教えを活かすこと2011-09-24 Sat 09:51
インターネットもテレビもなく、本や新聞、すなわち印刷技術もない大昔の時代では、覚醒に至る教え、宗教やスピリチュアルに関する教えを耳にするというのは、大変なことだったと思います。まず、すぐれた教えを説いている聖者を見つけなければなりません。しかし情報媒体がほとんどないその時代では、「口コミ」しか聖者を知るチャンスはなかったと思います。また、そんな聖者の存在を耳にしたとしても、その聖者に会いにいくには、それこそ何日もかけて苦労して、もしかしたら大変な危険を冒して長旅をしなければならなかったかもしれません。そうしてようやく聖者のもとにたどりついて、聖者から覚醒のための教えを聴けるのです。現代とはまったく違う大変な時代です。 ところで、その結果、聖者は次のような教えをぽつんと言ったとします。 「悪いことはしてはいけません。善いことをしなさい」 命がけで旅をしてきた結果、耳にした教えが、こんな陳腐なものだったとしたら、皆さんはどう感じるのでしょうか。力が抜けて、がっかりしてしまうかもしれません。 けれども、命がけで聖者のもとに来て、ようやくの思いで聖者に会うことができた人は、聖者から発せられたその言葉の重みというものが、まるで違うのではないかと思います。 彼はきっと、真剣に考えるでしょう。 「悪いことはしてはいけないのだ。善いことをしなければならないのだ。だが、悪いこととは、何だろう? 善いこととは何だろう? また、どうやってそれを実行したらいいのだろう?……」 彼は、考えに考え抜き、そして、それを実際に行動に移すために、全身全霊で力を尽くすでしょう。その考え抜くプロセスと行動は、まさに修行そのものです。そうして彼は、高い宗教的な境地を獲得し、覚醒するかもしれません。 一方、情報社会といわれる世界に住んでいる私たちはどうでしょうか。 私たちは、豊かな情報を得ることができます。日本はおろか、世界中の情報を得ることもできます。しかも、インターネットなどを通して、無料で瞬時に情報を得ることができます。古今東西、あらゆる聖者の教えを知ることができます。しかも、ひとことふたことではありません。朝から晩まで読んでも終わらないくらい、膨大な量の教えを知ることができます。さらにそのうえ、その教えはとても複雑であったり、すぐには理解できないほど深かったり、深遠であったりします。 こんな時代に、「悪いことはしてはいけません。善いことをしなさい」などという教えを説く人など、誰もいないでしょう。仮に私がそのような言葉をブログで説いたとしても、誰も読まないでしょう。そんなわかりきったことを説いてどうするんだなどと、笑われるのがオチでしょう。今日では、誰も説いていないような独創的なこと、複雑で知的興味をそそるようなこと、オカルト的で現世利益的なことでも説かない限り、誰も耳を傾けてくれないでしょう。 そうして、私たちは、知識だけは膨大なものを頭に吸収しているのです。 しかし、そのために、食傷気味になっているのではないでしょうか。知識の摂取過剰で頭が「メタボ」になっているのではないでしょうか。「知識の生活習慣病」になっているのではないでしょうか。 その結果、「悪いことはするな。善いことをせよ」という、私たちが“わかりきったこと”さえ、実際には満足にできていない状況になっているのではないでしょうか。 本を読んでも、そのすばらしい教えは右から左へと頭のなかを素通りしていくだけで、「すばらしいことが書いてあるなあ」と感動はしても、まるで映画のように、本を閉じた後でも、本を開く前と何も変わっていないのです。要するに、単なる娯楽になっているのです。実践しなければ、教えというものには、何の意味もありません。 とはいえ、次から次へといろいろな、しかも興味をそそるような教えが出てきますから、これを学ぶだけで時間が取られているわけです。本やインターネットを読むだけで、じっくりと自分の頭で考え込み、それを実行する努力をするという時間がなくなってしまうわけです。 これでは、学者にはなれるでしょうが、覚者にはなれません。 もちろん、知識を取り入れることは大切ですが、これだけで終わっているというのは、まったく意味がありません。知識の吸収だけに時間を取られていたら、それだけで人生は終わってしまいます。 先に紹介した『ブッダのことば』などから推測すると、側近であるわずかの弟子を除き、ブッダの教えを豊富に耳にすることはなかったようです。それこそ、ほんのわずかな教えを耳にしただけで、後は独りでその教えについて深く考えて、自分の血肉にしていったと思われます。ブッダの口から出る一言一言が、宝石のように貴重なものとして大切に受け止められていたわけです。そうして覚醒した人も少なからずいたようなのです。 情報がたくさん入手できることは、必ずしも有利とは言えないのかもしれません。魔法のようにパッと覚醒できるような教えなど存在しないのです。結局は、「悪いことをするな。善いことをせよ」という、シンプルな教えに還元されてしまうのではないかと思います。問題は、私たちが、教えをいかに大切なものとして受け止めるか、ではないでしょうか。真剣に取り組むならば、「悪いことはするな。善いことをせよ」という、たったこれだけの教えでも、覚醒できるかもしれません。少なくても、知識の吸収だけに力を注いでいる人より、はるかに覚醒に近いということは確かだと思います。 スポンサーサイト
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コメント
斉藤先生、お久しぶりです。オクです。「悪いことをしてはいけません。善いことをしなさい」というのは覚醒の道における真実であり真理だと、私も思いますが、その教えが意味をもつためには信頼関係というか、その方のようになりたいと恋慕う気持ちが必要なのだと、わたし的には思っています。そうでなければ少なくとも私自身は、そのような言葉だけで「素直」になることは出来ませんです。。。
斉藤啓一です。okuさん、コメントありがとうございました。
はい。確かに、その言葉を誰から言われるかということが、非常に大きなポイントになりますね。 それにより、モチベーションというものが全然違ったものになると思います。 ただ、実際にそういう人に出会うことができなければ(実際、それはけっこう難しいと思いますので)、誰がいったとか関係なく、その言葉そのものの価値を見いだしていくことも大切ではないかと思うのです。 2011-09-24 Sat 21:13 | URL | [ 編集 ]
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