心の治癒と魂の覚醒

        

 親の試練


 どのような親のもとに生まれるか、ということは、子供の霊的な成長にとって非常に重要な要素になると思います。一般的には、親の愛情を十分に受けて、虐待されたり無視されたり、ひどい扱いを受けたりせず、いつまでも親子仲良く、親は子供に優しく、子供は親に反抗することなく素直で親孝行で、これといった喧嘩もせず、何の問題もなく過ごし、親が老後になれば子供は献身的に尽くしてくれる……、これがいわば、世の中で思われている親子のあるべき形ではないかと思います。そしてこの、いわば「スタンダードな理想の姿」に少しでもはずれるようなことが起こると(たとえば子供が引きこもりになったり荒れるなど)、それは親が悪い、親の教育が悪かった、育て方が間違っていたというように、世間からは思われるのです。
 ところで、以上のような理想的な親子関係を実現させた人は、世の中にどれだけいるでしょうか? いることはいると思います。しかしそれは、私たちが思っている以上に少ないと思います。こうした家庭内のことは、外からはあまり知られないので、はためには理想的な親子関係であるかのように見られたりするのですが、内情は非常に問題があることが多いのです。心理カウンセラーをしていると、こうしたことを実感させられます。

 子供に問題が生じたり、親子関係が険悪になる原因は、親に責任があるのでしょうか?
 確かに現象的には、過去を調べていくと、親の不適切な対応に原因があることがほとんどであり、子供もそのことで親を責めていたりします。親もまた、自分を責めているのです。たとえば、それは虐待であったり、虐待というほど大袈裟なものではなくても、何らかのトラウマになるようなことを子供にしたとか、愛情が十分でなかったとか、あるいは仕事その他、やむを得ない事情で結果的に子供に否定的な影響を与えてしまったとか(仕事に忙しくて子供と一緒に過ごす時間が取れなかったなど)、いろいろなケースがありますが、このように現象的には親に大きな問題がある場合が多いわけです。
 ただ、たとえば同じ虐待をしても、それほど問題にならない子供もいれば、大きな問題になる子供もおり、そこには遺伝的な要素もかなりあるような気がします(一説によれば、14歳から20歳くらいの思春期になると、前世からの本性が出てくるといわれています)。
 実際、品行方正なすばらしい親なのに、その子供が不良になることもあれば、まったくだらしのない悪い親の子供が品行方正になるといったことも、少なからずあるわけです。ですから、親の育て方だけですべてが説明できるほど、簡単ではないのです。

 ところで、霊的な見地から見ると、仮に上記のような理想的な親子関係に恵まれたとしましょう。ここにいったい、どのような学びがあるというのでしょうか? 前に述べたように、私たちは成長するために地上に生まれてきたのです。聖人君子のように優しく完全無欠な親(そんな親はまず存在しませんが)だとして、子供はどうして成長することができるでしょうか? 確かに、ある種の気高さの影響は受けるかもしれません。しかし、成長というものは、苦しい課題を与えられ、それを自分の力で乗り越えていくことで実現していくものです。ただ単に親から善良な影響を受けただけでは、成長することはできません。
 親の立場からすると、親に反抗したり悩ませたりせず、ペットのように素直で従順で可愛いだけだったら、親として、子供を通して成長することができるでしょうか? そういう関係では、親は大きな成長はできないでしょう。
 つまり、霊的な視点からいえば、世間でいうところの「理想的な親子関係」には、あまり大きな価値はないのです。つまり、逆説的ですが、問題のない親は問題なのであり、問題のない子供は問題なのです。問題のある親こそが問題がないのであり、問題のある子供こそが、実は問題がないということになるのです。もし仮に本当に問題のない親子関係であったとしたら、魂の成長は、他の面を通して行われる計画なのでしょう。ただ、親子という関係は、それが非常に親密で自分に近いものであるだけに、魂の成長という点では、まさに絶好の機会となるのです。

 ですから、本当の意味で理想的な親子関係というのは、親、少なくても父親か母親のどちらかに問題がなければならないのです。子供は、そういう問題がある親を通して成長していくことができるからです。神の愛は人間を成長させることです。親も同じではないでしょうか。子供を成長させてあげることが、親の愛ではないでしょうか。
 ですから、親になるときには、自分あるいは配偶者のどちらかが「悪役」を引き受けなければならないような気がします。おそらく魂のレベルで、その役割を引き受けて生まれてきたのではないかと思いますが、そうして子供に試練を与えようとしたのです。
 親からすれば、問題のある子供を通して成長していくわけで、もしかしたらその子供の魂は、あなたを成長させるために、そういう役を引き受けて生まれてきてくれたのかもしれません。
 ですから、親子関係に問題を持っているなら、それを喜ぶべきです。たとえどんなに辛くても、それはいいことなのです。問題があることは、すばらしいことなのです。親は自分を責める必要はありません。反省する必要はありますが、責める必要はまったくありません。子供の魂は、あなたに感謝しているに違いないのです。育て方が悪かったとか、事実はそういうレベルではないのです。ある程度、「悪い育て方」をした方がいいのです。多少の虐待や無視、その他によって、子供を少し傷つけるくらいの方がいいのではないかと思うわけです(もちろん限度はありますし、それはひとつの冒険ではありますが)。

