心の治癒と魂の覚醒

        

 容赦なき神の愛


 私が宗教やスピリチュアルな世界を探求する際には、ある姿勢を貫くことをモットーにしています。というより、その姿勢が自然になっています。それは、「地に足をつける」ことです。すなわち、現実をしっかりと認識しながら、宗教やスピリチュアルな世界を探求することです。
 スピリチュアルな世界でしばしばうんざりすることは、自分の都合のいい夢やファンタジーを追いかけ、現実から遊離して軽薄な点が見られることです。若い頃、そういう人たちの集まりに行き、そこで私が現実的な意見をいうと、たいてい嫌われました。彼らの「夢」を壊したからです。しかし、しょせん夢は夢です。
 そういう点でいえば、私はスピリチュアルな事柄にはクールなのです。前回は「神への情熱」を熱く説きましたが、今回はまったく逆のことをお話したいと思います。私はしばしば矛盾したことを言うので、人を困惑させたり、「二枚舌」を使っていると思われているかもしれませんが、この世界というものは、表と裏、陰と陽、光と影によってできており、一方だけを語ることは真実を語っているとは言えないと思うわけです。両方を語ることが真実を語ることではないでしょうか。そうなると、結果として矛盾したことを言わざるを得ません。しかし、霊的な覚醒は、この矛盾を乗り越えていくことにあるのだと思います。

 それでは、本題に入りたいと思いますが、それは、神を愛しているという人は、結局、自分で作り上げた「神のイメージ」を愛しているだけではないのか、ということです。ほとんどの人は、自分の都合のいい「神」を愛しているのです。
 それでは、神の実像とは、どのようなものなのでしょうか?
 神は愛であるというのが、少なくても神の定義でしょう。神が愛ではないとしたら、そのような存在を神と認めることはできないでしょう。ですから、神は人間を愛しているところから話を出発させたいと思います。
 誰かを愛するとは、その人が幸せになるように、喜びをもって生きられるようにすることだと言っていいと思います。もちろん、その幸せや喜びというのは、精神的また霊的なものです。
 そのために、神は試練(苦しみ)を与えます。あるいは、神そのものが試練を与えることはないが、自らのカルマの結果だとか、キリスト教世界では悪魔などの仕業によって、その人が苦しむのを「容認」することがあると言われています。
 確かに、人間は苦しみを通して成長するものであると、私も思います。
 しかし、その苦しみにも「限度」というものがあると思うのです。
 たとえば、自分の子供が本当に幸せになるには、その子供をめったうちにし、身体に障害を負わせ、醜い姿にし、そうして苦しい人生を送ることで、晩年にはすばらしい人格者となり、精神的な喜びをつかむと思ったとします。実際、その考えが正しいとします。
 しかし、そんなことができるでしょうか。骨が折れ、顔がつぶされ、「助けてください!」と必死に救いを求めているのに、「この苦しみを通して本当に幸せになれるんだよ」など言うことができるでしょうか。
 そのようなことができる親などいないでしょう。社会的にも、もしそんなことをしたら、犯罪となります。自分ではなく人がそうするのを黙って傍観していた場合もです。
 親からすれば、子供が立派に成長して幸せになることは望みながらも、そこまでの壮絶な苦しみを与えることはできません。それが、人間の「愛」というものです。そして、私たちは、この人間的な愛を神に求めています。そうして神に祈りを捧げているわけです。


 しかし、神の「愛」は、違うのです。神の愛は、人間の感覚からいえば、容赦というものがありません。
 神に祈れば、苦しみを救ってくれるものと、私たちは思っています。実際、祈って救われたという人もいるでしょうが、それが絶対的な事実ではないことは、少し考えればわかることです。たとえば東日本大震災で死んでしまった人は、誰も神に救いを祈ってはいなかったのでしょうか? たくさんいたと思います。しかし、祈りはかなえられませんでした。容赦なく津波に飲まれ、死んでいったのです。
 私たち人間は、「もう耐えられない」というほど打ちのめされ、神に救いを祈っているのに、それが叶えられるどころか、まだ足りないとばかり、さらに追い打ちをかけるように苦しみが訪れることも少なくありません。そうして、ついには精神がおかしくなったり、自殺をしてしまったりすることもあるのです。それは何という残酷でむごいことでしょうか。しかし、そうしたことが起こっているのがこの世の現実なわけです。

