心の治癒と魂の覚醒

        

 地獄に墜ちるという脅し

 宗教では、しばしば「脅し」が用いられます(当事者は脅しとは思っていないかもしれないでしょうが、実質的には脅しです)。
 よく用いられるのが、「罰が当たる」とか「地獄へ堕ちる」などです。信仰を捨てたり宗教団体から脱退しようとすると、たいてい、この種の「脅し」を言われます。
「地獄へ行く」という脅しは、キリスト教では定番になっており、キリスト教国では、そのことを真剣に脅えている人もけっこういるようです。聞くところによると、ホモセクシュアルの人々は地獄へ堕ちると信じられ、ホモの人が地獄へ行って苦しむイメージ・ビデオを制作している会社があるそうです(地獄のセットを作り、そこで俳優がもだえ苦しむ演技をしている様子が描かれているようです)。そうして脅しをかけて、ホモを止めさせようとしているらしいのです。
 しかし、いったいなぜホモの人が地獄へ行かなければならないのでしょうか? それは単に教えでそう言われているから、あるいは生理的に嫌悪するといった、そんな理由から勝手にそう言っているだけに過ぎません。ホモの人は別に人に迷惑をかけているわけではなく、ただ性的な趣向が異なるだけです。ホモでも人間的にすぐれた人だっています。それなのに、ホモという理由だけで地獄へ堕ちると主張するのは、まったくのナンセンスではないでしょうか。

 キリスト教だけでなく、仏教にも地獄へ行くという思想があります。
 このブログでも推薦図書として紹介した『ブッダのことば』、すなわち、釈迦の教えをもっとも忠実に記録したとされるスッタニパータという経典にも、こんな記述があるのです。
 それは、「コーカーリヤ」(本のページでいうと142ページです)という章です。
 簡単にその内容を説明すると、コーカーリアという名の修行僧が釈迦に、「(あなたの弟子である)サーリープッタとモッガラーナは邪念があります。悪い欲求があります」と言いました。釈迦は「まあ、そういうな」といってたしなめるのですが、コーカーリアは納得しません。するとその後、コーカーリアのからだに芥子粒ほどの小さなはれ物が出てきて、それがしだいに大きくなり、ついにはパパイアほどの大きさになり、それが破裂して死んでしまいました。そして釈迦がこう言います。
「聖者をそしる者は、途方もない長い時間、地獄に墜ちる」と。この「途方もない長い時間」については長い説明がくどくどと書いてあるのですが、早くいえば、5千兆年プラス(1千万×1200倍)年だそうです。つまり、ほとんど永遠の時間です。
 そして、その後、その地獄がどんなところか、釈迦はおどろおどろしい描写をするのです。鉄の串で刺されるとか、灼熱した鉄丸を飲まされるとか、ウジ虫や膿や血で満たされた釜の中でゆでられるとか、手足が切断されたり、舌を抜かれたりなど、こんな記述が本でいうと22行にもわたって、これでもか、これでもかと書いてあるのです(地獄には針の山に血の池があるという言い伝えは、どうもここから来ているようです)。

 私は、経典のこの部分については、まともだとは思えません。あとはすばらしいと思いますが、この部分はどう考えても異常であり、執拗であり、病的なものさえ感じます。
 いったい、聖者の悪口をいったくらいで、このような悲惨な苦しみを、ほとんど永遠の間受けなければならない理由が、いったいどこにあるのでしょうか? 聖者を何人も殺した、というのならまだわかりますが、彼はただ「邪念があります。悪い欲求があります」と言っただけなのです。
 しかも、コーカーリアの言い分にも、実は一理あるのです。というのは、サーリープッタは、あるとき、雨が降ってきたので洞窟に入ったのですが、そこに女性がたまたまいて、雨が止まずそのまま一晩中、一緒に雨宿りしたことがあるらしいのです。つまり、女性と一緒に一夜を過ごしたわけです。もちろん、そこには何もなかったでしょうが、どうやらコーカーリアは、そのことで、サーリープッタを責めたようなのです。
 釈迦は、「外を歩いていても女性を見てはいけない。女性に声をかけられたら、そっぽを向いておれ」と弟子に教えていました。ところが、そこまで厳しく説いている釈迦の一番弟子であるサーリープッタが、女性と一緒に一夜を過ごしたというのを耳にしたら、誰だって眉をひそめたくなるのではないでしょうか。
 もちろん、そこに何かあったと考えるとしたら、それはコーカーリアの誤解でしょうが、そのように誤解を与えかねないことをサーリープッタがしたということも事実であり、コーカーリアだけを一方的に責めるのは公平ではないと思うわけです。
 
