心の治癒と魂の覚醒

        

カルマの法則への疑問 ②

 さて、前回、アングリマーラのお話をご紹介しましたが、彼はいったいなぜ、このような悪いカルマを行うようになってしまったのでしょうか?
 まず、彼が師匠の命令をそのまま受け入れたことにあると言えるでしょう。私から言わせれば、「盲信」してしまったのです。いかに盲信が危険であるか、この話からもわかると思います。オウム真理教の信者たちも、結局は麻原を絶対的な存在として盲信した結果、あのようなむごい事件を起こすことになったわけです。
 ただ、当時のインドの宗教事情を考えますと、グルというのは絶対的な存在であり、絶対に正しく、それゆえグルの命令は絶対に服従するというのが、解脱をめざす弟子として必要不可欠なことであり、あるべき姿であるという風潮が、根深くあったようです。
 その意味では、アングリマーラは、ただ真面目であったということなのかもしれません。もっとも、妻が嘘を言ったのも見抜けないような、そもそも、あのような恥ずべき行いをするような女を妻にめとる、ふぬけた人物を師匠に選んだ彼にも責任があると言えなくもありませんが、いずれにしろ、彼は人殺しをしたくてしたわけではないことは確かでしょう。

 もともと、アングリマーラがあのような悪しきカルマを積むようになったのは、師匠の妻があのような卑劣な嘘を言ったからです。そこから始まったのです。妻があのようなことをしなければ、アングリマーラもあのような行為をしなかったのです。その点では、もっとも悪いのは妻だと言えるかもしれません。
 しかし、妻はまさか、人殺しにまで発展するとは思わなかったでしょう。そうなるとわかっていたら、たぶん、あのような嘘もつかなかったと思います。
 一方、人を殺せと命令したのは師匠ですから、その点では師匠こそがもっとも悪いと言えるかもしれません。しかし、その師匠もだまされたから、そのように言ったわけです。人間である以上、だまされることもあるのは仕方がないことですから、そう考えると、師匠にも情状酌量の余地はあることになります。

 以上のように考えると、アングリマーラ、師匠、妻の3人は、決して人殺しを望んだわけではなく、それぞれ意図しないまま、結果的に人殺しという出来事を生みだしてしまったと言えるでしょう。
 ならば、アングリマーラだけが、悪しきカルマを積んだとして、責められることになるのでしょうか? 師匠にも妻にも、殺人の責任があるのではないでしょうか?
 だとすると、アングリマーラだけではなく、師匠や妻も、殺人という悪しきカルマに対する報いを分配されて受けなければならないでしょう。
 しかし、いったいどのようにして、公正にカルマの結果を分配するのでしょうか?
 事情は非常に複雑です。全員が悪いとも言えるし、全員が悪くないとも言えるなかで、いったい誰がどのくらいカルマの報いを引き受けるのか? その分量をどのようにして公正に配分することができるのか? また、その配分は機械的な法則によって自動的に決められるのか、それとも、そのような配分を決める人格的な存在がいて、その裁量によって決められるのか? だとすると、どのような基準に従ってそれを行うのか?

 アングリマーラの話は、国の命令で戦争に行き、敵の人間を殺す兵士にも、そのまま当てはまるのではないでしょうか?
 その場合、ろくでもない師匠の命令にしたがったアングリマーラに責任があるとするなら、戦争をするろくでもない政府にしたがった国民に責任があると言えるわけで、そうなると、兵士たちはみんな、敵(人)を殺して悪しきカルマを積むことになります。
 しかし兵士たちは、仕事でそれを行っているわけであり、上からの命令で仕事(殺人)を行っただけなのに、悪いカルマを積んだことになるというのは、理不尽ではないでしょうか。
 もちろん、仕事と言えども、それは自分の生活費を稼ぐという利己的な目的もあるわけですから、その意味では、自分のために人を殺したと言えなくもないかもしれません。
 ならば、徴兵制度により、無理矢理に兵士にさせられ、戦場に連れて行かれ、人を殺さなければならない状況におかれることも、世の中にはあるわけですから、その場合でも、悪しきカルマを積んだことになり、いつかカルマの報いを受けなければならなくなるのでしょうか?
 そうだとすると、これはあまりにも理不尽であり、納得のいくものとは思えないのですが、いかがでしょうか?