 たとえば、若いときからまじめにコツコツと働いてきた中小企業の社長が、不況などの影響で仕事がうまくいかなくなり、親会社からは無理な要求をつきつけられ、ついには膨大な借金を抱えて倒産し、家も失い、家族からも愛想尽かされて離縁され、何もかも失って小さなアパートでひとり孤独に暮らし、残された余生は借金の返済だけに生きるようになるといったことが、たくさんあるわけです。いい加減な仕事をしてこうなったのなら自業自得で納得もいくでしょうが、遊びも贅沢な暮らしも控えてひたすら真面目に働いてきた結果がこのような仕打ちだとしたら、それこそいったいどこに神がいるのだと思うでしょうか。一方で、不正なことをしているのに恵まれて豊かな生活をしている人が意気揚々と人を見下して生きている姿を見るなら、この世に生きる価値など、どこに見いだすことができるというのでしょうか。
 神は、それでも何もしてくれないのです。そういう苦しみを味わうことで、たとえば「カルマの清算」などをして、来世では幸せになれるといったような考えがあるからでしょう。

 これが、「神の愛」なのです。
 永遠である神から見れば、人間の一生など、たいしたことではないのかもしれません。また次の生まれ変わりがあると考えているのかもしれません。私たちの「命」など、私たちが考えているほど重いものではないのかもしれません。でなければ、こうも簡単に人が死んでしまう状態を、神が黙認している理由がわかりません。
 神のしていることは、人間社会のレベルでいえば「犯罪」です。親が保護者としての務めを果たしていません。人間社会からいえば、神は「犯罪者」なのです。

 問題は、このような神を、私たち人間は愛することができるかどうか、です。
 人生がうまくいっているときは、神を愛することは簡単にできます。「神様はありがたいな」と感謝することができます。
 しかし、神の容赦なき姿に接したとき、果たしてどれくらいの人が、神を愛することができるでしょうか。
 仮に、あなたの親が(あるいは他の人に頼んで)、「おまえを幸せにするために」という理由で、幼い頃にあなたをめったうちにし、そのためあなたは歩くこともできず、顔は醜く変型して誰からも愛されず、話すこともできないようなからだになっているとしましょう。果たして、あなたはそんな親を愛することができるでしょうか? たとえ「おまえの幸せのために」という動機からだったとしても、そこまでの苦しみを与えた(容認した)親を、愛することができるでしょうか。もしできるというのなら、世の中のすべての人を愛することができるのではないかと思います。
 神という親は、それを平気でやる存在なのです。現実を見ればそれがわかります。もちろん、すべての人がこれほど悲惨ではないでしょうが、これくらい悲惨な、場合によってはもっと悲惨な人生を送っている人が、現実にいることは事実なのです。
 このような苦しみのどん底に打ちのめされていてもなお、神を愛することができるならば、その信仰は本物だと思います。

 おそらく、そのような状況で神を愛することができるとしたら、人間の一生などたいしたことではないという考えを持たなければ無理だと思います。そう考えなければ、絶望と不条理の苦悩を味わう状況でも神を愛することは不可能だと思います。
 人生などたいしたものではないと思えば、私たちの人生に対する神の仕打ちも「たいしたことではない」ことになります。そうしたら、自分の幸せを願ってくれるという、その動機だけが重要となり、有り難いものと感じられるかもしれません。そうして、神を愛することができるかもしれません。
 人生をたいしたものであると思っているから、人生がめちゃくちゃになると憤りを覚え、神を呪ったり、神の存在を信じられなくなったりするわけです。
 ですから、私たちは、人生など、たいしたものではないのだと思った方がいいのかもしれません。「出世しなければならない」「成功しなければならない」「自己実現しなければならない」「人や世の中から認められなければならない」「人や世の中の役に立つ人間にならなければならない」といった思いなどは、捨てた方がいいのかもしれません。
 もちろんだからといって、投げやりに生きればいいと言っているわけではありませんが、過剰に「ひとかどの人間にならなければならない、人生を意味あるものにしなければならない」ということにこだわっているのは、よくないと思うのです。

