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心の治癒と魂の覚醒

        

 自己否定の道 ①

 覚醒とは、何か「偉い」存在になることではない。確かに覚者は偉いのかもしれないが、それはおそらく、私たちが思うような意味での「偉さ」ではない。私たちは、たとえば社長が偉いとか、政治家が偉いとか、ノーベル賞を受賞した学者が偉いとか、そのように思うが、それと同じレベルで覚者を偉いと思っているようなところがある。
 しかし、覚者の偉さというものは、そのようなものではない。少なくても、覚醒に至る道は(世俗的な意味での)偉い人間になるための道ではない。そのことを勘違いしている人は、スピリチュアルな世界で自分を認めてもらおうとする、いわゆる「スピリチュアル・エゴ」のワナにはまってしまう。
 覚醒の道は、世俗的な意味でいえば、偉くなるための道ではなく、まったく逆に、偉くなくなるための道である。すなわち、それは徹底した自己否定の道だ。
 もちろん、この「自己」というのは本当の自己ではなく、いわゆる自我(エゴ)のことだから、正確にいえば「自我否定の道」というべきだが、覚醒していない私たちにとっては、自我が本当の自分であるという堅固な幻想を抱いているので、実質的かつ主観的には「自己否定の道」といっても間違いではないだろう。
 自己否定の道、すなわち覚醒への道は、それゆえに、ひたすら謙虚、素直、柔和、慎み深さ、奉仕、縁の下の力持ちに生きるということになる。それは、ひたすら頭を下げて生きる道である。頼まれもしないのに説教したり、自分の地位や霊性を誇ったり、威張ったり、他者を利用したり、支配したり、裁いたり、「あなたの波動は低い、あなたの悟りはこのくらいだ」などと評定したり、得意げに愛のおしゃべりをするような道ではない。
 もちろん、役割が自然と与えられたならば、人の上に立ったり、説教したり人を使うこともあるだろうが、それはただ役割を演じているだけにすぎず、自我を喜ばせるためではない。
 謙虚のなかでも謙虚に徹し、自分を見せたり、自分を認めて欲しいという気持ちがまるでなく、相手より頭を下に下げ、常に下座につき、どんな人をも蔑んだり低く見たりせず、すべての人を拝むように敬愛し、ただ黙々と世のため人のために尽くしている人、そして、このような生き方を、意識せずに自然にできるようになった人、言い換えれば、「偉さ」というものを徹底的に排除し、まったく「偉くなくなった人」こそが、覚醒した人、あるいは覚醒に向かっている人であり、真に偉い人なのである。
 もちろん本人は、自分は偉いとか、偉くないとか、そのような思いはまったくないだろうが(自分は偉いと思うのはもちろん、偉くないと思っている場合でも、それはエゴであり、ある種の高慢さであろう)。

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修行の基本的な姿勢 | コメント:7 | トラックバック:0 |
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コメント

自分も 某宗教団体に所属した経験があります。もし「ファウスト博士」がなければ 宇宙で一番お偉い方(笑)から抜け出せなかったでしょう。先生には 心から感謝いたします。
自分は真理を探求する 凡人 でいいです。聖書にも「己を高くする者は低くされ 己を低くする者は高くされる」とあります。修行者には 自分が偉くなりたい という魔境 が潜んでいます。その魔境に陥らないためにも 日々 淡々と足元をしっかり見つめていきたいと思います。故 高橋信次師の書からも数多くのことを学びました。その中の ひとつを。

実るほど
こうべをたれる
稲穂かな


2011-07-25 Mon 02:55 | URL | リョウナンダ [ 編集 ]
おはようございます、斉藤先生。

 スピリチュアル・エゴは修行者は常に気を付けていなければいけない罠ですね。向上心が純粋に発揮されているうちは上(自分よりすぐれた徳)を見ているのですが、自我にとらわれると、人を下に見て、自分に従う者を集めて見習わせようとします。