 あらゆる経典のなかで、もっとも釈迦の教説を伝えているとされるスッタニパータですが、結局は弟子が書いたものであり、そのために、ある程度の歪曲がそこにはあると思っています。そのため、果たして釈迦は、この経典に書かれてある通りのことを口にしたのかどうか、かなり疑わしい気がします。地獄の滞在期間が5千兆年・・・などと具体的な数字をあげたり、おどろおどろしく執拗な地獄の描写など、何となく釈迦らしくないのです。また、芥子粒ほどのはれ物がパパイヤほど大きくなって破裂して死ぬなどという病気は、聞いたことがありません。いかにも「作り話」といった感じがするのです。
 私の想像では、当時、自分たちの集まりを悪くいう者がたくさんいて、そういう人々に対する「脅し」として、弟子が勝手に、このような教えを作ったのではないかと思うのです。つまり、「私たちを悪く言うな。悪くいうとこんな怖ろしい地獄に、こんなに長い間苦しむことになるぞ!」というわけです。
 もしそうだとしたら、ありもしない話をでっちあげ、それを脅しに使って自分たちを守ろうとしたその根性は、仏弟子としては、あまり褒められたものではないと思います。釈迦は別のところで「悪口や批判には静かにじっと耐えよ」と説いています。その言葉に反する行為です。

 万が一、本当にこんなことを釈迦が言ったのだとしたら、釈迦は間違っていると私は思います。釈迦は、「どのような生き物でも苦しめるな。慈悲深くあれ」と説きました。小さな虫でさえも、殺したり、苦しめてはいけないと説いたのです。
 そのような慈悲深い釈迦が、たかが聖者の悪口をいったくらいで、悲惨きわまりない壮絶な苦しみを天文学的に長い時間苦しまなければならないなどと言い、そうなっても当然のごとく語っているとしたら、どう考えてもまともではありません。罪の重さからすれば、あまりにも理不尽であり、そこには慈悲のかけらもありません。

 もし、この教えをそのまま受け取ったとしましょう。そうして、釈迦や仏教の悪口を言った人がいたとして、その人がその後、悲惨な人生の苦しみに見舞われたとします。そうしたら、「釈迦や仏教の悪口をいった報いだ、そうなって当然だ、いいきみだ」などという思いが、多少なりとも出てくるのではないでしょうか。しかし、そのように人の不幸を喜ぶ方が、聖者の悪口を言うことよりも、ずっと悪いことのように私には思えるのですが、いかがでしょうか。

 したがって、私はこの経典を愛読してはいますが、この部分だけはナンセンスだと考えています。要するに、この部分が言いたいことは「人の悪口を言うな」ということであり、それだけのために、くどくどと地獄の様子を聞かなければならない道理はないわけです。
 その他のところは、とてもすばらしいと思います。
 どんなにすばらしい経典、あるいは聖者であっても、「その教えすべてが絶対に正しいのだ」と考え、なんでも無批判に盲目的に受け入れることは、正しいことではないのです。私はそう考えています。
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コメント

宗教は真実そのものというより、一遍の真実を混ぜ込めて人間の道徳をうながす願いを込められたものと定義できるのかもしれないですね。祖師が覚者であっても書き残すのは弟子、支持してきたのは人間。

前時代の人間の道徳感は現代人に合わなくなってきています。宗教という形から本物のエッセンスを見抜く作業も必要なんですね。

地獄って人間の内面にある観念です。
2011-10-22 Sat 15:41 | URL | メン [ 編集 ]
自分だけが絶対に正しいと思い込みたい人たちにとっては、戒律を守れない輩は永遠に地獄の業火に責め苛まれると思うことが何よりの“悦び”なのでしょうね。
実際にはその心の状態が既に地獄なのでは?と思いますけど…。
2011-10-22 Sat 19:05 | URL | nakatsu [ 編集 ]
斉藤啓一です。メンさん、そしてnakatsuさん、コメントありがとうございました。
本当に、宗教という形から本物のエッセンスを見抜く作業は必要だと思います。少し勇気がいることですが、さもないと、いつまでも宗教の弊害はなくならないと思うのです。
また、他者が地獄の業火に責めさいなまれるのを思うことは、まさにその心そのものが地獄の住人の心ですね。
2011-10-22 Sat 20:46 | URL | [ 編集 ]
斉藤先生、オクです(笑)

