心の治癒と魂の覚醒

        

 全託の境地と狂信


 結局のところ、覚醒の極意というものがあるとしたら、それは神に全託することではないだろうか?
 すなわち、どんなことが起ころうと、「これでいいのだ」と思って心が乱れたり、不安になったり、あせったりせず、平安な心でいられる境地である。
 この全託の気持ちは、神は最終的には全託する者が幸せになるよう、うまく導いてくれているのだという、揺るぎない信頼に支えられている。
 しかし、これでいいといっても、この世的には苦しみや悲しみ、不幸や災難に見舞われることもある。この世的な価値観でいえば、これでいいはずがないと思えてしまう。とくに、その苦しみが激しければ激しいほど、そう思ってしまう。
 実際、本当にこれでいいのかどうかなど、わからない。神は本当に幸せになるよう導いてくれているのか? 神は私のことなど見向きもしていないのではないか? いや、そもそも神なんでいないのではないか?……
 こんな思いが脳裏をよぎる。そして、本当に神が導いてくれているという、動かし難い証拠のようなものが欲しくなる(たとえば奇跡のような現象が起こるなど)。
 だが、ほとんどの場合、神はそのような現象を示すことはない。
 私たちは、どうしてもこんな気持ちを捨てきれないので、心底から全託することができない。どうしても疑いを持ってしまう。それは無理もないことだと思う。

 ただ、信仰の世界というものは、もともと科学ではない。私たちは科学者ではない。科学は実証主義である。疑うところから始める。しかし信仰というものは、信じるところから始まるのだ。
 ところが、ここで大きな問題が湧いてくる。
 それは、間違ったものを信じてしまうのではないかという懸念だ。いわゆる「狂信」に陥ってしまうのではないかという不安が出てくる。しばしば宗教(団体)が反社会的な問題を起こして世の中を騒がせているように、彼らは(私たちから見れば)、まったくの狂信状態にある。
 同じように、なにがろうと「これでいいのだ」とする全託は、ともすると狂信になってしまうのではないだろうか?
 狂信を避けるには、それが信じるに正しいかどうかを実証しなければならない。だが、それが正しいかどうかが実証できたら、そもそも「信じる」必要はない。それは自然に「認識」されるものとなる。つまり、それは科学ということになる。
 信仰とは、もともと、信じるに正しいかどうか実証できないものを信じるところから始まるのだ。実証しようとしたら、それは信仰ではなくなってしまうわけだ。

 つまり、狂信かそうでないかも、本当のところはわからないのである。社会で狂信といっているのは、この社会の基準から照らして評価しているだけである。
 ということは、信仰するということは、狂信と紙一重というか、ある意味では狂信することだといえるのかもしれない。何があろうと「これでいいのだ」と思う全託の境地もまた、ひとつの狂信なのかもしれない。狂信するつもりで臨まなければ、そのような境地には至れないのかもしれない。
 つまり、「本当にこれでいいのだろうか?」などとは決して考えてはならないのだ。「何があろうとこれでいいのだ」という前提から始まるのである。「科学者」になってはいけないのだ。本当にこれでいいのだろうかなどと検証してはならない。
 もともと科学だって、狭い領域で理屈をこねているだけなのに、あたかも全宇宙を知ったかのように自惚れてしまう知性の「幻想」であるといえなくもない。ある意味では、科学も狂信の要素をたぶんに含んでいる。

 もちろん、「これでいいのだ」という境地は、改善のための努力をしないという意味ではない。たとえば、暴飲暴食をして体調を崩したとする。体調を崩したこと自体は「これでいい」のだ。起こってしまったことは、その原因がどうであれ、これでいいのである。だが、そのまま暴飲暴食を続けることは、決して「これでいい」とはならない。人間は常に自らを改善させ成長させていかなければならない。
 人間は不完全だから、ミスをおかしたり、罪をおかしたりして、その報いを受けなければならない。過去を反省すると、自分の行為がまずかったせいだと後悔し、罪の意識に苦悩するが、起こってしまったことは、とにかく「これでいい」のだ(なぜ自信をもってそう言えるのか?などと尋ねないで欲しい。話は「何が起ころうとこれでいいのだと考える」ところから始まっているのだから)。
 後になって、「確かにこれでよかったのだ」と、わかることもある。だが、わからないことも多い。むしろ、その方が多いかも知れない。
 人間はあやまちをおかしてイヤというほど苦しまないと、心の底から自分を改めないという性質によるものなのかもしれないし、不幸だと思ったことが実は幸運へのステップだということもあるのかもしれないが、そうしたことを神はすべて計算し考慮に入れた上で、私たちの運命を導いてくれているのだと、そのように考えるのである。そのように信じるのだ。
 これは、狂信かもしれない。実際、狂信なのだろう。
 しかし、社会で問題となる狂信と違う点は、たいてい、その場合、狂信を人に押しつけ、強引な布教などをして「狂信者」を増やしている。そこが問題になる。
 けれど、以上の私の見解は、このことを人に押しつけたり、強引に布教しようなどとは思わない。「私はこういう考え方をしています。よろしければ、採用してみて下さい」というだけである。
 そして、今回述べたような全託の考え方は、私たちの心を平安にさせて霊的に高めることはあっても、社会に迷惑をかけるようなことにはならないと思う。
 だから、狂信ではあるかもしれないが、「無害な狂信」ではないかと思う。
 覚醒の道というものは、狂信という「毒」をうまく活用しながら、危険と隣り合わせの、きわめて微妙な道なのかもしれない。
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コメント

