心の治癒と魂の覚醒

        

 親の試練 ②


 親子というものは、それが非常に近しい関係であるためか、カルマの消滅や霊的向上における、まさに格好の試練や修行となることが多いようです。
 親にとってもっとも辛いことは、「自分のせいで子供がこんな問題を抱えるようになってしまった」という慚愧の念、良心の痛みでしょう。
 たとえば、虐待をしてしまう親がいます。そのなかには子供に対する愛情がなくて虐待をする親もいるかもしれませんが、それは少数です。むしろ、虐待をしてしまう親は、人一倍子供に対する愛情を持っているのです(それが本当の愛情かどうかという哲学的な問題は脇に置いておくことにします)。
 ニュースなどで、子供を虐待した母親という報道などを見ますと、「なんてひどい母親だ。子供に愛情がないのか!」と憤りを覚えたりしますが、それは表面的に見ているだけで、よく事情を聞くと、子煩悩なところがあったなどと、近所の人が見ていたりするわけです。
 そのため、虐待をしてしまった後、親は非常に後悔し、自分の犯した罪の重大性に苦悩し、子供に対して申し訳ない気持ちで胸が痛み、そんな自分自身を責めるのです。その苦しみは、しばしば拷問のような苦しみにも匹敵するかもしれません。
 基本的には、虐待を繰り返してしまう親は、どこか病んでいるのです。自分も親から虐待された経験を持つケースが多いのです。あるいは、生活や仕事の悩み、その他、あらゆることが重なって、常に神経が葛藤と疲弊に見舞われており、そのために、ちょっとした子供の言動でキレてしまうのです。
 たとえば、よく「子供の泣き声に我慢できなかった」といって虐待する親がいたりします。それだけを聞くと、普通の人は信じられないかもしれません。小さい子供が泣き叫ぶのは当たり前のことで、その程度の「騒音」で虐待するのはどうかしていると。
 しかし、それは単なる「騒音」ではないのです。泣かれると、自分の至らなさが責められているような気がしてくるのです。もちろん、子供にはそのような意図はないでしょうが、(病んだ)親からすると、そう聞こえるのです。
「私が泣いてこんなに不幸なのも、おまえの責任だ! おまえがろくでもないからだ!」 こんなふうに聞こえてしまうわけです(もちろん無意識のレベルのことですが)。
 そうして、泣き声に耐えられなくなり、ムカムカして、暴力に及んでしまうわけです。
 あるいは、子供時代の自分の姿をそこに見てしまう場合もあります。子供時代、不当なことで親から怒られ、泣き叫んだ経験(そこから生まれたイメージや感情)が、無意識的に心の表面に浮かんでしまうのです。あのときの辛い経験や思い、悔しさが蘇ってくるのです。そのために、いてもたってもいられなくなってしまうわけです。
 こうしたことは、まったくの悲劇です。子供が憎くて虐待しているのではなく、子供を愛しているのに虐待して傷つけてしまう親の苦悩は、はかり知れません。そんな親を、単純に「虐待した」というだけで責めることはできないのです。ある意味では、その親も「被害者」なのです。もちろん子供にとっても悲劇です。もっとも自分を愛し守ってくれるべき親が、自分を傷つけるようなことをするのですから。

