っているように思うのです。傲慢で威張り散らし、人の悪口を言い、自分勝手で、布施の名目で大金を集めて影で贅沢をしている人が「私は覚者である」と言ったら、いったい覚醒とは何なのかということを、あらためて考えざるを得ません。
 高慢で卑しい人が、ある日突然クンダリニーが上昇してすべてのチャクラが開き、覚醒した瞬間、その人は別人のように高貴な人間性に変容するのでしょうか?
 私にはそうは思えません。瞑想などの修行は、人間性を立派にする刺激とはなりますが、瞑想だけをしていて人間性が立派になるとは思えません。むしろ、日々の生活を通して常に反省し、反省したことを実行するということを繰り返し、地道に時間をかけてこそ、人間性は立派になっていくのだと思います。そして、そうして人間性を立派にさせながら瞑想を通して意識を深めていったとき、覚醒して、霊格も人間性も共にすばらしい覚者が誕生するのだと思うのです。つまり、日々の生活を通して人間性を立派にしなければ、覚醒はしないと思っているのです。
 というのも、人間性の低さというものは、すべて自我(エゴ)が生み出すものだからです。覚醒とは自我を消滅させることですから、人間性が低いということは、それだけで覚醒していないことを示すものと思うわけです。
 ですから、その人が覚醒したと自分で言い、どんなに立派な教説を口にし、超能力のようなものを見せたとしても、その人の品性に高貴なものが感じられなければ、覚醒したとは思えません。

 ところが、どこの世界にも詐欺師的な人がいます。口先だけは本当にうまいことを言うので、つい騙されてしまうことがあるのです。
 たとえば、低い人間性が露呈したとしましょう。それで周囲の者が怪しく感じると、「これはおまえたちを指導するために、わざとやっているのだ。覚醒して高い境地になった者のそんな意図が、おまえたちに理解することはできない。これがグルというものなのだ」といったことを言うわけです。
 宗教に関心のない人は、このような言葉にはだまされません。しかし、欲があるとだまされるのです。
 たとえば、詐欺商法と呼ばれるものがありますが、金儲けに目がくらんで、楽をして金を得ようとしている人は、詐欺師の口のうまさに乗せられて、だまされてしまうのです。
 精神世界も同じです。ただ「お金」が「覚醒」に入れ替わっただけです。つまり、「覚醒」に目のくらんだ人が、こういう詐欺師にだまされてしまうわけです。欲があるゆえに、「本当にグルは私たちの指導のために、わざとあんなことをしているのかもしれない。もしそんなグルを疑ったら、私は覚醒できないかもしれない」という、ある種の強迫観念と言いますか、不安に駆られて、グル(詐欺師)の言葉を鵜呑みにしてしまうわけです。そうして、結局、高額なセミナーに参加させられます。そのセミナーに参加すると、「さらに上級コースがある」などと言われ、高額なセミナーに次々と参加させられます。それで結局、覚醒できず、そのことで文句を言うと、「グル」はこう言うのです。
「おまえは覚醒した。おまえはそれに気づかないだけだ。私はおまえより霊格が高いから、私にはわかる。グルである私の言うことが信じられないのか。信じられないのなら、破門だ。今すぐここから出ていけ!」
 結局、奪うだけ金を奪ったらもう用済みですから、結末というのは、こんな感じです。

 覚醒に欲がくらんではいけないのです。気持ちはわかりますが、いいカモにされるだけです。確かに、「こうすればもっと早く覚醒できますよ」などと甘い言葉をささやかれると、毎日ほとんど何の変化も感じられずに退屈な修行をして落ち込んでいるときには、つい気持ちがぐらついてしまうこともあるでしょう。
 しかし、あせる気持ちはエゴから来ているのです。詐欺師は、巧妙にエゴの弱点をつついてきます。
 覚醒するにしても、道を選びましょう。自分から見ても、第三者から見ても、美しいと感じる道を歩むべきです。時間をかけて忍耐強く人間性を練り上げ、霊的なばかりではなく、地上的にも立派に尊敬されるような生き方をした末に覚醒する道を歩むか、それとも「300万円払ってセミナーを受講して半年で覚醒しました!」という道を歩むかです。仮に百歩ゆずって、後者の道によって本当に覚醒できるとしても、誰にも感動をもたらさないそんな道は歩まないぞ!という気骨が、大切ではないでしょうか。
 長い間、地道にコツコツと人に感謝される仕事を誠実に行って財を築いた人と、株だのFXだの、詐欺まがいの情報商材などをインターネットで売りつけて短期間で楽に財を築いた人と、どちらが尊敬に値し、美しく感じるでしょうか? どちらの人生を送りたいと思うでしょうか? 後者の人生を送りたいと思う人もいるかもしれません。しかし、そのような発想では、たぶん、覚醒は難しいと思います。
 なぜなら、覚醒というものは、交換条件によって勝ち得るものではなく、覚醒の修行を行うことそのことを目的として進んでいくときに、得られるものだと思うからです。
 つまり、高貴で美しい道を歩むことによって覚醒に至るのです。いえ、高貴で美しい道を歩むこと、そのものが覚醒であるという発想が大切なのです。覚醒することにはもちろん価値がありますが、覚醒に至る道を歩むこと自体にも、覚醒と同じくらいの価値があるのではないでしょうか。私たちは、立派に道を歩まなければならないのではないでしょうか。ただ歩めばいいというものではないと思うのです。
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覚醒した意識の特徴 | コメント:15 | トラックバック:0 |
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コメント

