心の治癒と魂の覚醒

        

神は人間をどう愛するのか?

 私たち人間は神をどう愛するかについて述べたところで、今度は、神の方は人間をどう愛するのかについて、考えてみたいと思います。
 それを説明するために、インドの哲学(ヨーガのサーンキャ哲学)で説かれている、世界創世論を簡単にご紹介いたします。つまり、世界と人間はどのように生まれたのか、ということです。
 それによると、神は絶対的な存在として、ひとり至福の境地に浸っていました。形もなにもない、純粋な意識そのものでした。ところがあるとき、「自性(じしょう)」という、ある種の物質的な存在に遭遇しました。その結果、神はこの自性と混じり合って一体となります。ただし、両者の間には根本的な質の違いがあるので、完全に一体になったわけではありません。たとえるなら、スポンジが水を含むような感じで一体になったのです。
 自性と一体になった神は、意識が多数に分裂してしまい、物質こそが自分であるという錯覚を起こすようになってしまいました。自性はその性質上、不安定で移ろいやすく、無常です(前に述べた3つのグナとは、実は自性が持つエネルギーのことなのです)。そして自性は有限です。そのため神は、広大無限の広がりを持った存在から、いきなり狭い牢獄に幽閉されたような不自由さと無知蒙昧さに陥ることになりました。
 そうして、神の苦悩(人間の苦悩)が始まったというのです。

 ところで、なぜ神が自性という存在と出会い、ひとつになったのか、なぜそんなことにならなければならなかったのかという理由ですが、一説によると、さまざまなことを経験し、「自分とは何か?」という認識を得るためではないかといわれています。
 ちょうど、鏡がなければ自分はどんな姿をしているのかわからないように、神は自性という鏡を通して、自分の本当の姿を知ろうとしたらしいのです。
 前回述べたように、神の本当の姿とは、愛、正義、美、平和、思いやり、誠実さ、謙虚さ、高潔さといった美徳です。そして、他者に依存せず単独で至福を得ている存在です。それを知ることが、自性と一体になった理由、すなわち、この世界が創造された理由だというのです。
 換言すれば、神のエネルギーのひとつである私たち人間がこの地上に生まれてきた目的も、まさにこれなのです。「自己認識の旅」。これが地上に生まれた目的です。自己認識とは、要するに覚醒ということです。私たち人間の本質は神なのだと認識することです。

 このような考察からいえることは、「神」と「人間」は、別々に存在するわけではないということです。すべては神なのです。そのため、神には愛する「他者」は存在しません。神の愛は、究極的には「自己愛」なのです。神は自分だけを愛しているのです。
「自己愛」というと、少し聞こえが悪いのですが、もちろん人間レベルでいう、いわゆる「ナルシシズム」とは違います。
 愛というものは、基本的には自他の関係性を土台にした概念であり、ひとりでは関係性が存在しないため、愛も存在しないのですが、一方で愛とは、両者がひとつになることでもあります。つまり、愛というものは、矛盾を内在したものなのです。
 そのため、神の愛も同じで、神はひとつなのだから愛は存在しないのですが、ひとつという点で、まさに神は愛そのものといえるわけです。
 神の愛は、このように「自己愛」ですから、人間も本質的には「自己愛」であり、自分だけを愛すればいいのです。つまり、他者を愛することは自分を愛することになるのです。他者を自分のことのように愛するということです。

 ところが、自性という物質性に幽閉されている私たちは、神以外に「自分」がいるのだと錯覚しています。そう錯覚しているのは、本当の自分ではない偽我なのですが、これを本当の自分であると思いこんでいるわけです。そうして、苦しみ悩み、本当の自分ではなく、幻想にすぎない偽我を喜ばせようと、必死にもがいているわけです。
 しかし、神が本当に愛しているのは、実体のない幻想としての偽我ではなく、本当の自分(魂)ですから、自分(人間)を苦しめている偽我などは、むしろ排除すべきものとなります。いうまでもなく、そんな偽我を作り出したのは、自性です。
 したがって、自性という物質性にからまれた神は、自性から離脱し、(自己認識を得たうえで)もとの単独の状態に戻ろうという、根源的な欲求を抱き続けているのです。それが私たちには、覚醒や解脱への欲求として現れているのです。
 そして、その欲求そのものが、「神の愛」であり、その欲求を人間にかなえてもらいたいという働きかけが、神の人間(自分)への愛ということになるのです。

 したがって、神の愛は、人間(自分)を苦しめている偽我を消滅させるということになります。偽我にとらわれている限り、本当の自分を認識することはできないからです。
 しかし、偽我を自分だと錯覚している私たちにとって、いわゆる「幸福」とは、この偽我を喜ばせることですから、その視点でいえば、神の愛は、基本的には私たちの「幸福」を破壊するように働くのです。
 ただし、人間が耐えられる限りにおいて、ある程度の手加減をしながら、徐々に破壊していくようですが(強い魂を持った人は早く本当の幸せをつかんでもらいたいためか、いっきに破壊することもあるようですが)、いずれにしろ、神という存在は、その愛ゆえに、私たちの「幸福」を壊そうとするのです。
 これが、神という存在なのです。神社仏閣に行き、偽我が喜ぶようなお願い事を叶えてくれるのが、神の姿ではありません。

 そのため、神は、人間を目先の幸福ではなく、最終的なゴールを見据えた遠大な視野から真の幸福へと導こうとします。対症療法ではなく根本的な治癒をめざしているわけです。神に救いを祈ったら、逆に「不幸」なことが起こるようになった、ということが少なくありません。しかし、それこそが、本当に神の救いが働いた証なのです。
 本当の愛情を持った親であれば、「学校なんて辛いから行きたくない」と子供にお願いされたら、「いいわよ。学校など行かないですむようにしてあげます」などと答えないでしょうし、本当の医者なら、「酒が飲みたい」という患者に対して、酒を与えることはしないでしょう。それどころか、もっと宿題を与えたり、あるいは苦い薬を与えたりするかもしれません。
 これが、神の愛し方です。偽我を自分と錯覚している私たちにとって、それは「自分」を否定し抹殺することを意味しますから、ときには非常に辛く耐え難いものに感じられます。神の愛は甘くありません。
 もっとも、究極的には神とひとつである私たちは、自分自身がそういう愛を望んでいるともいえるのです。その証拠に、もし人生がすべて「幸せ」だけだったら、おそらく魂は非常な空虚感に襲われるでしょう。逆に、どんなに辛くても、苦しみを敢然と乗り越えたならば、魂は誇りと喜びに輝いてくるはずです。
 神のこうした深い愛、いわば「親心」は、私たちが覚醒し、偽我ではなく本当の自分である魂に目覚めたときに得られる比類なき最高の至福と歓喜を経験して、初めて理解できるのかもしれません。覚醒した人の体験によれば、これまでのあらゆる苦しみを補ってもなお、余りすぎるくらいの恩恵であるといいます。
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2010-06-21 Mon 13:13 | | [ 編集 ]

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