 人集めする団体はこういった状態に陥りやすいですね。宗教に走る人が、思いに反して悟りから遠くなるのはこうした「鼻高」と「盲目」のグループで構成されるケースが多いからではないでしょうか?
2011-07-25 Mon 07:28 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
19です。お久しぶりです。

ずっと前に声をかけて知り合った女性について書き込みをしていたんですが、あれから連絡を取り合い出会って私から告白して付き合いました。
付き合っている期間は彼女に夢中になったり、新しい趣味で此処にはあまり来ていませんでした。

皆さんお元気でしょうか?
私は最近とても病んでいます。

つい先週、彼女にフラれました。
私が此処に来なくなってから愛というものをすっかり忘れてしまいました。

彼女としてお付き合いしても私は彼女を友達のように見て、冗談をよく言ったり辛かったりして彼女に私の想いをあまり伝えられていなかったんです。すごい好きでした。

束縛はした方が良いのでしょうか?
私は束縛はせずにお互い信頼できて自由にお付き合いをしたかったのですが

彼女からしたら、好きだから束縛してくれる。という考え方だったみたいで、束縛してほしかったみたいです。

それと彼女にはいつも冗談ばかり言って笑って過ごせたのは良いのですが、いざ自分の感情を伝えたら、「冗談ばかり言ってるから本当なのかどうなのかわからない」と言われました。
冗談とは、恋愛にはあまり言わない方が良いんですかね?


いつまでも元彼女への未練あっても仕方ないので忘れてまた出会いを求めに行こうと思います。

元彼女には付き合う前に色々嫌な思い出があったから簡単には遊べないと言われました。でも最終的に私に心を開いてくれて付き合ってくれたのですが、私は彼女の心を傷つけたりしてしまいとても後悔しています。

2011-07-25 Mon 15:42 | URL | 19 [ 編集 ]
斉藤啓一です。リョウナンダさん、ワタナベさん、19さん、コメントありがとうございました。
平凡こそが非凡かもしれませんね。高慢という、スピリチュアルの道において、おそらく最大の障害を甘くみずに精進していきたいと思います。それぞれに意義あるコメント、ありがとうございました。
それと、19さん、恋愛というのは、学びですよ。悲しいかもしれませんが、これもいい経験です。また出会いがあります。がっかりしないで下さい。けれど、また別れが来るでしょう。そしてまた出会いがあるでしょう。そしてまた、別れることになるでしょう。
それが人生です。
2011-07-25 Mon 18:05 | URL | [ 編集 ]
斉藤先生
お返事頂きありがとうございます。
私は昔から別れると結構病んでしまうんです。元彼女が言うように「男は弱い」生き物なんですかね。
また良い出会いがあると思って悲しまず前に進んでいきたいと思います。
2011-07-25 Mon 21:01 | URL | 19 [ 編集 ]
7/26のエッセイを読んで、Wダイアーの本にあった

最初、私は早く高校を出て大学に入りたくてたまらなかった。
つぎには早く大学を卒業し、働けるようになりたくてたまらなかった。
つぎには早く結婚し、子どもをもちたくてたまらなかった。
つぎには早く子どもを就学年齢にまで育て、仕事に復帰したくてたまらなかった。
つぎには早く仕事を引退したくてたまらなかった。
そして今、死の床につき…不意に気づいた。私は生きるのを忘れていたと。

と言う文を思い出しました。

ただ、エッセイの女性は「そして実際、経済的にも家庭的にも落ち着いてきて」とあるので、それだけでも救いがあるのでは?とも感じます。
2011-07-27 Wed 16:42 | URL | nakatsu [ 編集 ]
斉藤啓一です。nakatsuさん、コメントありがとうございました。これは、ホームページの方のエッセイですね。
おっしゃるように、未来のことばかりに目を向けていると、結局、生きるのを忘れていた、ということになるのかもしれませんね。
もちろん、かといって、今にばかり目を向けていいともいえませんし、そのへんのバランスが難しいところです。


2011-07-28 Thu 12:01 | URL | [ 編集 ]

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