心の治癒と魂の覚醒

        

どうしたら神を信じられるのか ②

 
 前回、申し上げたように、本当に神を信じているなら、何があろうと、すべては幸せになるために神が与えてくれた恩恵なのだと感謝し、心が乱されることはないでしょう。現状に対する不満、将来に対する不安を抱いているということは、神を信じていない証拠だと思うわけです。しかし、それを本当に信じて、何があっても完全に安心立命の境地でいられるというのは、なかなか難しいわけです。
 それでも、自分が神を信じていないことを認めるのが悔しいので、「これでいいのだ、これも幸せになるために神が与えてくれた恩恵なのだ」と、必死になって自分に言い聞かせるのですが、心の奥では、そんなことを信じていない自分がいるのです。心の底から信じ切れないのです。頭と心が分離してしまっているのです。そして、そんな自分を情けなく思うのです。

 しかし最近、私は以上のような発想そのものが間違っているのではないかと思うようになりました。
 というのは、ちょうど川の上流と下流のように、本質的には人間は神であると思いますので、本来は神と人間はひとつだとも言えるわけです。
 だとしますと、果たして神は「信じる」ということをするのだろうか?と思ったわけです。神は全知全能のはずですから、知らないものはないことになります。普通、信じるという行為は、「それがどのようなものかはわからないが、そうだと思うことにしよう」ということでしょう。つまり、「わからない」ということがあるわけで、それでは全知全能とは言えません。
 したがって、神には「信じる」ということはないと思われたのです。神は何も信じてはいないのではないでしょうか。
 神はただ、認識し、また意思するだけではないでしょうか。ちょうど私たちが、目の前にリンゴがあったとき、「私は目の前にリンゴがあると信じる」などと思ったりせず、ただリンゴがあることを認識するだけのように。また、歩こうとするとき「私は自分が歩けると信じる」などと思わず、歩こうと思った瞬間に歩くという行為をしているように。

 ですから、もし私たちが「信じる」ということをするならば、それは神とは異なった行為をしていることになるように思われます。つまり、信じるということ自体が、神との一致を妨げている可能性があるのではないかと思われたのです。
 とはいえ、私たちは現実には全知全能ではありませんから、わからないことだらけです。そうなると、仕方なく「そうだと思うことにしよう」といって、「信じる」しかありません。
 ただ、物質世界ではなく、死後、霊的な世界に移行すると、そこは完全に想念の世界であり、神に近い能力が発揮されるようです。つまり、何か考えるとその瞬間にそれが現実になるらしいのです。家が欲しいと思った瞬間に目の前に家が現れ、友達に会いたいと思った瞬間にその友達のところに移動すると言われています。何かを知りたいと思った瞬間に答えが与えられるといいます。
 つまり、私たちも、霊界へ行けば、おそらく「信じる」ということはなくなるのかもしれません。そこにあるのは、認識と、創造的な意思だけです。
 いわゆる「成功哲学」だとか「想念の魔術」といった本を見ますと、「念じたことは現実になる」と書いてありますが、実際、ある程度はその通りなのだと思います。ただ、物質世界は波動が荒いので、現実となるまでに時間がかかったり、霊界ほど完全には再現されないのでしょう。
 ただ、量子力学の世界では、観測者の意識が客観的な現象に影響を与えていると言われています。簡単にいうと、「こうだと思って観測すると、実際にこうなり、ああだと思って観測すると、実際にああなる」ことが実験でも確かめられているのです。これなどは、人間の意思の力が創造力を持っていることを示すひとつの証拠と言えるのかもしれません。量子とは微小のエネルギーのことですから、そのようなミクロの世界は波動が細かいので、霊界で起こっているような現象が起こるのかもしれません。

 こう考えますと、いわゆる「信仰」というのは、「信じること」ではなく、少なくても「信じようとすること」ではなく、やや語弊がある表現ですが、「こうだと決めつける」ことなのかもしれません。
 ですから、前回、何回も約束を破っている人など信じられないという話をしましたが、過去の実績によって信じられるとか、信じられないといったレベルではなく、神の創造的な意思によって「こうなのだ」と考える、そこからすべてが始まる、そういうものではないかと思ったのです。
 仮に、今まで通り、それを信仰とか「信じる」、「信用する」という言葉を用いると、信じるという行為は単なる受け身の行為ではなく、創造的な力そのものであるのかもしれません。つまり、信じること、それ自体に意義があるように思うのです。
 ですから、何回も約束を破られているのに、なおも信用することができる人がいたら、その人はすごい精神力の持ち主だと言えるわけです。そして、信用するというその行為自体が、ある種の創造的な行為となり、現実をその通りに変えていくように思われます。