斉藤先生、こんばんは。

ファウスト博士の超人覚醒法(1988年)の愛読者です。
ご本の156~157ページに「苦しみこそがこの世で最高の導師なのだ。・・・苦しみとは教えそのものなのだ。・・・なぜその苦しみがきたのか、意識の覚醒という観点から反省してみなさい。・・・苦しみから逃げることなく、ありのままの苦しみを観察していなさい。」というファウスト博士の言葉がありますが、23年経過した今でもこの言葉は脳裏を離れないほど強烈でした。
ファウスト博士はフィクションだと思いますが、このような深遠な思想を斉藤先生はどこで学ばれたのか関心があります。
参考になる情報がありましたら教えて頂けると幸いです。
2011-07-02 Sat 20:49 | URL | 世界平和 [ 編集 ]
斉藤啓一です。世界平和さん、コメント、および本をゴ愛読いただき、お礼申し上げます。
「苦しみ・・・」の件ですが、このような教えは多くの聖者や宗教家などが説いていますが、この教えの一部は、確かヨガの沖正弘氏の本ではなかったかと思います。あとは誰だったか、もうけっこうむかしのことなので、よく思い出せません。いずれにしろ、私なりの表現で語っています。まったく同じ言葉はどこにも見いだせないはずです。

2011-07-02 Sat 21:37 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]
私も沖正弘導師の本を愛読していました。そう言えば似たような表現を見た記憶があります。
私は現在、うつ病+自律神経失調症で精神科に通院し向精神薬を服用していて無職です。
精神疾患からの治癒と悟り・解脱を求めています。斉藤先生のブログの主題と重なると思っております。
クラシック音楽も好きで、斉藤先生のご本も持っています。カリンニコフ、ベートーヴェン、ドヴォルザーク、ショパン、ハイドンなどが好きです。
2011-07-02 Sat 21:58 | URL | 世界平和 [ 編集 ]
苦しみを観察する瞑想と言うと聞き慣れませんが、クリシュナムルティが類似したことを言っていると思います。
ただ発想があまりにユニークなため、一般化されていませんし、苦しみを凝視しつづけるのは結構骨の折れる瞑想ではないかと思います。
斉藤先生はこの瞑想についていかがお考えですか?
2011-07-02 Sat 22:36 | URL | 世界平和 [ 編集 ]
 おはようございます、斉藤先生。たしかに自分を覚者であると宣言する人には疑問符がつきますね。もっとナチュラルな態度でいると思うんです。「日月神示」にこうありましたので、紹介させてください。

 「いつでも神憑かれるように、神憑かっているように、神憑かっていても、我にも他にも判らぬようになりて下されよ。鍬とる百姓が己を忘れ、大地を忘れ、鍬を忘れている境地が、マコトの身魂鎮めであり、神憑かりであるぞ」(「月光の巻」第四十九帖)

 ここでいう神憑かりはいわゆる「霊媒」が神霊を降臨させるという意味ではなく、すなわちその人自身が高い心境=覚醒にいたっている状態を説明しているように思います。そして自分が神憑かっていると自覚するようなものは悪神の神憑かりであるという危険性を別帖で開いております。

