心の治癒と魂の覚醒

        

 自殺願望と覚醒


 以前に推薦図書としてご紹介した『ブッダのことば(スッタニパータ)』を読んでいたら、「解脱した人はどうなるのか?」という質問に対して、仏陀が次のように答えている箇所がありました。
「強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(存在する者としては)数えられないのである」
 すると、これに対して、さらに次のような質問が投げかけられました。
「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか? 或いはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか? 聖者さま、どうかそれをわたくしに説明してください」
 仏陀は次のように答えました。
「滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである」   (1074~1076)

 仏陀によれば、解脱をした人は、滅びて存在しなくなる、というわけでもなく、かといって常住する(たとえば霊界のような場所で存在する)わけでもなく、とにかく人知では認識できないような、議論を超えた状態になるようです。
 一方、ヨーガの思想によれば、仏教と同じように、もともと「私」という存在は幻想であると考えますから、解脱をすると真我と一体になり、事実上、個人は消滅すると解釈できます。水滴が大海に落ちてまったく区別できなくなるようなイメージでしょうか。

 そうなると、私たちが仏典を通して知り得る釈迦という人物は、いったいどのような存在として受け止めたらいいのでしょうか。少なくても、肉体としてはそこに存在し、解脱する前と何ら変わりない様子で周囲の人たちとコミュニケーションしているように思われます。にもかかわらず、「存在する者としては数えられない」というのです。
 いずれにしろ、内面的にはまったく変わってしまい、いかに表面的には過去と同じでも、まったく違った存在になってしまったのだと思われます。実質上、過去のその人はもういないと考えていいのかもしれません。
 ということは、解脱をするということは、少なくても今の「私」は、完全に消滅すると思っていいようです。

しかし、私たちの大半は、自分が自分でなくなること、自分という存在が消滅することに、得体の知れない恐怖、寂しさ、空しさを覚えるのではないでしょうか。そして、強い抵抗を示すのではないかと思います。
 もし、そういう恐怖や寂しさや空しさを覚えることがない人、むしろ、自分という存在が完全に消滅することを願っている人がいるとしたら、それはおそらく、この人生に絶望して自殺を試みようとしている人ではないかと思います。
 死んだら天国のような場所に行けると信じている人は別として、自殺しようとする人は、「消えてしまいたい」という願望が強いように思います。天国へ行くとか、霊界で生きるといった願望さえなく、とにかく消滅したい、完全に「無」になりたいと、そんなことを願っているのではないかと思います。
 唯物論者は、人間が死んだら完全に「無」になるといいます。霊魂だとか、霊界だとか、生まれ変わりなどはナンセンスだと。
 もし唯物論者の言い分が事実であるとしたら、解脱を願う人は大喜びではないでしょうか。なぜなら、解脱を求めて修行している人は、「もうこの地上に戻りたくない」という目的で修行しているからです。仏陀は輪廻の束縛から逃れるために苦労して修行したのです。死ねばそれでおしまいというのであれば、苦労して修行などしなくてすみます。何と楽なことでしょうか。あとは、残された余生を適当に我慢して生きる、いえ、いっそのことさっさと自殺してしまえばいいということになるでしょう。私もこのブログを書くのはやめるでしょう。

 本当の自殺はもちろん勧められませんが、誤解を招くのを覚悟でいえば、ある意味で、自殺をしたい、つまり「存在を消滅させてしまいたい」という願望を持っていることは、見習うべきではないかと思うのです。というのも、すでに見たように解脱とは、「私」が消滅することだからです。その「私」は自我という偽りの「私」であるとしても、「私」という意識が消滅することは、ほぼ間違いないことだからです。ということは、実質的にこれは「精神的な自殺」を意味するのではないかと思うわけです。
 存在が消えてしまうということ、これに抵抗があるうちは、おそらく解脱(覚醒)はできないでしょう。「存在そのものを完全に消してしまいたい」と、世間から見るときわめて悲観的で不健全と思われるような願望を持つことが、覚醒の道には求められているのかもしれません。
 こうして「自分自身」にさえも執着を持たなくなれば、この世のあらゆることに対する執着もなくなることでしょう。
 
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コメント

斉藤先生お久しぶりです。オクです。斉藤先生お元気でしょうか。

斉藤先生のこの記事の内容にまたも自分は救われる気がします。この記事内容が斉藤先生の「本心」であることを祈らずにはいられませんです。今まで本当に誰にも自分の気持ちがわかって貰えなかったのです。

自分は自分という意識が消滅し、無に帰することについての抵抗があまりありません。夜寝る時に、明日の朝が来なかったとしてもべつに私は困らないのです。それが永眠になったとしてもです(笑)

