心の治癒と魂の覚醒

        

 淡々と生きる

 古今東西の教えをいろいろと考察してみますと、覚醒するには、矛盾するような対極的な両面をうまく統合していくことが、どうもひとつのポイントのようです。
 たとえば、男性的な要素と女性的な要素、真剣さとユーモア、剛毅と柔和さ、情熱と冷静さ……、といったものです。このような正反対の要素を自分のなかに取り入れていき、二重人格になるのではなく、ひとつの人格としていくわけです。あまりにも男性っぽいだけ、あまりにも女性っぽいだけ、ではなく、男でありながら女性的な面も感じさせる人、女でありながら男性的な面も感じさせる人、こういう人が覚醒に向かっている気がします。こういう人は、がいして人間がまるいです。まるいというのは単におとなしいという意味ではなく、偏りがなく安定しているという意味です。
 では、このような両極性を身につけていくには、どうすればいいのでしょうか?
 そのためには、さまざまな経験をしながら、しかしどの経験にも執着せず、こだわらず、淡々と生きることではないかと思います。狭い世界で生きるのではなく、とくに若いときは、なるべく広く世界を見聞し、楽しいことも辛いことも、善いことも(多少の)悪いことも経験し、いろいろなタイプの人と交わり、いろいろなことにチャレンジしてみるといいと思います。

 けれども、このような生き方をしていますと、心に傷を負うことも必然的に多くなってきます。転がる石はしだいに丸くなっていきますが、それは傷ついて自分自身を削ることで丸くなっていくわけです。辛いこと、悲しいこと、悔しいこと、胸が痛むこと、良心の呵責を覚えることなど、いろいろな傷がついてきて、しだいに人間がまるくなってきますが、それは文字通り、我が身を削るような険しく辛いものです。
 それでもまだ若いうちは、たいしたダメージを受けないかもしれません。しかし、ボクシングのボディ・ブロウのように、しだいにじわじわと効いてきて、若くない年代になる頃には、それが致命的となり、急にガックリきてしまうことがあります。

 ひとつの傷を受けると、私たちはそれを癒そうとしますが、傷というのはそうすぐに癒えるものではなく、また人生というものは、その傷が完全に癒えるまで待ってくれるとは限りません。ひとつの傷が癒えないうちに、また別の傷を受けるようなことが起きたりするわけです。そうして、いつのまにか満身創痍となり、中年世代の多くは、傷口から血が流れた状態のまま、人生を生きるようになるのです。
 今日、心身を癒すさまざまなヒーリングと呼ばれるものがありますが、そういったものをいくらやっても、きりがないといいますか、追いつかない気がします。
 これでは、たまったものではありません。

 では、どうしたらいいのでしょうか。
 私は、「淡々と生きる」ようにするしか、他に道はないように思います。簡単にいえば、「気にしないで生きる」ことです。たとえば、悲しい出来事が起こっても、「気にしない」ことです。もちろん悲しいでしょうが、起こったものは仕方がないと考え、悲しんでも現状がよくなるわけではないと悟り、「悲しむ気持ち」そのものに対する執着を捨ててしまうのです。人から悪口を言われたり非難されても「気にしない」のです。また、人を傷つけてしまっても、相手に謝罪したり反省したら、あとは「気にしない」ようにするのです。悩んだところで、罪の償いになるわけでもないし、意味がありません。

 このように、どんな思いであろうと、それをつかんだまま離さないようなことはせず、最初からつかまない、もしつかんでしまったら、すぐに捨てるのです。どんどん捨てていくようにするのです。焼け石をつかんで離さなかったらヤケドしてしまうでしょう。心を傷つけるような出来事や思いも同じです。いつまでも気にしていたら、傷はさらに広く深くなってしまいます。そんなことをしても、何がどうなるわけでもないのです。
 ですから、どんな思いも、さらりさらりと捨てて生きていきましょう。そうして淡々と生きていくことが、この辛い人生を生きていくための、ひとつの極意であるような気がします。
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