心の治癒と魂の覚醒

        

 心の病の治癒に関して


 このブログは、「心の治癒と魂の覚醒」というタイトルの通り、「心の治癒」についても扱うことになっています。ただ、究極の「心の治癒」は「覚醒」であると考えていますので、今までは表だって「心の治癒」についての話題は取り上げてきませんでした。つまり、覚醒の道を歩むことが、そのまま心の治癒につながるからです。
 ただ、心の治癒の問題に焦点を絞って考えていくことも意義があると思いますので、今後はこのテーマについても取り上げていこうと思っています。究極的にめざすところは同じですから、心の治癒に関するテーマでも、「覚醒に至る道」について論じられているという読み方ができると思います。

 さて、統合失調症や鬱病、神経症、パーソナリティ障害、学習障害、注意欠陥・多動性障害といった精神的な病、あるいは、不登校や引きこもり、リストカットなどの自傷癖や摂食障害などの問題も含めて、こうしたことを癒すために、さまざまな理論や方法が提案されています。私は精神科医や医師ではないので、これから述べる意見はあくまでも個人的な考えにすぎないことを、あらかじめお断りしておきます。
 私の考えでは、心の病を癒すためにもっとも大切なことは、心の病を抱えた人を必要以上に「特別視」しないということです。本人も周囲も社会もです。もちろん、必要な援助やケアはしなければなりませんが、私が言いたいのは、まるで普通の人とは違う異質な人であるかのように見なすべきではない、ということです。
 たとえば、友達が風邪を引いてフラフラしていたとしても、その友達を「異質な人」とは見ないでしょう。ところが、統合失調症であると言ったら、それだけで周囲の見る目が違ってくるのです。一歩か二歩後ずさりされるような印象を受けるかもしれません。その上、精神病院に通院しているとまで言ったら、まるで違う人種か、ひどい場合はまるで悪性の伝染病にでも侵されているかのような接し方をされてしまったりするわけです。実際、社会から隔離されたり、特別な治療や処遇を強制されたりすることもあります。
 しかし、このように特別視されてしまうことが、実際には心の病を癒すことを妨げているように、私には思われるのです。

 この社会というものは、人生の不幸や苦しみを連想させるものからは目を背け、排除しようという傾向があります。精神的におかしくなってしまった人も同じように扱われたりします。
「世の中には、こんなにも苦しくひどいことが起こり得るのだ」
 このように思って人々は恐怖を覚えるからです。そんなひどいことが自分の身にも起こらないとはいえないという恐怖心が煽られてしまうのです。
 そこで、さまざまな考えをめぐらします。「こういう人は前世で悪いことをした罰なのだ(私はそこまで悪いことはしていないはずだから大丈夫だ)」とか、「こういう人の近くにいると因縁をうつされて自分もああなりかねない」などと考え、近くに寄らないようにしたりするわけです。そして、こういう人が人目につくような場所にいることを、露骨ではないにしても、そのまなざしや態度や雰囲気で嫌悪するのです。
 あるいは、このようなひどい接し方はしなくても、「こういう人たちは憐れむべき人たちだ」と考えて、やはりある種の差別的な接し方をして特別視するのです。

 また、不登校や引きこもりの子供というものも、世間から特別視されます。確かに、学校へは行くものという社会の規範に照らせば「特別」であり「異常」なことなのでしょう。しかしそれ以上に、人間存在の根底部分から特別視され、異常視されてしまうわけです。
 たいていの場合、このような子供の問題や、あるいは学校の成績が悪いといった「出来の悪い子供」に対して親が悩むのは、子供自身のことを考えているという理由もあるでしょうが、むしろ世間から自分が批判されたり悪く思われることを怖れているという理由も少なくないのです。つまり、「出来の悪い子供」になったのは、「親の出来が悪いからだ」と世間から思われるのを怖れているわけです。実際、世間ではそのように思う傾向が強くあるでしょう。そのために、非常に大きく騒がれ、問題視され、怖れられ、忌み嫌われているのではないかと思われたりもします。
 そして、このような傾向が、登校拒否や引きこもりの子供をますます追いこんでしまっていると私は考えているのです。誰だって学校に行きたくないときはあります。しかし、ちょっとでも学校に行かない日が続くと、「登校拒否児」というレッテルを貼られ、親や周囲から責められ、まるで人間として劣っているかのような傷を子供に与えてしまうわけです。
 登校拒否の子供は、単に学校に行かないというだけであり、引きこもりの子供は、ただ部屋に閉じこもっている、というです。それ以上でもそれ以下でもありません。

 病気や問題行動に「名前」をつけることは、それを認識しやすくなるという利点がある反面、名前をつけたがために、その名前にとらわれ、ますますその病気やトラブルに追い込まれてしまうという否定的な面もあるように思います。
 いずれにしろ、心の病気やトラブルが起こると、治療や矯正という名目で、特別な存在として扱われ、ときには社会から隔離したり、友人たちと隔離させてしまったりします。しかし、それが問題なのです。もちろん、周囲に暴行を働くとか、甚大な迷惑をかけるような場合は隔離も必要でしょうが、そのようなケースはそれほど多くありません。
 心の病を癒すには、この社会全体が、「心の病」を抱えた人、あるいは人生にほんのちょっとつまづいただけの人を特別視することなく、おおらかに受け入れることが非常に重要なのです。できれば「心の病を抱えた」という認識さえ持たない方がいいでしょう。あたりまえの存在として付き合うのです。
 そして、それが「世界」というものではないでしょうか。
 世界というものは、いいこともあれば悪いこともあり、都合のいいことも起これば都合の悪いことも起こります。それが世の中の真実です。見た目がきれいで幸せなものだけしか見たくない、そういうものは存在してはならないのだ、という非現実的なある種の潔癖症に、私たちは侵されているように思います。いわゆる「除菌」関連の商品が人気があるというのも、強迫的で非現実的なまでの潔癖症が根底にあるのかもしれません。

