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心の治癒と魂の覚醒

        

 カルマの法則への疑問 ①

 「盲信からの解脱」のカテゴリーの続きとして、今度は「カルマの法則」について疑問に思うことを述べたいと思います。
 その前に、カルマの法則とは何かについて、一般に思われている見解を説明しておきましょう。これはおそらく、インド哲学から発生したものではないかと思いますが、ヨーガや仏教、ジャイナ教といった宗教の教えの柱となっているものです。
 カルマとはもともと「業」、つまり「行い」を意味する言葉で、善いカルマと悪いカルマとがあるわけですが、一般に「カルマ」と言った場合、悪いカルマ、あるいは悪いカルマに対する報い、また、その報いをもたらす「種」、のような意味合いで使われることが多いようです。
 そして、カルマの法則と言った場合、それは「善い行いに対しては善い報いが、悪い行いには悪い報いが訪れる」ということになります。いわゆる「因果応報」です。
 それは、ちょうど物理学の作用・反作用のように、厳密に善悪が査定され、同等の報いが公平に訪れると信じられています。わかりやすい例をあげると、壁に向かって10の力でボールを投げると、同じ10の力でこちらに跳ね返ってくるようなものです(この例では摩擦や抵抗は考えない)。その報いは現世で結実する場合もあれば、来世で結実する場合もあります。視点を変えれば、今日の不運の原因は、過去、あるいは過去生で悪いことをした報いということになります。
 カルマの法則は、お金にたとえられることもあります。すなわち、悪いことをすると、それは借金をするようなもので、その借金ぶんの金額を後で払わなければならなくなる、というわけです。具体的には、不運や苦しみを通して、あるいは何らかの償いの行為を通して払わされるのです。逆に、善いことをすれば、それは天国に貯金をするようなもので、いつかその貯金がおろされて善いこと(幸運)がやってくる、ということになります。
 以上が、一般的に信じられているカルマの法則であるといえると思います。
 そして、唯物論者でない限り、スピリチュアルな方面に関心がある人はもちろん、それほど関心がない人でも、こうしたカルマの法則を信じている人は少なくないようです。

 しかし、本当に、以上のようなカルマの法則というのは、存在するのでしょうか?
 確かに、この考え方は、一見すると非常にすっきりとして合理的に思えます。心情的にも、悪いことをしてそのままですむはずがない、いや、すんではならない、その報いは必ず受けるべきだ、という、ある種の勧善懲悪への欲求を満たしてくれる点で、納得がいくものです。そうして、ほとんどの人が、このカルマの法則を批判的に見ることなく、素直にそのまま受け入れているように思います。
 しかし、本当に、このカルマの法則を、そのまま受け入れていいものなのでしょうか?

 私がカルマの法則に関して疑問に思う点はいくつかあるのですが、まずもっとも疑問なのは、「善悪をどのように判定しているのか?」ということです。
 物理学の作用・反作用の法則は単純です。そこには善悪の区別はありません。しかし、善や悪という概念は、単純ではありません。何をもって善というか、何をもって悪というか、それがはっきりと決められないことも、世の中には少なくないわけです。
 たとえば、親が子供を悪の道から救うために、子供に体罰を与えたとします。子供からすれば、憎しみ以外の何ものでもないと感じ、ますます悪の道に進んでいったとします。この親は、善いことをしたのでしょうか? それとも、悪いことをしたのでしょうか?
 あるいは、行為そのものではなく、「動機」が重要なのでしょうか? つまり、善いことをしようという動機はあったが、結果的にそれが人を不幸にしてしまったとしても、悪い行為にはならない(それゆえに悪い報いは訪れない)ということなのでしょうか?

 以上のような疑問を考えるための、ひとつの「たたきだい」として、仏典に伝わる「アングリマーラ」の話を紹介したいと思います。有名な話なのでご存じの方もいらっしゃるかもしれません。とりあえず、その話を紹介させていただき、それについて私が考えることは、次回にまわしたいと思います。
 まずは、アングリマーラの話を読んでみて下さい。

