感情への執着を捨てる2011-09-13 Tue 19:29
私たち人間がこの地上に生まれ変わる理由は、いくつかの視点から説明できると思いますが、ひとつには、この地上に引かれてしまうからです。この地上で得られるさまざまな欲望や感情に執着し、それを経験することを求めているからです。 考えれば、私たちは、地上の物質的なもの、そのものに執着しているのではないのです。その物質的なものを得たときに得られる感情的な満足を求めているわけです。 ところで、その感情が心地よいものであるなら理解できますが、人間は怒りや悲しみといったネガティブで不愉快な感情にさえも、執着しているところがあるように思います。 たとえば、わかりやすい例としては「自己憐憫」があげられます。くよくよと自分の不幸や悲しみを嘆いているわけです。そして、そうすることに、ある種の快感を得ているようなところがあるのです。 怒りや悲しみなども、それは不愉快な感情なのですから、サッと捨て去ってしまえばいいようなものですが、私たちはそうしません。怒りや悲しみの感情にしがみつき、なかなか離そうとしないわけです。これは、感情に執着しているからです。 いうまでもなく、怒りや悲しみといった感情は、自我(エゴ)の感情であり、魂(神)の感情ではありません。つまり、私たちが怒りや悲しみ、あるいは物質的な事物への欲情に支配されているときの心は、本当の自分の心ではないのです。偽りの自己に振り回されているわけです。 私たちが地上に生まれ変わってしまうのは、こうして、偽りの自己(の心)で生きているからです。偽りの自己を本当の自己だと錯覚しているからです。覚醒するには、偽りの自己ではなく、本当の自己で生きるようにしなければなりません。 私たちの本当の感情というのは、魂(神)の感情であり、それは平安、至福、愛です。至福といっても、エゴが感じるような興奮した喜びではなく、平安を伴った喜びです。 したがって、覚醒(解脱)するために大切なことは、常に心を神に向け、神の感情である平安、至福、愛が湧き出るようにすることです。といっても、それは湧き出させようと思っても湧き出るものではないでしょう。もともと私たちの本質は神なのですから、湧き出たせる必要はありません。私たちはすでに、平安と至福と愛のなかにいるのです。 ただ、そのような感情を、エゴがかき乱しているのです。たとえるなら、美しい音楽が響いているのに、近くでけたたましい騒音がしているため、その音楽が聞こえないようなものです。 つまり、エゴの感情さえ捨てれば、自然に平安、至福、愛の感情で満たされるわけです。 ですから、私たちがすることは、平安、至福、愛以外の感情が湧いたら「これは私の心ではない。私にはまったく関係がない」として、まるで他人ごとのように(実際、それは“他人”なのです)、その感情に執着せず、さらりと受け流すようにすることです。これを、起きている間、ひたすら根気よく続けていくのです。 これが、覚醒するためには絶対に必要だと思います。いくら毎日1時間の瞑想を行い、そのときだけ自分の心を神に近づけたとしても、残りの時間をエゴの心で生きていたら、何にもなりません。 これはしかし、容易ではありません。感情というものは、それが愉快なものであれ不愉快なものであれ、私たちに「生きている」という刺激や興奮を与えます。エゴはそれを食べて生きているのです。そのエゴの食料である感情を次々に「これは私とは関係がない」といって捨てていくわけですから、エゴを本当の自分だと錯覚している私たちにとっては、何となく自分自身が虚ろになっていくような、まるで存在そのものが消えていくような感覚になっていくはずです。 もちろん、存在が消えていくのはエゴに過ぎません。本当の自分が消えていくわけではないのです。それどころか、本当の自分を「復活」させているのです。やがて少しずつ本当の自分が目覚めてきて、平安や至福、愛が心を満たすようになるはずです。 スポンサーサイト
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コメント
おひさしぶりです、斉藤先生。ブログに同感です。人の最終的な状態は「歓喜」であるべきですよね。
2011-09-14 Wed 18:59 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ワタナベさん、お久しぶりです。コメント、ありがとうございます。
はい。常に「歓喜」の状態を目指していきましょう。神は歓喜なのですから。なかなか難しいですが、私も努力してまいります。 2011-09-14 Wed 20:46 | URL | [ 編集 ]
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