心の治癒と魂の覚醒

        

 自己否定の道 ②


 覚醒とは、このように「偉くなくなる道」を歩むこと、換言すれば、自我を消滅させる道を歩むことであるから、「覚醒したい」という望みを抱いて努力していったならば、神はその願いを聞き入れ、我が身にどのようなことが起こるか予測できるだろう。
 すなわち、それは、自我を消滅させるための運命である。
 それは、謙虚で素直で柔和になる運命である。
 ここで大切なのは、「謙虚のふりをする」運命ではないということだ。本当に謙虚になる運命が訪れるということである。人が本当に謙虚になるには、どうすればいいのだろうか?
 謙虚とは、「自分は他の人に比べて偉い」といったプライドや虚栄心がないこと、「自分には偉大な力があって何でもできる」といった自信過剰な気持ちがないことである。だからといって、それは卑下とは違う。卑下は傲慢さの裏返しにすぎない。謙虚さとは、傲慢さが徹底的に排除された状態である。
 したがって、謙虚になるための運命とは、プライドや虚栄心が破壊される運命であり、自信過剰がうち砕かれる運命である。要するに、世間でいうところの、挫折や失敗、屈辱といった苦しみである。そうして、これでもかというほどプライドを叩きつぶされ、これでもかというほど自信が叩きつぶされ、「何事も自分の力でできるものなどない。すべては神の力で“させていただく”のだ」と悟るのである。
 そのためには、一時的に成功することもある。金持ちになったり名声を博したりして、「俺は偉い。自分の努力と実力でこの成功を勝ち取ったのだ」と有頂天になり、傲慢な気持ちが芽生える(たとえその傲慢さを態度として表すことはなかったとしても)。
 だが、低い場所から落ちるよりも高い場所から落ちた方が強烈にこたえるように、今度はその高い場所からいっきに落とされることになる。そうして挫折や失敗や屈辱を味わい、徹底的に絶望して血の涙を流すくらい苦しんだ末に、自分は偉い人間だと思っていたこと、自分の力で成功したことは、単なる勝手な思い込みや幻想だったことを、骨身に染みてわかるようになる。
 ここまで苦しまないと、本当の謙虚さというものは身に付かないのかもしれない。たとえここまで苦しんでも、本当の謙虚さが身に付かない人もいる。それだけ真の謙虚さを養うことは容易なことではない。
 いずれにしろ、このような挫折や失敗や屈辱的な運命は、神からの「恩恵」なのである。少なくても、そう思って受け入れるしかない。覚醒するには、それが必要だったから訪れたのだ。このような運命がイヤなら、覚醒など臨まないことだ。覚醒に導いて下さいなどと神に祈ったりしないことだ。
 覚醒の道とは、このような厳しく辛い自己否定の道を歩むことである。「偉そうに振る舞って人々から称賛を受けることができる」道ではない。
「神様、覚醒をめざしているのに、なぜこんな苦しみを与えるのですか?」などと神に文句をいうとしたら、神は困惑してしまうだろう。
「覚醒をめざしているからこそ、おまえの願いを叶えてやろうと、こうした“恩恵”を与えたのではないか」と、神は答えるに違いない。
 プライドや虚栄を否定される屈辱的な運命が訪れたとき、それにまだ不平や不満の気持ちがあるうちには、まだどこかに傲慢な気持ちが潜んでいるのであり、完全には謙虚であるとはいえないのだ。
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コメント

 たった今も、なんで俺の人生はうまくいかないのだ!と机をたたいてうなり、暗澹たる気持ちになりましたが、先生のブログを思い出し、最近のいくつかの記事を声を出して読んだら心がすーっと落ち着きました。
 50年生きてきて、やっとわかったこの世を支配している法則のこと。それは「道徳の教科書のように誠実に努力すれば報われる」というのでは決してない。生き恥をさらしている人生でいう言葉もありませんが、もし僕の人生に意味があったとしたら、それはたった一つ「絶望と苦しみの毎日を生きていても、そのこと自体に意味があるということ。」を知ったことです。それ以外に人生という連立方程式を説明できる答えを見いだせません! 
 最近鈴木秀子さんの本を読んでいます。その中のエピソードの一つに一枚の刺繍のしおりの話がありました。裏側から見るといろいろな色の糸がめちゃくちゃにもつれ合っています。まるで間違いのようにしか見えない。しかし、それをひっくり返してみると見事に飾り文字で刺繍された文字が浮き彫りにされます。「神は愛である」。
人生とはこのようなものなのかもしれません。
2011-07-30 Sat 12:15 | URL | うの [ 編集 ]
斉藤啓一です。うのさん、コメントありがとうございました。
人生というものは、少なくても表面的に見る限りでは、まったくの不条理ですよ。
けれど、おっしゃるように、背後から見たら、私たちの理解を超えた秩序が存在するのかもしれませんね。
この問題は、旧約聖書の「ヨブ記」のテーマでもあります。
外的にどのような状況が起ころうとも、それに対してどのような態度で向き合うかの自由は、いかなる状況でも奪われません。気高く受け入れるか、腐ってしまうか? それにより、人間が試されるともいえそうです。
表から見れば、気高く生きても社会からは認められないでしょうが、裏から見れば、そんな人間が紡ぎ出すその美しい模様に、「別の世界」の人たちから賞賛を与えてもらえるかもしれません。
2011-07-30 Sat 15:45 | URL | [ 編集 ]

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