心の治癒と魂の覚醒

        

 人間として当たり前のこと

 若い頃は、覚醒修行に関するセミナーや道場などによく行きました。そして、いろいろな人(修行仲間)に出会いました。
 ただ、人のことは言えませんが、心から尊敬するような人にはあまり会ったことがありません。
 確かに、熱心に修行に励んでいる人はたくさんいました。ここでいう「修行」とは、瞑想や呼吸法、アーサナ、あるいは断食や滝行といったことです。また、覚醒に関する高邁な知識を豊富に持っている人もたくさんいました。
 そういう努力や知識には感心しながらも、人間としてすばらしいと感じた人はあまりいませんでした。なかには、尋ねてもいないのに、「自分はこんなすごい苦行をしてきた」などと自慢げに話したり、知識をひけらかすような人もいて、こういう人たちは自分の凄さをアピールしたいのでしょうが、そのような言動は軽薄に感じられ、心を動かされるようなことはありませんでした。
 むしろ、私が尊敬を覚えるような人は、覚醒だとかスピリチュアルとは無縁の、世俗的な世界で多く出会ったものです。たとえば、油まみれになりながら額に汗を流して働く工場労働者といった人のなかにです。こういう人たちのほとんどは、スピリチュアルな世界にはまるで関心がなく、覚醒などといっても、概念そのものも理解できないでしょう。世間的な意味でいう「学問がない」人も少なくありません。
 しかし、人間としてきわめて当たり前のこと、たとえば、仕事は手を抜かず誠実に責任を持ってきちんとやる、仕事ができない人がいたらバカにせず親切に教えてあげる、威張ったりしない、あいさつはきちんと交わす、何かしてもらったらきちんと礼をいう……、こういうことは、けっこうしっかりとできているのです。
 厳密に比較対照したわけではないので断言はできませんが、スピリチュアルにかぶれた人よりは、しっかりとできているのではないかという気がします。スピリチュアルにかぶれた人は、常識がないと言いますか、人間として当たり前のことさえも満足にできない人がけっこう多いです。
 たとえば、何かしてもらったらきちんと礼を言うというのは、基本中の基本ではないかと思うのですが、スピリチュアルな世界の人にはこれさえもできない人が少なくありません。私など、ときどき読者から質問のメールをもらったりするのですが、一応返事を出しています。メールがない時代は手紙でした。それに返事を書き、封筒に宛名を書き、切手を貼ってわざわざポストに投函します。当時は返事を出すにしても大変でした。返信用の切手が同封されているなどはめったにありません。切手のお金はともかくとしても、返事をひとつ書くだけでかなりの時間と労力がかかります。しかし、そうして返事を出しても、それに対してお礼の返事が来る率は、半分くらいなのです。メールの時代になると少しアップしましたが、それでも、何も返事がないという人も少なくありません。
 また、これはスピリチュアルというより、倫理に関する本でしたが、「人は善い行為をしなければならない」といった内容の書かれた倫理の本を図書館で借りてきたところ、あちこちに線が引いてあり言葉が書きこまれてあるのです。それだけを見ると、これを書き込んだ人はそうとう熱心に勉強している様子が伺われるのですが、問題はこれが図書館の本だということです。公共の本をこうして汚して読みにくくすることは人に迷惑をかけていて倫理に反するということが、わからないのでしょうか? 熱心に倫理を学んでいながら、まったく倫理に反する行いをしているわけです。
 また、これはむかしの私の友人ですが、彼は「自分はキリスト教徒である」とまわりに宣言していながら、いつもひどい口調で人の悪口ばかり言っていました。そのことが、愛の宗教であるキリスト教の精神とまったくかけ離れていることが、なぜ理解できないのか不思議でした。

 このように、頭と行動とが完全に分離している人が、けっこういるのです。宗教やスピリチュアルや倫理の世界も例外ではないわけです。先日、推薦図書として紹介した『ブッダの言葉』などを読んでも、ブッダが弟子に向かって「他の弟子の悪口を言ってはならぬ」などと注意している言葉が見られます。他にも、きわめて基本的な事柄に対して「こういうことはしてはならない」と注意しています。出家して(つまり世俗とは縁を切って)、お釈迦様の弟子になり、清らかな仏道修行に入ってもなお、世俗の人でもできる人はちゃんとできる人間として基本ができていない弟子が、けっこういた様子が伺われるのです。
「愛だ、感謝だ、神だ、カルマだ、宇宙法則だ」などとスピリチュアルなことを言っても、人間として基本中の基本ができていなければ、どうしようもないと思うのです。スピリチュアル以前の問題であり、霊的に進化するよりもまず、人間として進化する必要があるのではないでしょうか。人間の基本もできないような人が、いくら覚醒修行をしても、覚醒できるとは、私には思えないのです。
 覚醒だとか、スピリチュアルな道を歩むと、どこか「自分は人とは違う、すぐれた人間なのだ」といった、ある種の差別意識や傲慢さが芽生えてくるのかもしれません。そういう人は修行よりも、工場労働者になって汗と油にみまれることをお勧めします。その方が、へたに瞑想や修行をするより、ずっと霊的な成長を促してくれるでしょう。
 人間として当たり前のことは、当たり前にできるようにする。これをなおざりにすることは、覚醒の道にとって最大の障害であると、私は思うのです。