 しかし、子供を傷つけることは、成長のためのチャンスを作りだしたにすぎません。それを本当に成長の段階まで築いていくには、親自身の厳しい向上心が求められます。それはまさに親としての試練です。
 親が子供を通して試練を乗り越えるためにもっとも大切な姿勢は、子供を自分の満足のために利用しない、ということではないでしょうか。親といえども人間ですから、子供から愛されたい、大切にされたい、優しくされたり、世話をされたり、大切にされたいと思うのは当然です。しかし、それは人情として理解できますが、それをしてはいけないのです。厳しいようですが、これが親の試練なのです。試練とは厳しいものです。
 要するに、無私の愛を子供に向けなければならないのです。こちらがいかに子供を愛し大切に思い、犠牲的に尽くしても、子供はそんな親の気持ちなどまるで理解せず、感謝もせず、無視したり、それどころかひどい仕打ちをしてくるかもしれません。しかし、それでも無私の愛を子供に向けなければならないのです。それができないなら、親の資格はなく、最初から親にはならない方がいいでしょう。繰り返しますが、これは非常に厳しい試練です。「親のための子供」ではなく、あくまでも「子供のための親」に徹しなければなりません。
 親は、子供が幸せになることだけを望まなければなりません。子供を通して自分の満足を得ようという気持ちは、ほんの少しでも持ってはならないのです。大切なことは子供の幸せであり、親(自分)の幸せではありません。
 子供が親を嫌い、家を出て自立したいといったとき、それで子供が幸せなら、どんなに胸が張り裂けるほど辛く、寂しくても、それを認め、そのために子供に協力してあげなければなりません。子供は自分の所有物ではないのですから。

 ただ、親として非常に辛いだろうなと思う状況があります。それは、親が高齢となり介護が必要になるような場合です。上記のように子供の幸せを思う親であれば、子供が自分を介護することで子供の人生を損なってしまうことに、胸が痛むはずです。好きで介護が必要になったわけではないわけですから、親はとても辛いと思います。そのため、子供に迷惑をかけないように、自殺をする親も多いのではないかと思います。しかし自殺をしても、子供に迷惑をかけることになるのです。世間体も悪いですし、子供の心にも罪の意識や暗いものを残すことになるからです。まさに、生きるも地獄、死ぬも地獄です。こんなところに、人生の過酷な苦しみの現実を見る思いがします。本当に気の毒だと思います。
 ただ、もしこういう状況に置かれたら、それも子供にとっても親にとっても試練なのだと考えて、辛くても生きていた方がいいと思います。なかには暗に、あるいは露骨に「早く死んでしまえ」と子供に言われたりすることがあるかもしれません。犠牲的な愛情を子供に捧げてきたのに、それがこういう報われとして訪れたときの親の悲しみには筆舌に尽くしがたいものがあるかと思いますが、現実にはこういうケースは少なくないと思います。しかしそれでも、子供の魂のことを考えて、自殺はしない方がいいと思います。ただ、それで自殺してしまったとしても、私はその人を責める気持ちはまったくありません。ただただ同情するばかりです。

 子供が小さくて可愛い頃、親として、めいっぱいの幸せと喜びを子供から与えてもらいますが、やがては何らかの形で、それと同じくらいの量の悲しみや苦悩を、返済として求められるようになるのかもしれません。一応、それは覚悟しておいた方がいいかもしれません。お金と同じように、借りたものは必ず返さなければならないのです。誰が悪いという問題ではなく、親子とはたぶん、そういうものなのです。
 霊的な視点から見れば、親になるということは、無私の愛の実践という修行に取り組むことに他なりません。子供を持つことで幸せを得ようとか、ましてや、老後に世話をしてもらうといった期待を持っていると、失意に終わるだけです。子供はそのために存在しているわけではないからです。親も子も、成長するためにお互いに縁ができたのです。
 成長していくということは、辛くて厳しい道です。それが人生の本質なのですから、あきらめて受け入れ、乗り越えていくしかないように思います。
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コメント

 こんばんは。

 中学に入るなり不登校になった息子は、三年になり、高校進学を考えているとは言いながらも、規則正しい日常生活を送ることもままならない毎日です。
 私自身も決してよい母親ではないと思いますが。
 息子が今の状況を自分の成長のために必要な試練だと思うことができるのはずっと先のことかもしれません。
 私は、私自身にとっての試練として受け止めようとしているところです。