 こうしたことは、おそらく、親にとっても子供にとっても、成長のための試練という意味があるのだと思います。かなり厳しい試練ですが、長期的には、この経験によって成長し、本当の幸せへと歩を進めていくのでしょう。
 では、このような状況になってしまったとき、親はどうしたらいいのでしょうか?
 たいていの場合、親のこうした苦悩は、子供が成長し、自分が親にでもなれば、自然と理解できるようになってきます。なかには理解できず、親を許せないまま一生を終える場合もあるかもしれませんが、もしそうであれば、おそらくその子供は、霊的には課題を来世に残すことになるかもしれません。どこかで親をゆるさなければならないのです。
 いずれにしろ、親が問われていることは、今度、どのように生きるかです。反省もせず、あいかわらず暴言を吐き続けているようでは、仮に子供が成長して親のそうした病理を知的に理解し、同情はしたとしても、ゆるすことはできないかもしれません。それは無理もないことだと思います。
 しかし、親が自分の行為を本当に反省し、その後、虐待もせず暴言も吐かず、ひたすら無私の愛を子供に向け続けたなら、子供は成長していくにつれ、親をゆるすことができるようになると思います。
 さらに、そのようにひたすら反省して生き方を改めたこと自体に、子供は自分に対する大きな愛を感じるようになるかもしれません。「ああ、母(父)はこんなにも変わった。それは私に対する申し訳ない気持ちの表れであり、私に対する愛の現れだ」と思ってくれるかもしれないわけです。
 晩年(そのとき親は死んでいるかもしれませんが)には、「おくふろ(おやじ)は立派だったな。間違いは誰にでもあるが、あそこまで反省して生き方を変えられるなんて、たいしたものだ」と、かえって尊敬されるかもしれません。

 もし、そう思ってくれたなら、最初から何の問題もない親子で過ごした場合よりも、より強い親の愛を感じる可能性があるわけです。子供はそんな親から「間違いを犯したら改める」ことを学び、そうして親は、貴重な教訓を子供に示したことにもなるのです。
 このように、親にとっては、あやまちを反省して自分を変えるべく努力をしたこと、子供にとっては、親の強い愛情と手本を見せてもらったということで、お互いの成長にとって大きな実りがもたらされたといえるのではないでしょうか。
 どんなこともそうだと思いますが、逆境や悲劇や苦しみには、それと同じくらい、あるいはそれ以上のすばらしい可能性の種が宿っているのです。それはもちろん、一か八かの賭けであり、冒険ではありますが、私たちの魂はもともと冒険家ですから、あえてそのような危ない状況に挑戦することで、お互いの魂を向上させる計画を立てていたのかもしれません。それがうまくいったら、感動的な物語のように、最後にはすばらしいものが生まれるのです。
 大切なことは、「最終的にはすべてがいい結果になる」という希望を捨てず、ひたすら子供を愛し続けることではないでしょうか。それには長い時間にわたる忍耐が要求されるかもしれません。口先だけで「私が悪かった」と言っても、子供は本当に反省しているかどうか、けっこうしぶとく見ていますから。それで何度もその言葉を破ったら、ついには信じてもらえなくなってしまうでしょう。ですから、真剣に、命を捨てるような覚悟で自己改革していかなければならないでしょう。
 こうして、親鳥がじっと卵を抱えてヒナの誕生を待ち続けるように、この課題に取り組んでいき、不幸を幸福へと逆転させるべく生きることが、そのまま私たちの霊性向上の道であるように思うのです。
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コメント

 親や先輩、教師や導師であっても、間違いを犯したならすぐに詫び、修正を試みるべきですね。今回の話で「あるヨギの自叙伝」のエピソードを思い出しました。

 ヨガナンダの師、スリ・ユクテスワには、弟子のちょっとした欠点をさも重大なことのように責め立てる癖があったそうです。ある日はるばるやってきたヨガナンダの父の前で、ユクテスワはヨガナンダがまるでどうしようもない人物であるかのように酷評しました。そのことにヨガナンダが憤りをおぼえ、問い詰めると、ユクテスワは素直に自分の過ちを認め、「もう二度とあのようなことはしないようにしよう」と謝罪しました。(P127~128)

 自分が上の立場だとふんぞり返る親や教師は多いですが、この謙虚さは大いに見習うべきではないでしょうか。

 ついでにちょっと自分のブログを紹介させてください(先生には許可をとりました)。
http://ameblo.jp/5k3j643/
「タカハシのブログ」

 よろしくお願いします。
2011-07-16 Sat 11:55 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ワタナベさん、コメント、ありがとうございました。参考になりました。
また、ブログも拝見させていただきました。私のHPやブログを紹介くださり、感謝いたします。シンプルな文章のなかに含蓄のある内容が込められていると思いました。これからが楽しみです。がんばってください。
2011-07-16 Sat 21:36 | URL | [ 編集 ]

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