 かつて、アヒンサという男が、師匠のもとで熱心に宗教的修行を行っていました。
 ある日、師匠が外に出て留守だったとき、師の妻がアヒンサに恋慕し誘惑しました。しかしアヒンサはこれに応じず断りました。するとその妻は、そのことを逆恨みし、自ら衣を破り裂き、帰ってきた師匠に、「アヒンサに乱暴された」と訴えました。
 それを聞いた師は怒り、アヒンサに「100人の人々を殺してその指を切り取って、鬘(首飾り)にすれば、お前の修行は完成する」と命じました。アヒンサは悩んだ末に、街に出て師の命令どおり人々を殺してその指を切り取っていきました。これによりアングリマーラ(指鬘)と呼ばれるようになり、人々から恐れられるようになりました。
 そんなあるとき、アヒンサ、すなわちアングリマーラは、たまたま釈迦と出会いました。アングリマーラは釈迦を殺して指を切り取ろうとしましたが、そんな彼にまったく動じない釈迦に感銘を受け、殺人を止めて釈迦の弟子になったのです。
 すると、今度は、家族や身内を殺された人々がアングリマーラに石を投げたり暴力を振るって、怨念を晴らすようになりました。血だらけになったアングリマーラに「このような仕打ちを受けるのも、おまえが以前に行った悪い行為の報いである。このような報いを受けて過去の悪いカルマが消えるまで、じっと耐えなければならない」といった意味のことを、釈迦は説いて聞かせました。

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コメント

オクです、斉藤先生いつもお世話になっております。

私の考えでは、カルマをあまり善悪の道徳基準と結びつけないほうがいいと思っています。

敢えて言えば、個人の中で乗り越えられたカルマは結果として善であり、乗り越えられなかったカルマは悪であると言えるかもしれません。

それよりカルマの落とし方であり、カルマのクリーニング方法がわからず、私はずっと困っています。そちらのほうが大切な気もするのですが。。。



2011-11-03 Thu 17:06 | URL | oku [ 編集 ]
斉藤啓一です。オクさん、いつもコメントありがとうございます。
確かに、一番大切なのは、私もカルマの浄化だと思います。
ただ、そのために、こういうことを考えてみるのもいいかなと思うのです。
すみませんが、もう少しおつきあいください(笑)
2011-11-03 Thu 21:52 | URL | [ 編集 ]
こんにちは。はじめまして♪
ローキックと言います。

カルマの法則を信じるのであれば、
皆、「善い行い」をしよう、と思います。

「善い行い」をしても、反動の「善い行い」が
かえってこなかったりで、悩むと思います。

かといって「悪いことをしよう」薦めているわけでは、
ありません。
2011-11-04 Fri 14:00 | URL | ローキック [ 編集 ]
斉藤啓一です。ローキックさん、コメント、ありがとうございました。
そうですね。善い行いをしましょう。
今後とも、よろしくお願い致します。
2011-11-04 Fri 16:23 | URL | [ 編集 ]
ふらっと足を運ばせて頂きました。

善か悪か、何かを為したのならば、その報いが起こると説かれています。

もし後になって後悔の念が生じたり、何か悲しむような事が起きたのなら、それは悪い行いだった事になります。

後になって、喜ばしい想いが起こり、何か喜ばしい事が起こるのなら、それは善い行いだったと知ることができます。

アングリマーラは、出家されてからは、悪い行いは一切なさっておりません。誰かを悲しませるような事を一切なさっておりません。

そうした悪を為さない方に起こる、一見厳しい報いは何でしょうか。それは、過去のカルマが消滅していく姿です。悪きカルマが無くなってスッキリします。

どうやら、人々から迫害をされたのは、ある意味で良き報いだったようです。

心が邪ですと、自分が正義だから迫害されると思うかも知れません。そういう人は、知らない内に他人を気づ付けることを現在進行形で続けている場合があったりしませんでしょうか。

ブッダは、アングリマーラに起こった迫害を、その微妙なところを(本当は良い事が起きているから)耐えよと真実をおっしゃっています。

耐えなければ、流されて悪行を
為してしまいます。またカルマを作ってしまいます。

大きな悪行を為すと抜けることがいかに大変かが分かります。一切、悪を為さなくなっても悪行の報いを前にして惑わされそうになりそうです。

悪行はしないに越したことは無いですね。それ以上に真のやさしさを追求することは素敵だと思います。

後で後悔しないように気を付けたいです。
2012-09-12 Wed 10:11 | URL | oba [ 編集 ]
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2012-09-12 Wed 20:49 | | [ 編集 ]

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