 たとえば、小説の話ではありますが、『レ・ミゼラブル』のミリエル司教は、まさにそんな人でした。ジャン・バルジャンに宿を提供したのに、その善意が裏切られ、銀の皿を盗まれたのです。普通だったら、そんな人を誰が信用するでしょうか? どうせまた同じことを繰り返すに違いないと思うでしょう。しかし司教は、ジャン・バルジャンを信用し、銀の燭台まで与えたのです。
 私は、ジャン・バルジャンの未来を決めたのは、このときのミリエル司教の「信じる力」ではないかと思うのです。もしこのとき司教がジャン・バルジャンのことを少しでも疑っていたら、ジャン・バルジャンは、その後の人生を無私の愛で生きることはなかったと思います。
 とはいえ、誰が見ても、実証的には、ジャン・バルジャンを信じるなどは愚かな状況でした。前科者であり、すでに司教の善意を裏切った人間なのですから、彼を信じることなど、普通はできない状況です。それでも信じる人がいたら、「バカだ、お人好しだ」と思うでしょう。しかし、さすがにミリエル司教のような非凡な霊格の持ち主は、こういう状況で信じることができたわけです(正確に言えば、創造的な意思を発揮したのです)。そうして、一人の人間を救ったのです。信じるというのは、単なる心の状態ではなく、能動的なひとつのパワーなのだと思います。
 結局、信じるということは、実証や実績の結果として芽生えるものではないのかもしれません。そういうのは取引の世界だけのことです。宗教や信仰の世界は、取引の世界ではありません。信じることが第一原因なのです。つまり、信じることからすべてが始まるのです。第一原因としての信じる行為は、ひとつの創造的な力であり、おそらく神を源流としているように思われます。それが「信仰」の正体ではないかと思ったのです。

 したがって、「信じていれば、こんないいことがある」という取引の発想は、宗教の世界における「信じること」にはなりません。結局そういう発想では「信じても何もいいことなんかない」ということになってしまいます。過去の実績があるから信じられる、実績がないから信じられない、という問題ではないのです。宗教の世界で信じるというのは、実際には「そういうものと決める」ことなのです。そして決めたら疑いの念が心に入り込むことを断固としてはねつけるのです。「すべてが神の導きだと信じる」というよりは、「すべてが神の導きだというのが事実である」と「決める」のです。そうして後から、それについていろいろと疑念が湧いてくると思いますが、そうしたものを一切脳裏に寄せ付けない精神力を持つべきなのです。そういう疑念が起こっても、徹底的に消してしまうことができるまでに、ある種の瞑想力のようなものを身につける必要があるわけです。また、すぐに願い通りの結果が現実として得られなくても、まったく疑念の念を抱かずにひたすら自分が「決めたこと」だけに意識を向け続けるのです。
 雑念が湧かなくなるほど瞑想力を鍛えれば、このような「信仰」が持てるかもしれません。そのためにはやはり、修行を積んでいかなければなりませんが。

 したがって結論を言えば、私は何が間違っていたかというと、「神がすべてうまくやってくださる」という思いを、科学者のように過去のデータで「実証」しようとしたこと、また、そのように思った後で「でも、実際にはそうはならないだろうな」という疑念が意識に入るのを許していたことではないかと思うのです。
 信じるというのは、「こうなのだ」と決めるところから始まる「創造的な意思」なのです。霊界の住民も神も、みんなそうしているのです。
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コメント

 こんばんは、斉藤先生。非常に考えさせられる深いテーマをありがとうございます。

 たしかに「信じよう」と努力すると現時点では信じていないみたいなことになりますね。信じた結果を要求する心理が頭にちらつきますし、疑念もよぎります。

 ミリエル司教はどうだったのでしょう。もしかしたら、銀の燭台を渡した後、ジャンが少年から金を奪うことまで予想していたかもしれませんね。二度裏切られたら三度、三度裏切られたら四度、何度でも同じようにジャンを信じ続ける覚悟があったのではないでしょうか?

 「 ジャンが改心する 」という報酬に望みを抱く以前に、自分はどうするべきか、どうあるべきか、道が決まっていたのでしょうね。ジャンの道を正すための行動ではあっても、自分の道をも正して(確かめて)いたのかもしれません。誤解を恐れず極論してしまうと、「ジャンのための行為でもあり、ジャンは別にどうでもよかった」のではないでしょうか?

 「神様は認識し、意思するだけ」というのは、まさにそうでしょうね。ただ、神様にとっては全てが既知であるのに対し、私たち人間に与えられた認識がこうまでも狭いのは、どういう理由なのでしょうね?
2011-08-04 Thu 19:47 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ワタナベさん、こちらこそ深い内容のコメント、ありがとうございました。

>「ジャンのための行為でもあり、ジャンは別にどうでもよかった」のではないでしょうか?

はい。確かに誤解を与えかねない表現ですが(笑)。おっしゃる意味わかります。その通りだと思います。

>私たち人間に与えられた認識がこうまでも狭いのは、どういう理由なのでしょうね?