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コメント

斉藤先生、こんにちは。
震災のホームページをほめてくださり、ありがとうございます。

イエス様は、多くのたとえ話をしました。
私が一番好きなのは、以下の話です。

パリサイ人と取税人が宮に上ります。
パリサイ人は言います。
「私はこんなに義務を果たしています。
特にこの取税人のように罪人でないことを立派に思います。」
取税人は、胸を叩いて言います。
「神様、罪深い私をあわれんでください。」

この話に惹かれるのは、私にはパリサイ人の部分が多いからです。
難しいことですが、神様に会ったときに
あなたの信仰は立派です、と言われるように頑張りたいです。


2011-09-23 Fri 14:02 | URL | 両さん [ 編集 ]
斉藤先生いつもお世話になっております。オクです、レスが前後してたいへん申し訳ありません。

世捨て人などという言葉もありますが、もし覚醒の道を求めることが即、世捨て人を意味するとしたら、私たちには出家か浮浪者になるかの二者択一しかないのだと思います。

私も斉藤さん同様スピリチュアルマーケットは大嫌いですが(笑) 自分は高校を3か月で中退し、その後30近くまで家に引きこもっていたこともあり、これまでの職種は工場労働や清掃作業といった人のやりたがらない仕事を転々としておりました。

しかし結局じぶんは世捨て人にはなれなかった訳ですが。。。

日本のヒッピーの元祖の一人と言われる、山尾三省などは聖でもなければ俗でもないという「非僧非俗」の立ち位置でこの世を生きたということです。

いま自分が思うのは世の中で定職につく(落ち着く)ことと、覚醒の道を行くことが果たして矛盾しないか?どうか?ということなのですが。。。。



2011-10-21 Fri 18:38 | URL | oku [ 編集 ]
斉藤啓一です。okuさん、コメントありがとうございました。
定職につくことと覚醒の道は矛盾しないかどうかですが、問題は心にあると思います。たとえば出家したとしても、世俗のことで頭がいっぱいなら、出家したとはいえないわけです。定職についていても、その目的が「覚醒のために必要となるお金を稼ぐ」ということであれば、矛盾しないと思います。
また、職業そのものを一生懸命やることも、覚醒修行のひとつとしてとらえることもできるのではないでしょうか。
定職を持っていても、心が世を捨てていれば、その人は世捨て人ではないかと思います。
2011-10-21 Fri 20:17 | URL | [ 編集 ]
レスをありがとうございました。自分に正直に生きるしかないということですね。
2011-10-22 Sat 20:43 | URL | oku [ 編集 ]
斉藤 さま

『人間として当たり前のこと』 このタイトルに惹かれました。
いろんなものが凝縮しているように思います。

・誰かに自分のことをわかって欲しい。

・誰かに自分を評価して欲しい。

・自分はこういう素晴らしいものを目指しているのだ。

・ヒーラーになって、みんなを癒すんだ。


このようなスピリチュアルの世界につては、私も斉藤さまと同じものを感じています。
本来であれば、自分で自分のことをしっかりと受け入れられていれば、他者に対して評価を望むことは必要ではありません。

学は無くとも、自分のことをきちんと受け入れている人は、自分の凄さを誰にも語る必要は無く、自分がどういう人間なのかを伝える必要もありません。

そして、自分をしっかり受け入れているということは、他人の存在も受け入れられるということ。

『人間として当たり前のこと』 これは、とても心に響くフレーズですね。

神に近づくということは、人であることを辞める……そういうことではないと私も思います。

偉くなくとも、学は無くとも、体が不自由であっても、素晴らしい人はたくさん居て、大きな光を放ち、幾人もの人を救っています。


これは昔の記事ですが、この時の想いが、今の斉藤さまに力を与えているように思います。
この時思い描いていた『人間として当たり前のこと』以上に、人としてしっかり歩いているようにみ、私の目には映っています。

乱文失礼いたしました。
2015-04-27 Mon 18:40 | URL | 黒いネコ [ 編集 ]
斉藤啓一です。黒いネコさん、コメントありがとうございました。このように私の拙い文章を読んでくださり、そのうえ、それに理解を示してくださることは、このうえもない喜びです。ありがとうございます。
2015-04-27 Mon 22:14 | URL | [ 編集 ]

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