ラーマクリシュナの信愛のヨーガは正に狂信に近いものを感じさせる。彼の修行遍歴を見るとカーリー女神という神様に全託する修行をしており、それが成功して見神している。
2011-07-08 Fri 21:45 | URL | 世界平和 [ 編集 ]
5月31日エントリの
「幸せなときほど要注意」
を思い出しました。
災害を免れた時には「神様が守って下さった」と思えるでしょうけど逆の場合でもそのように思うのはかなり困難でしょうね。

因幡の源左さんと言う妙好人は息子さんの気がふれても、家が火事になっても仏様に感謝していたそうですが…。
2011-07-10 Sun 20:18 | URL | nakatsu [ 編集 ]
斉藤啓一です。世界平和さん、nakatsuさん、コメントありがとうございました。
そこまで全託できた人は、すごいですね。

おっしゃるように、本当にそれは難しい。少しでも近づいていくしかないのかもしれません。
2011-07-10 Sun 20:46 | URL | 斉藤啓一 [ 編集 ]
 こんばんは、斉藤先生。最近の報告なのですが、心身のバランスが戻った、というより今までにない状態になってます。

 以前と同じように嫌なことはあるし、後悔したり、躊躇したりはするのですが、そこにエネルギーが流れていかず、気持ちが透き通ったままで動きません。考えすぎもあるし、短慮もあるのに、どうにも「どうでもいい」心境なのです。表現がへたですいません。

 出来事が尾をひかず、すぐにナチュナルな状態になります。「快」の感情でキープされていると言ったらいいのでしょうか、観察者の姿勢で固定されて、強い感情を起こしたくてもできません。

 依然より行動的になったような気がします。しかし、神秘的な感じはまったくありません。

 フィジカルな面からいえば、額と臍下に意識が集まりやすいです。そんなところです。
2011-07-11 Mon 19:01 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ワタナベさん、コメント、ありがとうございました。
ワタナベさんがおかれている状況については、私は何もコメントできる知識を持っておりませんが、ただ、物事というのは、直線的に進むのではなく、ジグザグというのか、螺旋状というのか、一進一退を繰り返すというのか、そういう感じで全体として進化していくのだと思います。
ですので、目の先の状態にあまりとらわれず、のんびりと様子を見ていればいいのではないかと思います。こういうときもあるのではないかと思うのです。


2011-07-11 Mon 21:24 | URL | [ 編集 ]
 はい、のんびりと暮らします。いつもありがとうございます。

 このあいだは覚者談義に水をさしてすいません。他のブログ紹介も勝手に行ってはいけないと、ネチケットのページで知りました。まだまだ未熟ではありますが、今後ともよろしくお願いします。
2011-07-11 Mon 22:20 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ワタナベさん、コメントありがとうございました。
「このあいだは覚者談義に水をさしてすいません。」とのことですが、これでいいのです。あえて、どのような意見が出るのか私はコメントを控えて静観していましたが、ワタナベさんが見事に私の意見を代弁してくれました。
2011-07-11 Mon 22:31 | URL | [ 編集 ]
無意味な書き込みをしてご迷惑をお掛けしました。暫くの間書き込みは控えさせていただきます。
2011-07-12 Tue 00:56 | URL | ワンネス [ 編集 ]
 ワンネスさん、誤解をさせてしまいましたね、覚者の方々への興味が湧くのは、求道者として基本であり、よいことです。たいへん勉強になったので、またお願いします。

 私など、無知でミーハーなものですから、偉そうなことは言えません。ワンネスさんや世界平和さんの姿勢に影響されて、今、覚者について勉強を始めています。また様々な談義、よろしくお願いします。
2011-07-12 Tue 07:41 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
ワンネスさん はじめまして。真理の世界で 無意味なこと 無駄なことがあると 読んだことも 聴いたこともありません。全てが学びになります。学びを生かして 深めてこそ 覚醒 に近づくのだと思います。自分のハンドルネームは パラマハンサ・ヨガナンダに因んで リョウナンダと名付けました。ワンネスさんの ワンネス も悟りを表していますね。好きな言葉のひとつです。20世紀には なかった概念ですね。ワンネスさんも 全てはひとつ という境地に達して 覚者の仲間入りを果たしましょう。覚者の定員はありませんから(笑)。お互い 頑張りましょう!努力は必ず報われます。
2011-07-12 Tue 09:17 | URL | リョウナンダ [ 編集 ]
斉藤啓一です。みなさん、コメントありがとうございました。
「誰が覚醒しているか」についてですが、こういうことを多少は考えるのも決して無意味ではありません。やはりそれで覚醒するにはどうすればいいか参考になるからです。ただ、こういうことばかりをいつまでも考えるのはよくないと思うだけです。なぜなら、本当に覚醒しているかどうか実証できませんし、人のことばかり意識が向いて自分自身の覚醒の実践がおろそかになってしまう可能性があるからです。
いずれにしろ、ちょうどよいタイミングでこの話が終わったと思っています。
ですから、ワンネスさんも、気にせずこれからもどんどんコメントください。リョウナンダさんもいわれたように、無意味なことはありません。今回のことで、このような話題ばかり考えることは無意味だということがわかったのなら、結果的に意味があったのです。

2011-07-12 Tue 09:27 | URL | [ 編集 ]

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