 あと、神示の古くからの実践者の方々がおっしゃられていたのですが、多くの人に受け入れられる教えは非常に浅いところを説くから受け入れられると。深淵なるマコトの教えはこの世では押しやられ、非常にマイナーにならざるを得ず、メジャーだったとしても、その真理の大部分が省略されてやはり浅くなっていることもあるそうです。
2011-07-03 Sun 07:34 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。世界平和さん、ワタナベさん、コメントありがとうございました。
まず、世界平和さんの、精神疾患からの治癒を求めておられるとのことですが、このブログはそういう領域も扱う予定ですので、今後、そうしたテーマを書いていこうと思います。ただ、精神疾患の究極の癒しは、覚醒なのだと私は考えているのです。つまり、覚醒の道を歩むことは、精神疾患の治癒にも役立つはずです。
それと、クリシュナムルティについてですが、つい最近もコメント欄で彼について少しふれましたが、ひとことでいうと、彼のその教えそのものは正しいと思います。ただ、私個人の意見としては、彼はそれだけが唯一正しくてその他の可能性を否定している点が問題であると思っています。たとえるなら、「牛肉が食べたい」という人に対して、生きた牛をそのまま与えて「ほら、食べろ」と言っているような感じです。間違いではありません。しかし、生きた牛を与えられ、自分で調理して食べられる人は、世の中にどれくらいいるでしょうか?
最後に、ワタナベさん、参考になる貴重な情報をありがとうございました。

2011-07-03 Sun 21:49 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]
斉藤先生、はじめまして
ヨガを始めて数ヶ月です。
特に瞑想を意識していたわけではありませんが、アーサナ後の弛緩状態で自分自身のオーラらしき色の光が見え、手のひらや顔に金粉。
そして、音が聞こえはじめて、こちらのページでナーダ音と知りました。
周波数の高い金属音のようなオーケストラと別にマントラを唱えているような声が聞こえます。
睡眠中を除いて、いつでもどこでも聞こえます。
これから、どんな変化が起きるのか、起こらないのか、不思議な感覚で毎日を送っています。
覚醒と考えられますか?
2011-07-03 Sun 22:51 | URL | ヨギーニ [ 編集 ]
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2011-07-04 Mon 11:03 | | [ 編集 ]
斉藤啓一です。ヨギーニさん、コメントありがとうございました。からだがしだいに霊的なものに変わってきているようですね。これがそのまま覚醒とは言えないと思いますが、そのプロセスなのかもしれません。ただ、あまりこういう神秘体験には興味を持たない方がいいかもしれません。こういうことの興味を持ってしまうと、へんな道にそれてしまう危険がありますから。
この調子で、これからもがんばってください。

それと、nさん、間違いのご指摘、ありがとうございました。

2011-07-04 Mon 12:20 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]
“覚者”の定義は一様には定められないとは思いますけど、
近年で神格化された方ではクリシュナムルティ、ラマナ・マハリシでしょうか。この方々は伝えられるエピソードから確かにそうだと思います。特にラマナ・マハリシは生涯ヤカンとフンドシしか所有しなかったとか?

フィクションではトルストイの“イワンの馬鹿”?

近年の日本人の名前を挙げるのはプロパガンダになる恐れがありますけど…故 森信三先生、存命の方では鍵山秀三郎さんももしかしたら…と思います。

あと“沖縄の聖人”と言われる方もいらっしゃるそうですけど、残念なことに、この方のことはまるで知りません。

難しいことはさておき、他人の幸せを手放しで喜ぶことができれば、それだけでも覚者の資格があるのかも、とも思います。
2011-07-04 Mon 18:26 | URL | nakatsu [ 編集 ]
斉藤啓一です。nakatsuさん、コメントありがとうございました。
「他人の幸せを手放しで喜ぶことができれば・・・」というのは、まさに、そうかもしれませんね。それはエゴがないという証拠ですから。それとあとは、「何があってもこれでいいのだと感謝できる」というのが、覚者の特徴ではないかという気がします。
2011-07-04 Mon 20:41 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]
私が覚者だと思うのは、ラーマクリシュナ、ヴィヴェーカーナンダ、ヘラカンのババジ、五井昌久先生、植芝盛平先生です。

クリシュナムルティ、ラマナ・マハルシは霊格的に少し落ちるかと思います。
2011-07-05 Tue 13:35 | URL | 世界平和 [ 編集 ]
斉藤啓一です。世界平和さん、コメントありがとうございました。
クリシュナムルティ、ラマナ・マハルシは霊格的に少し落ちるかと思う理由は何ですか?

2011-07-05 Tue 21:37 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]
写真を見てオーリングテストで判別しました。
2011-07-07 Thu 12:48 | URL | 世界平和 [ 編集 ]
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2013-08-25 Sun 22:47 | | [ 編集 ]

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