心の治癒と魂の覚醒

        

偶像崇拝は覚醒を妨げる

 このところ、神に関することを連続して書いていますので、初めてこのブログを読まれた方は、キリスト教か何かの宗教のブログではないかと思われたかもしれません。
 もちろんこのブログは、特定の信仰や価値観を主張するものではなく、あくまでも覚醒を目的とするものであり、手段と目的を混同することのないようにしています。
 宗教と、それに伴う教義などは、もともとは人間を救うために生み出されたものだと思うのですが、今日では逆に、人間よりも「宗教」や「教義」の方が大切になっているのです。しかし、それが本当に神の望むことだとは思いません。おそらく、神にとって宗教など、どうだっていいのです。人間を救うことが唯一の目的であるはずです。まして、宗教のために人間が殺し合うことを、神が喜んでいるはずがありません。
 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などは、偶像崇拝を禁じています。確かに、それは正しいと思います。偶像崇拝はするべきではありません。なぜなら、偶像は本当の神ではないからです。
 しかし、偶像というのは、何も石や木で作られた神の象ばかりではありません。心のなかで作られた偶像というものもあります。偶像崇拝はダメだといって、仏像などを否定したり破壊するような教団があるようですが、彼らは心の中に作り出したイメージという偶像を崇拝しているのです。
 もしも本当に偶像崇拝をしていない宗教家であれば、教会のイエスやマリア像に頭を下げ、仏像やお地蔵さんに頭を下げるはずです。なぜなら、神はどこにでも存在しているからです。仏像のなかにも神はいるのです。心の中にも外にも、空にも、山にも、虫にも、寺院にも、トイレにも、どこにでもです。自分の宗教のなかだけに、自分の教会のなかだけに神はいて、その他の場所には神はいないとすることは、それ自体、神を限定したイメージに取り囲んだ証拠であり、まさしくそれは偶像を崇拝しているのです。
 神は遍在し、すべてが神であり、神のいない場所はありません。もし神がいない場所があれば、それは神とはいえないでしょう。したがって、仏像を前にして「偶像崇拝はしない」などといってそっぽを向いていたら、それは神にそっぽを向いたことになるのです。すべてが神だという認識こそが、本当の意味で偶像崇拝をしていない人だと思うのです。
 ですから、仏像やお地蔵さんがあれば、素直に拝めばいいわけですし、教会へ行ったら「アーメン」と唱え、神社へ行ったら祝詞(のりと)をあげ、日蓮宗のお寺へ行ったら「南無妙法蓮華経」と唱え、浄土宗のお寺に行ったら「南無阿弥陀仏」と唱えればいいのです。そういう人は神仏に不敬な本当の宗教心を持たない人だと怒られるかもしれませんが、まったく逆です。こういう姿勢こそが、偶像ではなく、本当に神仏に敬意を払っている本当の信仰者ではないでしょうか。
 いかなる形であれ、偶像崇拝は幻想であり、覚醒を妨げるものです。覚醒をめざす私たちは、以上のような信仰心を持つべきだと思うのです。
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神への愛 | コメント:12 | トラックバック:0 |
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コメント

ラーマクリシュナの教えを自分の玩具みたいにしていますね。彼は神への熱烈な愛をもっていたけれど、偶像崇拝は否定どころか彼こそがカーリー女神への強烈な偶像崇拝から覚醒したのです。神への熱烈な愛から覚醒にいたるとか、「これはラーマクリシュナの教えです」と一言添えれば好感も持てるのですが。斉藤さんはのはあくまで凡人としての教えなのでしょう。
2011-07-29 Fri 10:27 | URL | Ishikawa [ 編集 ]
斉藤啓一です。Ishikawaさん、コメントありがとうございました。
私が凡人の教えであるというのは、その通りです。しかし、あなたはラーマクリシュナの言っていることを私が自分が考えたかのように言っているのが気に入らないようであり、そのように決めつけていますが、私はラーマクリシュナのことなどまったく頭にはありません。もし同じことを私が言ったのだとしたら、たまたま同じになっただけです。


2011-07-29 Fri 11:12 | URL | [ 編集 ]
 こんばんは、Ishikawaさん、質問があります。「神があらゆる物に偏在する」ように考えるのはラーマクリシュナのオリジナルなのですか?1)

 ラーマクリシュナはそういった考えを完全に独創的に発明したのですか?2)