 むかし、赤塚不二夫の『おそ松くん』という漫画がありました。そこには、いわゆる「知的障害児」と思われる子供が登場します。鼻水を垂らしながら「北海道のケイコさん~」などと意味不明のことを叫びながら走っていくのです。いまこの漫画がテレビ放映されたら、「差別だ! 知的障害児をバカにしてるのか!」などといった抗議が来るかもしれません。
 しかしこの漫画には、こういう障害児も含めてすべてを受け入れていくあたたかさが漂っています。実際、この漫画がテレビ放映されていた昭和40年代くらいは、近所にこういう子供がいて、「おまえ、へんな奴だな」などとからかわれながらも、普通の子と一緒に遊んで世話をしてあげるような連帯感がありました。お風呂屋さんに行けば、それこそ身体が不自由な人、精神が病んだ人もいれば、入れ墨をしている人、お年寄りなど、さまざまな人がいて、そこが子供にとって世の中の真実を見るとてもよい場所となっていました。また、そこでいろいろな人とうまくコミュニケーションする能力、ときには助け合う精神を学んだりしたものです。裕福とはいえない環境で育った私なども、ずいぶん銭湯に通いました。冬の寒いときなど銭湯に通うのが辛く、家にお風呂がある家庭がすごく羨ましく思いましたが、今にして思えば、銭湯通いをしたことはとてもよかったと運命に感謝しています。
 心の病を抱えた人は、ちょっと変わっているという程度で普通の人として受け入れられ、仲間として認められ、あたたかく受け入れられて交流し合う環境が、病を癒すうえでもっとも大切な要素となるのです。
 なぜなら、そのような環境というのは、心理カウンセリングや心理療法のエッセンスが非常にいい形で自然に盛り込まれているからです。すなわち、共感的な思いやり、人間としてありのままに受け入れてもらえているという安心感、一体感です。心の病というものは、このようなものによって癒されていくのです。
 もちろん、こうした社会の問題は、私たち個人がすぐにどうこうできることではありませんが、これは重要なことなので、まずは提起させていただきたいと思うのです。
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コメント

 こんにちは、その統合失調症患者です(笑)。確かに偏見はあるかもしれませんが、私は幸運(不運?)にもあまり不便を感じておりません。日本社会も昔より良くなった(制度的に)部分もあるのでしょう。

 精神病患者は私の知る限り、おとなしい人が多いですよ。むしろ、人に苦痛を与えることで快感を得る健常者を見かけると、よほど障害者だなと感じるんですがね。魂的に。

 なぜ、悪意を持つ他人が腹立たしく感じるか、自ブログの方で指摘を頂き、自分の中の悪意の裏返し(「真実への旅」P329)であるとわかりました。やはりまだ自我に振り回されているようです。

 この世は自分の心を映し出す鏡であるという人がいます。社会に不満があるということは鏡に映る自分の顔が醜いと文句を言っている状態だそうです。
 ま、気楽にいきましょう。
2011-08-13 Sat 12:37 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ワタナベさん、コメントありがとうございました。
はい。本当に、健常者の方が異常ではないかと思われるようなことがたくさんあります。見方を変えれば、「いい人」が精神を病んでしまう社会なのかもしれませんね。
「社会に不満がある人は・・・」についてですが、正直な気持ちになれば社会に不満がない人はいないと思いますし、社会に不満がなければないで、これはまた問題ではないかという気もするのですが・・・
聖人や覚者と言われている人、たとえばイエスなどは、ある意味で社会に不満があったからこそ、世の中を改革しようとしたのではないでしょうか。

2011-08-13 Sat 21:12 | URL | [ 編集 ]
私の職場にADHDと思われる人物がおり、LDも併発していると感じています。職務上の権限はその人の方が上なので、どう対応したものか考えあぐねていた時に、この題材を取り上げて頂き、考えるためのヒントになりました。
2011-08-14 Sun 01:39 | URL | 1.9号 [ 編集 ]
 ご指摘、ありがとうございます。キーポイントは2つですね。ここでも以前述べた「行動」が必要です。社会悪や、不正や、制度上の不備などなど、社会のひずみを軽視してはいけませんね、これは直すために良い方法を調べ、考え、それに基づく政党を支持したりと「行動」は行わなければいけません。これがひとつめです。

 そして大切なのはふたつめ、「気持ち」です。そんな不満の元だらけのこの世界が好きかどうかです。私はこの世界を嫌いにはなれません。前のコメで述べたように自分の顔でもあるからです。ニキビがあれば、直すようにケアすればよし、たるんでいればマッサージすればよし、「行動」を怠ってはいけませんが、「気持ち」のうえでこの世界=神を好きであればいいのではないでしょうか?
2011-08-14 Sun 07:15 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ワタナベさん、コメントありがとうございました。
はい。確かに気持ちが大切ですね。平和な心で社会を変えていくということかと思います。
貴重なご意見、ありがとうございます。
2011-08-14 Sun 19:29 | URL | [ 編集 ]

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