 反社会性人格障害という精神疾患があります。これは、犯罪などの反社会的な行いをしてしまう病気です。遺伝や脳の異常、生育環境などにより、こういう精神の病気になってしまう人が、男性の場合、人口の2%くらい存在すると言われています。
 このように、精神の病気が原因で、たとえば人を殺してしまった場合、やはり悪いカルマを積んだことになり、悪い報いを受けなければならないのでしょうか?
 つまり、私が言いたいのは、人間とは、たとえ悪いことをしたくなくても、悪いことをしてしまう存在ではないのか、ということです。もしそのように造られているというのに、報いだけは責任を取らされて苦しまなければならないのなら、あまりにも理不尽だと思うわけです。

 それとも、動機が問題なのでしょうか? 人を傷つける動機で行った場合は悪いカルマとなり、そういう動機がなくて人を傷つけてしまった場合は、悪いカルマにならないのでしょうか?
 だとすると、「世界をよくしよう」という純粋な動機で(仮に本当にそのような純粋な動機だとして)、そのために仕方なく爆弾を飛行機にしかけて人を殺すテロリストたちは、悪いカルマを積んでいないことになりますが、動機さえ善いものなら、結果的にいくら人を殺しても悪いカルマにならないのでしょうか? もしヒトラーが純粋な動機でユダヤ人を殺していたとしたら、彼は悪いカルマを積んでいないことになりますが、どうなのでしょうか?

それとも、やはりあくまでも、結果なのでしょうか?
 殺すつもりはない、間違って殺してしまった場合でも、殺人という行為に対する報いは受けなければならないのでしょうか? だとすると、医療過誤で患者さんを死なせてしまった医師などは、悪いカルマを積んだことになるでしょう。そうなると、悪いカルマを積まないように、医者にはならないようにしなければなりません。しかしそうして医師がいなくなったら、たくさんの人たちが、助かる命も助からないということになるでしょう。

 このようにあれこれ考えると、果たしてカルマの法則は、どのようにして明確に善悪の判定をし、どのように公平に報いを与えているのか、まったく検討もつかなくなってしまうのです。
 そもそも、公正に善悪を判定し、厳密にそれに応じた報いをもたらすということなど、果たして可能なのでしょうか?
「神様は万能だから、可能なのです」
 と言われれば、それまでです。それはもう信仰の問題、つまり信じるか信じないかの問題となり、議論の余地はありません。
 けれども、それは、「グルは絶対に正しいから、グルの言うことはすべて正しいのです」という発想と、何ら変わらないと思います。
 つまり、最初から正しいと決めて批判する姿勢を捨てる姿勢は、盲信と紙一重の姿勢なのです。アングリマーラの悲劇は、そうして起こったのです。
 カルマの法則に対する盲信(があればの話ですが)を排除しようと考察しているのが、このブログの目的なのです。
スポンサーサイト

盲信からの解脱 | コメント:10 | トラックバック:0 |
<< 読者の方のご意見 | ホーム |  カルマの法則への疑問 ①>>

コメント

こんにちは^^

グルは、信者からみれば「絶対的存在」ですが、
たとえグルであっても悪いところも有ると思います。

善悪の基準は、よくよく考えると、
とても難しいものだと思いました。
戦争では、他国から攻められていたとして
そのまま攻撃を受け続けても
他国が残忍な国であれば、ずっと攻撃をし、
自国は馬鹿にされるのでしょうね。

その場合、他国はカルマの法則で
その国に跳ね返ってくるのを信じたいです。
2011-11-07 Mon 10:26 | URL | ローキック [ 編集 ]
斉藤啓一です。ローキックさん、コメントありがとうございます。
本当に、善悪の基準は難しいですね。
とりわけ、国と国との戦争という話になると、さらに複雑です。カルマの法則が事実なら、個人のカルマというだけでなく、国のカルマというものもあるかもしれません。日本が二度も原爆を落とされたのも、日本が過去に行ったカルマのせいなのでしょうか。
いずれにしろ、戦争のない世界を望みます。
2011-11-07 Mon 18:05 | URL | [ 編集 ]
私は、カルマの法則というのは宇宙の摂理の働き方のことを指しているだけで、その因果律に魂が関わるとまた複雑に作用するものだと思います。