 その真理は特許権がありますか?3)

 古代日本の思想も基本的にはそのように神の遍在を説くのですが、その場合はラーマクリシュナは古代日本人の思想を玩具にしているのですか?
4)

 「凡人としての教え」に真理がないようにおっしゃいますが、その根拠は何ですか?5)

 
 ラーマクリシュナの熱烈な偶像崇拝の様子はどんな書物に、どのように表現されていますか?6)

 本当にわからないので、ぜひご教授を施してください。
2011-07-29 Fri 23:29 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
 最初の「へんざい」の字は正確には「遍在」でした。ごめんなさい。
2011-07-29 Fri 23:41 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
okuです、斉藤先生こんにちは。ワタナベさん初めまして。偶像崇拝の話しは自分には非常に難しいのですが、これはグル(導師)の存在を必要とするか否かということでもあると思うのです。私の場合には過去十数年、肉体をもってこの世に現存する誰か(グル.導師)を探し続けてきたのですが、結果としては全面的に明け渡せるグルというのは存在せず、この世に遍在するものの中から「今ここ」の中で神性を見い出していくしかないという一つの結論に到達しました・・・以上ですがあまり関係の無い話しだったらごめんなさいです。
2011-07-30 Sat 20:58 | URL | oku [ 編集 ]
斉藤啓一です。okuさん、コメントありがとうございました。
いえいえ、関係のある貴重なコメントだと思います。「今ここ」の中で神性を見いだしていく・・・というお考え、すばらしいですね。
偶像崇拝をするにしても、しないにしても、とらわれてはいけないと思います。偶像を本質としてしまうことが問題なわけですね。ですから、まさに「神性」、つまり、形ではなく、神の属性を見るようにすることが大切だと思うのです。
2011-07-30 Sat 21:34 | URL | [ 編集 ]
 okuさん、はじめまして。「全面的に明け渡せる」というのは難しい条件ですね。神様でさえも審神者(サニワ)して確かめなければ信用できないのに、ましてや人間となると・・・。さらに、人間が神を目指して修行した結果は「この世からの卒業」です。その究極の状態にまで高まった導師が地上にいられる、いる必要のある期間はどれくらいなのでしょう?その僅かな期間に彼らに出会える幸運というと・・・。

 やはりokuさんの言うように「今ここ」に神性があると考えるのがベターかもしれませんね。
2011-07-31 Sun 08:14 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
ワタナベさんこんにちは、okuです。ゴーピクリシュナの話しは私も非常に興味深かったです。しかし、私自身、この十数年クンダリーニ症候群や禅病にかなり近い状態で推移していると自己認識しています。ワタナベさんも充分にお気をつけください(以前のコメント読ませて頂きました)。
2011-07-31 Sun 19:26 | URL | oku [ 編集 ]
 okuさん、ありがとうございます。霊的修行に危険はつきものですね。誰か、仙道は安全だと打っておりましたが、気功(仙道)にも「偏差」という病が起こりえます。これも神の試練でしょう。
2011-08-01 Mon 07:39 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
ワタナベさんそうですね。霊的修行に危険はつきものですね。東日本大震災などをみても、神の人間への愛を、どう理解したらいいのか、自分にはわからなくなります。
2011-08-02 Tue 20:21 | URL | oku [ 編集 ]
>okuさん、神様(元の元の・・・ずっと上の)はおそらくとてもマクロな視点で物事を考えていると思われます。

 人間の魂の永遠性を考えるに、一回や二回の「非業の死」は細かくて見えてないかもしれないですね。それぞれの魂が霊的成長を果たすためのプロセスとして各人が選んだ運命として、「分配」するのに忙しいと思います。

 今の一回の人生にしがみつく私たちの小我から見れば、それはすごく残酷で大雑把に思えますが、宇宙全体の運営上、そういう視点の存在が中心にいる必要があるのですね。

 私たち修行者はその「マクロな視点」を理解しようと日々生きているわけです。そのうち、今の自分がとらわれていることが「どうでもよい小さな、でも大切なこと」だと思える日もくるでしょう。
2011-08-03 Wed 06:57 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
ワタナベさんありがとうございました。その言葉を聞けただけで、自分はかなり救われた気がします。明日から少し頑張ってみます(笑)
2011-08-03 Wed 23:27 | URL | oku [ 編集 ]

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