 親は、資格がないからといって、やめるわけにはいきません。親として未熟でも、日々、子供が今日も生きていることに感謝しながら、親子共々の成長を願って歩んでいこうと思います。
2011-07-12 Tue 23:45 | URL | しいの [ 編集 ]
重く 深く考えさせる教えでした。以前、なぜ「親学校」が ないのだろうと考えたことがありました。本当は1番必要な学校かもしれません。理想の親と理想の子のギャップを埋めるのは「ゆるし」だと思います。相手をどれだけ許せるか。実践するのは 非常に困難です。ただ自分の経験上(独身なので親の経験はありません)許すことしか解決策はありませんでした。親も 理想の親に育てられたわけでは ありません。辿っていくと アダムとイブ カインとアベル親子にまで 行ってしまいます。もちろんこれは実在の話かは不明ですが…。人生において 愛しているがゆえに 許せないことも数多くあります。ただ、その結果は悲劇しか生まれません。それは 人類の歴史が証明していますし 現在進行形で起きています。家族は最も小さな 最も大切な社会単位です。そこに愛と許しがなければ 地域 国 世界に愛と許しが生まれるはずがありません。今「神の使者」(河出書房新社)という書で ゆるし を学んでいます。是非 お薦めします。最後に八木重吉の「ゆるし」という詩を。
神のごとくゆるしたい ひとが投ぐる にくしみ を むねにあたため
花のようになったらば
神のまえにささげたい
2011-07-13 Wed 02:07 | URL | リョウナンダ [ 編集 ]
斉藤啓一です。しいのさん、リョウナンダさん、コメントありがとうございました。
「子供が生きていることに感謝する」というのが、一番大切なのかもしれませんね。あとは、一緒に成長する姿勢なのでしょうか。植物の成長が少しずつ行われるように、人間の成長も、子供の成長も、時間をかけてゆっくりと為されていくのかもしれません。貴重なご意見、ありがとうございました。

リョウナンダさんの「親学校」、また「愛とゆるし」は、本当にその通りだと思います。愛することは難しいし、ゆるすことも難しい。とくに自分をゆるすことはなお難しい。それでも、それをしていかなければならないわけですね。
貴重なご意見、ありがとうございました。
2011-07-13 Wed 15:02 | URL | [ 編集 ]
 こんばんは、斉藤先生。理想的な親子関係は苦しみがないため、修行者にとっては好条件ではなく、試練の絶えない親子関係は覚醒に近づく。先生の逆説的な考えにはいつも救われます。

 今現在、同居の親は私の神秘修行への傾倒を感情的に嫌い、一緒には暮らせないとまで言い出す状態です。親にとっては広いものの見方を身に着ける試練であり、私においては妥協できるかぎりにおいて、修行生活をひかえる試練とでもいえるでしょう。落としどころは「時間」ですね。早朝に祝詞をとなえるのを少し自粛しております。
2011-07-13 Wed 20:28 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
 クンダリニー発動のきっかけとして大きかったのではと思うのが、このブログで紹介されている、背筋を白い光が上昇して登頂を突き抜けたり、脳に広がったりする瞑想です。

 鋭敏な脊髄の周囲にわずか30秒間エネルギーを循環させるだけでも、人間の魂は微妙な進化を遂げ、自然生活の1年分の霊的進化に匹敵すると、なにかの本に書いてあったのを思いだしました。

 現在、私の瞑想は12の項目に分かれていますが、この「白色光の上昇」だけで4つのアレンジがあります。
2011-07-13 Wed 20:37 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
 最後です。長くてすいません。

 4度目の発動がありましたが、記録し忘れていたので、正確な日付がわかりません。7月はじめ頃だったと思います。やはり、例のごぉぉ~という音に包まれ、エネルギーの上昇がありました。なぜ瞑想中ではなく、ベッドに入ったときに起こるのか、不明です。変性意識が関係しているのかもしれません。

 前後して、最近寝てると魂が抜けそうになります。ときとしてそれは絶叫系のマシンもかくやというほど振り回される感覚があるので、嫌なので、意識して「鎮魂」をこころみます。「鎮魂」とは本来神道式の「たましずめ」(体と魂を結び付け安定させる)であり、現在のような慰霊の意味ではありません。

 
2011-07-13 Wed 20:48 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ワタナベさん、コメント、ありがとうございました。
ワタナベさんの体験は、同じ道を歩む人の貴重な情報となるでしょう。
引き続き、また変化などありましたら、ご紹介ください。
2011-07-13 Wed 22:01 | URL | [ 編集 ]

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