中傷に対する姿勢2011-08-08 Mon 18:11
最近、このブログに、私に対する中傷のコメントを寄せてくる人がいます。失礼ながら、よくこんなことを書いて恥ずかしくないな思うような内容です。このようなコメントを真面目な読者の皆さんの目に触れさせるのは申し訳ないので、投稿は削除させていただいています。 中傷ではなく、紳士的な態度で寄せてくる批判ならば、私は大歓迎です。このブログの一番最初にも書いていますように、私がこのブログで書いていることは絶対に正しいなどというつもりはなく、私自身が求道の途上にありますから、あくまでも暫定的で仮定的なものにすぎません。ですから、批判をいただけるというのは、私にとっては非常にいい勉強と成長の機会なわけで、有り難いと思っています。「これはこういう理由で間違っていると思いますが、いかがでしょうか?」といって、根拠を示して指摘するのが批判です。もちろん、その批判をそのまま受け入れるわけではなく、納得がいかなければ反論はしますが、検討してみて、私が間違っているとわかったら、私は正直に自分の非を認めるでしょう。その点では、へんなプライドはありません。というより、自分が間違っていたら素直に非を認めるということが、私のプライドです。 しかし、ここ最近寄せられてくるのは、私のどこがおかしいといった根拠も何も示さず、(私から言わせれば)ひとりよがりの妄想にかられて、私の書いたものではなく、私自身や私の活動に対する皮肉や悪口が、お世辞にも上品とは言えない表現で書いてくるわけです。つまり、悪意を持って、私の気分を害することを目的としていることがあきらかなのです。 確かに、あまりいい気分はしません。悪口を言われたからではなく、汚物を見たような不愉快さを感じます。 このような中傷や悪口を、インターネットの匿名性を利用して寄せてくる人間というのは、どこか病んでおり、いい仲間にも恵まれず、幸せではないのだと思います。不満でくすぶっているのでしょう。いい人間関係に恵まれ、幸せで満たされている人が、中傷や悪口を言うことはまずありません。結局、批判ではなく中傷や悪口というのは、自分の不満を適当な人を見つけて吐き出しているにすぎないのです。その意味では、可愛そうな人だと言えそうです。不遇で不満にくすぶっていれば、人を中傷したくなったり悪口を言いたくなる気持ちも、わからなくはありません。 しかし、不遇で不満にくすぶっていても、中傷や悪口は決して言わない人もいます。そういう人は真に強い人であり、高潔で、本当の意味で宗教的であると思います。どんなに口先で宗教やスピリチュアルなことを述べても、中傷や悪口を言う人は、もうそれだけで宗教やスピリチュアルからは遠く離れていると思います。 いずれにしろ、自分に訪れてくることはすべて意味があり教えであると思っていますので、今回、このような中傷のコメントが寄せられてきたことを、私はいろいろ考えて学ぶチャンスと考えました。そしてまず、自分の心がどれだけ平静でいられるか自分を見つめてみました。そうしたら、思ったほど動揺せず平静でいられたので、自分も多少は修行の成果が出てきてマシになったかもしれないと、嬉しくなりました。また、このコメントをしてきた人に怒りや憎悪の気持ちが湧いたかどうか、自分を見つめてみました。コメントを読んで一瞬の間、少し怒りを覚えましたが、すぐにそれを意志の力で消すことができました。そして心の底から、「この人の心が平安になりますように」と祈ることができました。私はそんな自分をなかなか偉いと思いました。こう書くと自慢げで自惚れているようで恐縮ですが、正直、そう思ったのです。 したがって、今回このようなコメントをもらったことで、逆に私は自分に自信を持つことができるようになりました。もしかしたら、それが今回の出来事が訪れた意味だったのかもしれません。その点では、コメントをしてくれた人に感謝しています。 何かの本に「悪口や中傷をされたら喜びなさい。じっと耐えることで霊性が向上する」といった意味のことが書いてあったのを思い出しました。皆さんも、もし不当な中傷や悪口を言われたりしたら、感情的になって反抗するようなことはせず(そうしたら相手との間につまらないカルマを残すだけです)、心静かにじっと耐えるか、冷静に対応するようにしてみてください。そうすれば、きっと何かしらいいことが待っているはずです。 スポンサーサイト
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コメント
斎藤先生、いつも興味深く読ませていただいています。
異次元的な感覚から、スピリチュアルなテーマでコメントを綴られている方々のHPをチェックすることが習慣になりました。 残念なことに同じようにネガティブな書き込みでご苦労されていらっしゃいます。 これからも、光と愛がめぐることを祈ります。 2011-08-08 Mon 23:14 | URL | mali [ 編集 ]
おはようございます、斉藤先生。最近コメ露出多くて申し訳ありませんが、打たせていただきます。
悪人はなぜ存在するか、他の人に迷惑を垂れ流し、改心することなく独善にひたる者たちがなぜいるのか、いろいろ解釈できそうですね。 彼らは善人に不幸を与えることで、善人のカルマを浄化するのに一役かっています。善人では他人に苦しみを与えることに躊躇しますが、彼らは容赦なく他人を蔑み、憎み、攻撃します。だから役に立つので、神様はその存在を許しているのです。 彼らは自分を悪人だと自覚していません。節操も礼節もなく、慈悲も自制心も持ち合わせていません。だからこそ目立つ。反面教師としてです。彼らの人生を見れば、その後どうなるか学習できます。出来の悪い兄弟の如く、我々に学びをもたらせてくれるのです。 彼らは指標となります。自分が善なる存在かどうか、彼らと対比することで確かめることができます。光と闇は「寄りかかり、共存して」います。お互いの「我」を出すことでお互いのバランスをとります。 彼らはこの世の「悪想念」を集め、引き受ける「生贄」です。彼らが我々の代わりにこの世の「穢れ」を引き受けて、いわば「悪役」を引き受けてくれるのです。貴重な存在です。決して侮蔑的な意味ではなく、感謝したいです。 彼らのまき散らす「罪」が、尊く、愛らしく感じてきたなら、かなり修行の進んだ人ではないでしょうか? 2011-08-09 Tue 06:31 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
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2011-08-09 Tue 07:26 | | [ 編集 ]
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2011-08-09 Tue 07:31 | | [ 編集 ]
閉めの言葉を忘れていました。そのように反発心を持っていた相手を「自分」と思えるようにすることが目標なのです。
相手と自分という二元的な見方を変えて、そんな闇が現れてくるのも自分であると思えるように日々一元化をはかっていきましょう。 2011-08-09 Tue 17:20 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
閉めの後ですが・・・
悪意があるなしはさておき、よく考えてみてください。 意味のない文章がいくつか書き込まれただけ、です。 自分に心当たりがなければ、耐えたり冷静になる必要もありません。 他の人への配慮として、さっと消すだけでしょうか。 善悪も、両方なければ、共に認識もできません。 おまけに、人や状況によっていくらでも変わります。 たまたま悪人と分類された人を悪く言うのも、 言ったその人の中にも同じ悪意があるように思います。 2011-08-09 Tue 17:45 | URL | さてん [ 編集 ]
斉藤啓一です。皆様、それぞれに大変に奥深く学ばせられるコメント、どうもありがとうございました。
こうして、今回の出来事を通して、学びを深めることができたことは、幸運であると思います。 これからも、よろしくお願い致します。 2011-08-09 Tue 20:55 | URL | [ 編集 ]
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