なるほど。ワタナベさんのこの言葉には、ハッとさせられました。ということは、やはり人間には「信じる」ということが必要なのでしょうか? だから神様が、あえて認識を狭くさせている可能性もあるかもしれませんね。

う~ん、この問題、もう一度白紙に戻して考えてみる必要がありそうです。
貴重なご意見、ありがとうございました。


2011-08-04 Thu 20:32 | URL | [ 編集 ]
 ヒントになるかどうかわかりませんが、古代の日本人は認識下にある事象「大自然」を神としていました。認識が狭いなら狭いなりに、与えられた認識を神の実在としたのですね。

 私たち下層次元の民からは見えないだけで、「大神」の世界ではまた、認識できないものごとがあるのかもしれませんね。そこで神様も同じように認識できないことに悩んでいたりして・・・。
2011-08-05 Fri 07:39 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ワタナベさん、コメントありがとうございました。
自然や自然に働いている法則のようなものを認識し、それを神として受け入れるという日本古来の発想はすばらしいと思います。
霊界はある種の階層構造になっているようですから、下の層にある神霊は究極の道理は理解できないのではないかと思います。そういう神霊たちは、どうしているのでしょうね。やはり「信じている」ということなのでしょうか。
2011-08-05 Fri 10:16 | URL | [ 編集 ]
はじめまして、さてんと申します。

ずっとブログを拝見させていただいていました。
少し気になったものですから、横から失礼します。

失礼を承知で申し上げますが、みなさまは考えすぎではないでしょうか。
無理に知識で整理をしようとして、視野を狭めていませんか?
ミリエル司教は自然とそうしただけで、それ以上でも以下でも無いように感じています。
みなさまにも、なぜかそうしたかったことはございませんか?
認識もいろいろと存在させたいがために、そうなっているのではないでしょうか。
例えば、お互いの不足分を補うように助け合えるようになっているとか。
ありのままを感じて受け止めてみるのもいいかもしれません。

何かの参考になれば幸いです。
2011-08-05 Fri 10:40 | URL | さてん [ 編集 ]
言葉足らずでした。

例は、私が勝手に考えた解釈です。
1認識にすぎませんから、考えれば無限に出てくるとは思います。
2011-08-05 Fri 10:51 | URL | さてん [ 編集 ]
斉藤啓一です。さてんさん、コメントありがとうございました。
確かに、少し考えすぎかもしれませんね。考えないのもよくありませんが、考えすぎるのもよくないかもしれません。考えすぎると、ご指摘のように、理屈により、視野狭窄してしまう可能性がありそうです。
ミリエル司教は自然とそうしたのかもしれません。つまり、自然とそうしたすばらしい行いができるくらいにまで意識を高めたわけですね。
しかし、そうなるためには、やはりある程度は考えるということも必要だと思います。ただ、それが行きすぎると弊害をもたらすということは事実であり、その意味でも、さてんさんのご指摘はとても参考になりました。この点を気をつけていきたいと思います。
どうもありがとうございました。
2011-08-05 Fri 10:54 | URL | [ 編集 ]
 習い事の基本は技術の積み上げ、積み込みですが、その基本を無意識にできるぐらいまで叩き込む過程があります。

 ミリエル司教が自然にあのような行いをできるようになるまでのその過程が知りたい場合は、どうしても学究的になる場合もあるでしょう。そこで考えすぎの落とし穴に落ちるのは、「実践しない人」ですね。

 考えすぎにならないためには行動、つまり自分の人生にその教えなりを活かすことを不断に続けなければなりません。

 このブログを読んで、「へー、そんなんだぁ」で終わってしまう人は考えるだけで通り過ぎてしまいます。
大変意義あるコメントだと思います。さてんさん、ありがとうございました。
2011-08-06 Sat 16:42 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
オクです。いつもお世話になっております。僕は「信仰」という言葉を聞くと、どうしても組織化(宗教化)されるものという印象をもちます。ところが人間というのはやはり弱いもので、やはり『お互いの道を確認し合う相手に恵まれないと』その信念が揺らいでしまう気がするのです。その意味では斎藤先生のブログを読むだけでも、積み込みであり刷り込みという神の探求についての意志の強化に役立つ、のではないかと僕は思っております。
2011-08-13 Sat 12:15 | URL | oku [ 編集 ]
斉藤啓一です。オクさん、コメントありがとうございました。
覚醒の道は基本的には一人で歩んでいかなければならないので、孤独ですし、心細く、信念がどうしても揺らぎがちになりますね。
そのためにも、このような同じ志をもった人たちどうしが励まし合うことは大切であると思います。そのためにこのブログを多少なりともお役に立てていただけるようでしたら、これほど嬉しいことはありません。
これからも、がんばっていきましょう。
2011-08-13 Sat 21:06 | URL | [ 編集 ]
okuです。斎藤先生ありがとうございます。非常に助かります(合掌)
2011-08-14 Sun 08:18 | URL | oku [ 編集 ]

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