人間が宇宙(現実)で表す行動×因果律(宇宙の働き)=人の想念を主とする方向性にカルマ(因果)が働く、のではないかと思うのですが。

人間が作るカルマとは、人の感情(想念)が深く関わるもので、だからこそ複雑化するのではないかと思うのです。例えAさんとBさんが同じ状況の過ちを犯しても心の持ち方で解釈がまったく異なります。自分が知らなくても罪を犯した結果を本人がどう感じ、次の行動にどう影響させたのか、その本人の受けとめ方で罪にもなり、罪も免れたり、または本人の向上に繋がるきっかけになるなど、だいぶ幅があると思います。それこそ他者から見た傍目の解釈では、その当人の真の行く末は誰にも分からない、そういうものだと思っています。

カルマは罰ではなく自分自身の魂の向上を促すためなら個性の数だけ千変万化するものと思います。
しかし、人生の青写真を作ったのは本当は自分自身ですよね。
2011-11-07 Mon 21:01 | URL | メン [ 編集 ]
斉藤啓一です。メンさん、コメント、ありがとうございました。
ひとつの視点として、とても興味深い考え方だと思いました。とにかく複雑ですね。いろいろな要素が絡んできます。
私も、慎重に考えていきたいと思います。
これからも、よろしくお願い致します。
2011-11-07 Mon 22:05 | URL | [ 編集 ]
 大変興味ある話でした。そうですね、こういう考え方もあります。

 人間は全て「原初の魂」から枝分かれした「分け御霊」であり、それぞれの経験を通して、様々な可能性を模索したうえで、また原初の魂にもどってゆく。

 苦しませる人と苦しむ人の中にも原初の魂はしっかりとおられて、それぞれのパターンを経験することで学んでいると。個人の我を超えた、底の底のレベルですので、コントロールはできません。ただ、それぞれの人生を「生きる」だけなのです。

 この世界自体も原初の魂の内側にあるとすれば、苦しみが訪れる事、苦しみを与える人や運命があるということすら、その原初の魂が望んでプログラムしていることになります。

 私はこれを「神あそび」と呼びます。ひとり、部屋でいろんなおもちゃどうしを戦わせて遊んでいる子供の心境です。我々個々の「おもちゃ」は自分に苦しみを与える別のおもちゃを憎んだりしますが、操っている存在に意識を置けば、ずいぶんとラクになりました。すべてはひとつなんです。視点が変わりました。
2011-11-08 Tue 07:29 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ワタナベさん、コメント、ありがとうございました。
ワタナベさんの考え方は、カルマの法則を支持している仏教的な考え方ではないですが、こういう考え方(視点)もあるでしょうね。この考え方を採用するとなると、カルマの法則は存在しないということになるのでしょうか?
さらなる探求をしていきたいと思います。
2011-11-08 Tue 08:40 | URL | [ 編集 ]
オクです、斉藤先生こんにちは。たしかにこの世にはカルマだけでは説明がつかないことも多いかもしれませんね(笑) 

ただ自分も、観念的なものを具体的事例に結びつけて考えようとすること自体には全く同感です。

それに人間というのは皆、ある程度のところまでは世の中に埋没しているものだと思いますし、その埋没している部分においてはカルマより世俗的な枠組みからの影響.作用を強く受けるものだと思っております。

各人の一日も早い具体的あるいは体験的理解が望まれるといったところでしょうか。
2011-11-08 Tue 17:06 | URL | oku [ 編集 ]
>カルマの法則は存在しないということになるのでしょうか?

という質問いただきました。まだ実践中の段階なので、自分でも完全な理解には至ってはおりませんが、前コメントのこの部分を。

>苦しみが訪れる事、苦しみを与える人や運命があるということすら、その原初の魂が望んでプログラムしていることになります。

「神あそび」に存在するいくつかのルール、といいますか、原初の魂の好きな遊びの様式のひとつが、カルマ、日月神示でいうところのメグリです。
2011-11-08 Tue 18:30 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ワタナベさん、ご返答ありがとうございました。
いろいろな角度からの考えがあると思いました。
引き続き、よろしくお願い致します。
2011-11-08 Tue 19:57 | URL | [ 編集 ]
オクです、ここでメンさんが想念をカルマと捉えたことは、非常に正しいと自分も思います。
それは、その個人が善きにつけ悪しきにつけ、自らの自由意思を働かせてこそカルマの形成だと思うからです。だから自分自身による考えも行いも全く無く、ただ世の中に埋没しているだけの人がいたとしたら、もしかしたらその人にはカルマなどは存在しない(笑)ということになるのかもしれませんね(笑)


2011-11-09 Wed 19:51 | URL | oku [ 編集 ]

コメントの投稿















管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

| ホーム |