ところがやはり、あの世からこの世に苦労してこい(修行してこい)といって、魂が送り出されてくるというのは事実のようです。いえ体験的に自分はそう信じているのです。

だから嫌でも逃げられないというか「生きることは義務」という大前提の上で、日々長距離走者のように人生の長期的な計画を練らなければなりません。

しかしその人生の計画性と無への回帰という両極の揺さぶりの中で、私の精神はバランスを保つのがたいへんです。

わたし個人的にはそんな感じです。

2011-10-08 Sat 18:45 | URL | oku [ 編集 ]
斉藤啓一です。オクさん、コメントありがとうございます。
もちろん、この文章は私の本心です。
そして、ここに書いてくださったokuさんの気持ち、私はよくわかります。
2011-10-09 Sun 00:29 | URL | [ 編集 ]
オクです、斉藤先生お言葉ありがとうございます (たいへん失礼なことを申しました)。

自分も「無」というリセットを原点として何とか世の中で頑張ってみます。今後ともどうぞよろしくお願いします。
2011-10-09 Sun 17:50 | URL | oku [ 編集 ]
オクです、斉藤先生こんにちは。これは非常に重要なことだと思うので再度レス致します。

わたしは基本的に・・・瞑想というのは 自分を消す(自分が消える) ことではないかと思っています。

わたしが初めて瞑想をしたのは15年以上前のことなのですが、その意味では瞑想初心者だった時と今とで、さほど状況は変わらないのかもしれません。

“わたしが消えない”という点においてですね。

斉藤先生はこのあたりのことはどうお考えになりますか。

2011-10-13 Thu 14:19 | URL | oku [ 編集 ]
斉藤啓一です。okuさん、コメントありがとうございました。
「私が消える」というのは、瞑想(修行)の最終段階だと思います。ただ、私は最終段階というのは、自力の結果、達成されるのではないと考えています。それまでは自力ですが、最終的には、自動的といいますか、神の恩寵といいますか、他力的な力によって達成されるのだと思っております。
したがって、自分を消すことは、基本的には私たちにはできません。「自分を消していただく」のだと思っております。
それは、いつ訪れるかわかりません。私たちとしては、ただ、そうなるにふさわしい人間になるべく、できるかぎりの努力をする、あとは、心静かにそのときを待つ・・・だけだと思うのです。
2011-10-13 Thu 21:44 | URL | [ 編集 ]
オクです、お答えありがとうございます。よくわかりました。
2011-10-13 Thu 23:38 | URL | oku [ 編集 ]
斉藤先生、オクです。たびたびすいません(笑) 

自分がググったところでは、仏教でいう「法悦」と「忘我」というのはかなり近いもののように思いました。

それは要するに仏様の教えに自分が聞き入りうっとりとして、「私が消えていく」ことなのかもしれません。

自分もこのような形で、真理の探求に参加させて頂いている訳ですが、いつか「私が消えていく」ような教えというのに巡り合いたいと思っております。

今後ともどうぞよろしくお願いします(笑)


2011-10-14 Fri 17:12 | URL | oku [ 編集 ]
斉藤啓一です。okuさん、コメントありがとうございました。
自分が消えてしまう教えというのは、別にグルだとか本に書かれてあるのではなく、この人生の経験すべてがその教えだと、私は思っています。
聖なる喜びと愛によって、人は自分を消し、あるいは苦しみによって自分を消すのだと思います。
こちらこそ、これからも、よろしくお願い致します。
2011-10-14 Fri 21:08 | URL | [ 編集 ]
オクです、斉藤先生お言葉ありがとうございます。そうですね、自分もこの世の全ては「教え」であるというような謙虚な気持ちで精進したいと思います。。。
2011-10-15 Sat 20:19 | URL | oku [ 編集 ]
私はお釈迦様の教えを学んでいます そしてこの ブログで書かれているように私は 存在よく なんて全くありません完全消滅して無に帰りたいです 存在することになんの 興味もありません 無になるということは最高なことだと思います無になるということは苦しみが完全になくなるということですから一切嫌なことがないんです最高じゃないですが とにかく私はどこかの誰だったからこっちの意思を無視して勝手に 作られました 勝手に作られて勝手に束縛されて勝手に苦しめられて その勝手に作ったやろうは究極なまでの罪深さです絶対そいつだけが許しません
2017-03-13 Mon 17:06 | URL | [ 編集 ]
斉藤啓一です。上記のご意見、私も同感ですよ。もし輪廻転生というものが本当にあるなら、そんな世界に強制的に存在させられたことは、まったくいい迷惑です。仮にそれが「神」であるのとするなら、余計なおせっかいを止めてくれ!と文句を言いたいです。完全消滅して無になることは究極の救いです。
2017-03-13 Mon 17:25 | URL | [ 編集 ]

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