 つまり、人生そのものに執着し過ぎるのも、よくないのです。人生は大切であると同時に、それほど大切ではないのです。世のため人のために偉大な業績を残して歴史に名を刻んだような人生も、誰からも認められず世のため人のために何かしたわけでもなく、ただ平凡に、あるいは苦しみに満ちただけの人生も、神の目から見れば、どちらも「たいしたことではない」ように思います。世の中に認められるような人間にならなければ、あるいは幸せにならなければ、その人生には価値がないという考えは正しくないのです。どんな人生にも価値はあるのです。ただ、人間が勝手に価値がないと思っているだけです。あるいは、どんな人生にもたいした価値はないのです。ただ、人間が勝手に価値があると思っているだけです。どちらも、事実ではないでしょうか。
 人生に執着せず、「人生を捨てた生き方」をすることです。人生に何も期待しないことです。そんななかで、自分に愛を向けてくれる存在の気配を感じたとき、私たちは、どのような状況におかれていようと、無条件に神を愛することができるのかもしれません。
 そのようにして神を愛することが、覚醒の道の極意なのかもしれません。
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コメント

斉藤先生、皆さんこんばんは。

人生ははかないものですが、同時に奇跡でもあります。
今を生きて、こうしてパソコンで文字を打っているだけでも奇跡です。
結局は、今をできる範囲で頑張るしかないと思います。
自分でどうにもならないことは、神様に任せます。

震災のホームページができました。
http://www.geocities.jp/shinsai311411/

もう、地震から半年になります。
発展途上のページですが、ブログも併設したので、コメントくだされば
加筆修正します。
2011-09-09 Fri 20:35 | URL | 両さん [ 編集 ]
斉藤啓一です。両さん、コメントありがとうございました。
HP、さっそく拝見いたしました。
震災直後の様子が分刻みで描かれており、驚きました。これは貴重な資料になるのではないでしょうか。震災の準備も参考になりました。やはり水が大切なのですね。

確かに、これほど恐ろしい経験をされた両さんにとって、生きてこうしてブログを書くということが奇跡に思えるのでしょうね。
その気持ち、大切だと思います。
これからも、HPの作成、がんばってください。
2011-09-09 Fri 20:52 | URL | [ 編集 ]
よく、自分は世の中に役に立たないような人間だとか、思う人がいます。
そこで、思いますが、そんなに大きな使命を考えるよりも、目の前にあることと大切に出来るほうが、どんなに大切であることかと。

たいしたことをしようとするあまりに、目の前にあることをおざなりにしてしまうことは、何と愚かなことでしょう。

たいしたことをしようと思わないで、目の前にあることをただただ、大切にしようとする人は、
それこそ、心を理解し、
美しい詩さえも書けて、そして、それが多くの心をうつのだと思います。

目の前にあることを、ただ大切にする心の書いた詩は心に響き、たいしたことをあることをしようとだけする心で行ったものは、心ここにあらず、
たしたことだけをしようと思う心は誇大なことばかりを言ったり、考えたり、それは関心できないもので、やはり、ここにあるもの、今目の前にあるもの、それを大切にしたいと思うのです。
2011-09-21 Wed 19:00 | URL | (の エ の)リアリエ [ 編集 ]
斉藤啓一です。リアリエさん、コメントありがとうございました。
はい。おっしゃるように、今目の前にあるものを大切にしていきたいですね。
2011-09-21 Wed 22:13 | URL | [ 編集 ]

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