宗教的なタブーだとか死生観の問題としても、たとえば江原啓之さんなんかは自殺は他殺より罪深いなどと昔に言っていたのを読んだ記憶があります。しかし自殺一つとってみても、日本には昔からポックリ信仰などというのもありますし、安楽死などと自殺のどこで線をひくのか難しいとも思います。自殺をしたら地獄へ堕ちるだとか、世の中を見渡しても真剣に生きようとしないというある種の消極的自殺はいくらでもありますし、斉藤さんが言われたような脅しというのは、盲目や盲従によって正統化されるものなのかもしれませんね。あとは『汗水流して一生懸命働くのがとにかく尊い』だとか、今の時代の流れにあっているかどうか大いに疑問でもあります。迷信が具体的に何かは難しい問題ですが、一つ一つ事実を検証していくしかないのではないかとも思います(笑)
2011-10-23 Sun 11:03 | URL | oku [ 編集 ]
斉藤啓一です。okuさん、コメント、ありがとうございました。
どういう文脈で「自殺は他殺より罪深い」といったのかわかりませんが、世の中には、自殺なんてしたくないのに、さまざまな理由で自殺をせざるをえない人もいるのです。そういう人たちに対して、杓子定規に「自殺は罪深い、死後に苦しむ」などということは、残酷であり、かえって苦しむ人を追いつめてしまうことになると、私は思います。
私個人の考えとしては、自殺は罪にはなりません。死後に苦しむこともありません。ただ、「残念なこと」ではあります。その残念なことを罪と考えれば、罪と言えなくもありませんが。
いずれにしろ、宗教やスピリチュアルの世界で、当たり前として信じられてきたことを、すべて検証してみる必要があると思っています。
2011-10-23 Sun 11:20 | URL | [ 編集 ]
オクです。斉藤先生レスをありがとうございました。

そうですね、江原さんの「自殺は殺人より罪が重い」というのは、アンチテーゼというかレトリックの一部としてそういう言い方をしたのでしょうね。

その他、非常に「興味深い意見」をお聞かせ頂きありがとうございました。もしかしたら、その意見に救われる人がいるかもしれませんね。
2011-10-24 Mon 18:43 | URL | oku [ 編集 ]
オクです。斉藤先生こんにちは。最新記事の道元の話しも面白かったです。師弟の因縁と言えばミラレパとマルパの話しも有名ですよね。

さて、この世には生命の危険も厭わない【荒行】というのが、数多く存在していると思うのです。

その意味で覚醒の道を進むことにおいて、最悪 命を落とすケースも考えられるかと思います。

命があっての覚醒と考えるか、覚醒のために命を落とすこともやむなしと考えるか?

私自身は【輪廻転生を信じていますが】それでも命(あるいは健康)を削ってまで覚醒する必要があるか?どうか?は大いに疑問です。

斉藤先生はこの点についてはどのようにお考えになりますか?
もし差し支えがなければお聞かせください。

2011-10-26 Wed 18:50 | URL | oku [ 編集 ]
斉藤啓一です。オクさん、コメント、ありがとうございました。
ご質問についてですが、まず、命や健康を削るような修行が、どの程度、覚醒に貢献するかという点について考えてみなければならないと思います。
また、そのような激しい行が、本当に高い志に基づいたものなのか、それともエゴによるものなのかについても、考えてみなければならないと思います。
エゴによるものなら、それは何の価値もないし、かえって道をあやまるものだと思います。
命を捨てるほど真剣であるなら、その気持ちは見習うものがあるかと思いますし、ときには命を捨てるような修行をすることも大切なときがあるかもしれませんが、一般的には、命を縮めるような修行は覚醒に貢献しないし、また、そのような行はするべきではないと思います。
命は神から与えられたものであり、そんな命をいたずらに犠牲にすることは、神への冒涜であると思うからです。
2011-10-26 Wed 19:55 | URL | [ 編集 ]
おくです。斉藤先生お答えありがとうございました。

非常によくわかりました。頂いた この言葉を忘れることなく修行に務めたいと思います。
2011-10-27 Thu 19:21 | URL | oku [ 編集 ]

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