心の治癒と魂の覚醒

        

 どうしたら神を信じられるか ①

 神(あるいは仏、その他、高次の霊的存在)を信じることが、宗教や信仰生活の第一歩となることは、言うまでもないでしょう。なぜなら、神が存在するかどうかは、(少なくても客観的な科学的事実としては)実証できないからです。ですから、信じるしかないのです。
 それに対して、今の科学は基本的に唯物主義なので、(頭の固い)科学者は、目には見えないし観測もできない「神」などというものを信じる人々は、それだけで狂信だと思っているかもしれません。
 しかしながら、最先端の科学理論によりますと、この宇宙に存在するもののうち、私たちが観測できたのは、わずか5%ほどで、残りの95%は観測できない未知なるエネルギー、あるいは他次元の何かだと言われているのです。そうなりますと、わずか5%しか宇宙のことを知らないのに、「神などいない、神を信じる人間は狂っている」と決めつけることはできません。そのような見解の方が狂っているように思えます。

 それはともかくとして、五感でとらえることができず、観測もできない神を本当に信じることは、実際にはかなり難しいと思います。神を信じていると語る人はたくさんいますが、いざとなると信じていないことが露呈してしまったりするのです。
 正直なところ、私も頭では神を信じているつもりですが、厳しく自分を見つめるとき、本当に信じてはいないのではないかと思ったりするのです。
 というのは、神は宇宙を創造するほどの偉大な力を持ち、また愛ですから(愛でなければ神とは呼べないでしょう)、神は私たちが幸せを祈れば、それを聴いてくれて、私たちが幸せになるように導いてくれるはずです。まさか、耳が遠くて私たちが一生懸命に祈っても聴こえないということはないでしょう。たとえ祈らなくても、私たちが幸せになるように導いてくれるはずです。
 そうなると、神に祈りを捧げ、人間としてそれほど悪いことさえしない生活を送るならば、幸せになっていくはずなのです。
 ところが現実には、幸せになるどころか、さまざまな不運や苦労が訪れたりするのです。多少の不運や苦労なら我慢できますが、心を歪ませ腐らせてしまいかねないほどの苦しみがやってきたりするわけです。
 しかし、本当に神を信じているならば、「この不運や苦労も、幸せになるためのプロセスなのだ」と思って、このことで苦しんだり悲しんだり、腐ったり、心を乱したりしないでしょう。「これも、私が幸せになるために必要だから神様が与えて下さったのだ。ああ、何てありがたいことだろう」と思って、素直に感謝して喜ぶはずです。
 しかし、私にはなかなかそれができません。嘆き、怒り、神に文句を言い、心を乱してしまいます。そうして、私は本当に神を信じてはいないのだと気づくのです。ただ自分の都合のいいように、神を利用していたにすぎないのだと。そして、いかにも神を信じているかのようにブログで書いたりしている自分が偽善者のように思えて自己嫌悪に陥ってしまうのです。
 
 ただ、少し言い訳をさせていただければ、信仰に目覚めた若い頃は、けっこう本気で神を信じていました。「神に祈っていれば、望みを叶えてくれるのだ、すべてよくなっていくのだ」と単純に信じていました。その結果、確かに叶えられた望みもありました。しかし、叶えられない望みもかなりありました。1年、2年、3年、10年、20年、ひたすら祈っているのに叶えられないとしたら、どうでしょうか。しだいに神への信仰が萎えてしまっても無理はないのではないでしょうか。祈り方が悪いのでしょうか? それとも、まだ時間が必要なのでしょうか? ならば、あとどれくらい祈ればいいのでしょうか? 30年でしょうか? その頃にはたぶん、私はこの世にいないでしょう。
 信用というものは、約束をきちんと果たされることで培われるものです。約束を破ってばかりいる人を、誰が信用できるでしょうか? 神も同じではないでしょうか。信じて祈っていれば、しだいに幸せになっていく、その実績が積み上げられてこそ、神を信じることができるようになるのではないでしょうか。そのような実績がなくして、祈っても幸せになるどころか、ますます不幸になっていくとしたら、神を信じなさいと言われても、約束を破ってばかりいる人を信じなさいと言われるのと同じではないでしょうか?
 こう考えると、信仰というものは、もともと実行が無理なことなのかもしれないと思えたりもするのです。
 しかしながら、最近、この懐疑の極点とも言うべきところにこそ、信仰のポイントと言いますか、奥義のようなものがあるような気がしてきたのです。(続く)
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神への愛 | コメント:4 | トラックバック:0 |
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コメント

 投稿露出が多くてごめんなさいm(_)m
  似たようなことを考えています。僕の場合は、万策尽きて、神以外に頼るものがないこと。それと神の存在を想起させるものとして多くの臨死体験があること。この二つが万が一神がいるかもしれないよりどころになっています。ただ自分で臨死体験を経験したわけでないので、頭で理解できても心は相当疑っています。
 若いとき、未知の物質を探求していて、ひらめいてうまくいったことがありましたが、実力ではなく導かれたとしか考えられらいことがありました。その他に(理系ですので)あまりにも自然界は美しい法則からなりたっていると、間接的に神の存在を感じたこともありました。でも自分が追い詰められて、うつになって心が石のようになったとき神は信じられませんでした。ただこのまま生物から無生物に変わる感覚だけでした。現在は、神以外に希望を見いだせないから、万が一神がいたならと、現実の世界では無力だけれどなんとかがんばって生きていかなければと思っています。
2011-07-31 Sun 21:08 | URL | うの [ 編集 ]
斉藤啓一です。うのさん、コメント、ありがとうございました。
「神以外に頼るものがない」という、ぎりぎりのところまで追いつめられてこそ、本当に信仰というものが生まれるのかもしれませんね。
ただ、うつ状態だと、なかなかそれができないというのも事実ですね。
けれど、とにかく限界のところで、人は何かをつかむような気がします。
貴重なご意見、感謝です。

2011-07-31 Sun 21:26 | URL | [ 編集 ]
 おはようございます、斉藤先生。何度かショッキングな霊体験があると、霊的存在を否定する人の言葉が悪い冗談に聞こえます。「目や耳に蓋でもあるのかな?」とも。

 もちろん、自分を疑ってみる姿勢も重要ですが、認識してしまった事はどうしても事実です。これは、私にとって必要だから「与えられて」いると思います。必要なければ違う人生が用意されているでしょう。

 神をどのような形で認識するか、人それぞれ用意されているレールが違います。他のレールに目移りして脱線しないようにしていれば、いいのではないでしょうか?

 「数霊」の深田剛史氏は自著でこう述べています。
「人は自分自身を信じてこそ はじめて神をいかなるときも疑うことなく信じることができるのです」。「たとえ心では悲しむような出来事であっても玉し霊(魂)は喜んでいるのです。なぜなら、その出来事によって成長するからです。玉し霊は成長を望みます。一方、心は楽できる方を選びます。なので、心を玉し霊に帰依させる。そうしますと自然に行動は変わってきます」

 神や天の法則にしたがった生き方を神道では「霊主体従」といいますが、「霊主心従体属」のほうがよくこれを表していると思います。
2011-08-01 Mon 08:03 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ワタナベさん、コメント、ありがとうございました。
その通り、「認識」なのですよ。
続きは、「認識」ということについて書こうと思っていたのです。「信じる」という言葉が適当ではないような気がして、「認識」と呼ぶ法が正確ではないのかと。詳しくは、続きでお話いたします。
いずれにしろ、貴重なご意見、ありがとうございました。
2011-08-01 Mon 19:42 | URL | [ 編集 ]

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