fc2ブログ

心の治癒と魂の覚醒

        

 道元の潔癖主義-続き

 前回、道元の尋常ではないエピソードについてご紹介いたしました。今回はその続きになりますが、これから私が申し上げることは、何の根拠もない単なる勝手な憶測であることを、最初にお断りさせていただきます。
 さて、世間の名誉に欲がくらんだ(と道元が思った)弟子を追放し、その弟子の座っていた床をはぎ取り、さらにその下の地面を2メートルも掘ってその土を捨てたという道元の潔癖主義のエピソードですが、よく考えると、このエピソードは本当に起こったのか?という疑問を持っているのです。
 というのは、あまりにも「漫画チック」だからです。何となく、ここまで来ると、驚くとかあきれるとか、憤慨するというよりも、こっけいに感じてしまうわけです。
 当時、座禅は寺の禅堂で行われていたわけで、野外で地面に座って座禅していたわけではないでしょう。となると、弟子の座っていた床の板を切り取り、その下の土台なども取り去らなければなりません。さらにその地面を2メートル以上も掘るとなると、かなり大規模な「工事」になったと推測できます。一日や二日では終わらなかったと思います。
 そして、そこまでやって元に修復するのも、多大な労働と費用がかかったのではないかと思われます。貴重な文化財に対して、そんなことが平気でできるものなのでしょうか?
 もしこれが事実だとしたら、修復跡のようなものが残っているかと思うのですが、どうなのでしょう?(私は歴史には詳しくないので、そこのところはわかりません)。
 果たして、道元が、そこまでやるでしょうか? そこまでやるとなると、もう気が狂っているとしか思えないのですが、そこまで気が狂っている人が、「正法眼蔵」のような格調高く体系的に見事にまとめられた、あれだけの大著を著すことができるとは、とうてい思えないのです。

 こう考えるようになったのには、また他の理由もあります。
 皆さんは、道元の肖像画を見たことがあるでしょうか? 高校時代の社会の教科書などで、たぶん、目にしたことがあるかと思いますが、あの肖像画はかなり奇妙です。目や口の形や位置がかなりずれていて、まるでお正月に遊ぶ「ふくわらい」を見るかのようです。あの眼などは、とても人間のようには見えません。もし、道元が本当にあのような顔をしていたのだとしたら、たぶん、医学的には「奇形の障害」として見なされるものです。しかし、奇形が生まれる確率からいっても、彼がそんな奇形であったとは考えにくいのです。

 それとも、肖像画を描いた絵師がへたくそだったのでしょうか?
 しかし、顔以外のところはよく描けていて、決してへただったとは思えません。
 では、絵師はいたずらで、あのような絵を描いたのでしょうか? それも考えられません。天下に名だたる名僧の肖像画を、いたずらや冗談で描いたとしたら、それこそ幕府から切腹を命じられたことでしょう。
 では、絵師のいたずらではなく、また、道元があのような顔つきをしていなかったとしたら、なぜあのような肖像画が生まれたのでしょうか?

 これは私の推測に過ぎませんが、道元はわざと、絵師にあのような肖像画を描かせたのではないかと思うのです。この世の栄誉など軽蔑して嫌っていた道元は、偉そうに自分の肖像画を描かれることがイヤだったのではないか。しかし、どうしても、(おかみの命令などで)描いてもらわなければならないことになり、しかたなく、肖像画という俗世の虚栄をあざ笑うかのように、あのようにへんな顔に、わざと絵師に描かせたのではないかと思うのです。
 つまり、実は道元という人は、堅苦しく厳しいだけではなく、もの凄く面白いところがあったような気がするのです。ちょうど一休さんのような、風狂といいますか、トンチといいますか、ユーモアの精神があったのではないかと推測されるのです。
 そのため、同じような理由から、道元はおそらく、「不詳な弟子がいたから、その地面を7尺も掘った」などと、まことしやかに(実は冗談半分に)、在俗信者たちに話し、信者たちはその話を鵜呑みにして、それが、前回ご紹介したエピソードとして伝えられたのではないかと思うわけです。

 もちろん、真偽はわからないのですが、いずれにしろ、宗教や偉い人の教えだけでなく、それに伝わるエピソードというものも、私たちはつい、そのまま信じ込んでしまう傾向があるような気がします。それも正しくない気がするのです。
 どんなことも、しっかりとした客観的で公平な目で、見つめる必要があると思うのです。

スポンサーサイト




盲信からの解脱 | コメント:4 | トラックバック:0 |
<< カルマの法則への疑問 ① | ホーム |  道元の潔癖主義>>

コメント

オクです、斉藤先生いつもお世話になっています。

仏陀自身、この無常の世にあって、「幸せ」というのは永続きしないものだと人々に説いていたように私には思えます。

私の考えでは、それが彼の言うこの世の本質は「苦」ということではないかと思うのです。

そしてクリシュナムルティも・・

“幸せはそれが幸せと個人の中で意識(認識)された瞬間 途端にそれは幸せではなくなる”

と確か言っていると思います。

そこで何が言いたいかと言えば、精神的な修行の道であっても、私というエゴを消滅させることについて、笑いでありユーモアでというのは非常に重要な手がかりになるのではないかと私自身も常々、いちおう思ってはいるということなのですが。。。。
2011-10-30 Sun 05:57 | URL | oku [ 編集 ]
斉藤啓一です。オクさん、コメントありがとうございました。
はい。私もそう思います。思い詰めていたら、ユーモアのセンスは出てこないでしょう。思い詰めるというのは、ある種の執着だと思います。この世は無常ですから、執着していたものはいつか失われ、苦しみを味わいます。ユーモアには、執着はない(少ない)と思います。物事から少し距離をおかないと、言い換えれば心のゆとりがないと、ユーモアは出てきません。とらわれては出てこないのです。
その意味で、ユーモアのセンスというのは、覚醒に至る重要な要素になってくるのではないかと、私も考えています。
2011-10-30 Sun 18:22 | URL | [ 編集 ]
斉藤さんがいわれるとそうだろうと思えますね。
禅の世界はやっぱり他と違う風情を感じます。
このシリーズ楽しみです。
2011-10-30 Sun 20:32 | URL | メン [ 編集 ]
斉藤啓一です。メンさん、コメントありがとうございました。
さて、本当のところは、どうなんでしょうね(笑)
次回は、またちょっとシリアスな問題について、述べてみたいと思います。
よろしくお願い致します。
2011-10-30 Sun 20:52 | URL | [ 編集 ]

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

| ホーム |