心の治癒と魂の覚醒

        

マザーテレサの「心の闇」①

 
 マザーテレサと言えば、インドで貧しい人々のために献身的に尽くし、まさにキリスト教徒の鏡であり、ノーベル賞まで受賞した聖人です。彼女ほど深い神への信仰を持っていた人はそういないと思われるほどです。
 ところが、そのマザーテレサが、ごく親しい神父への手紙で、神の存在を疑い苦悩していたことを、先日、あるスピリチュアル系のサイトをたまたま見ていたときに知りました。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/sp_newsletter/spnl_backnumber/spnl-50/spnl-50-1.htm

 これは、世界中の人に衝撃を与えたようですが、私にとってもいろいろな意味で驚きでした。この手紙は、2007年に出版された “Come Be My Light”という本のなかで公開されているそうです。その一部を紹介してみます。

●1953年(マザー43歳)……ペリエール大司教への告白
「私の心の中に恐ろしい闇があるために、まるですべてが死んでしまったかのようです。私がこの仕事(*インド貧民街での奉仕の仕事)を始めるようになって間もないときから、このような状態がずっと続いています。」

●1959年(マザー49歳)……ピカシー神父への告白
「主よ、あなたが見捨てなければならない私は、いったい誰なのでしょうか? あなたの愛する子供は今、最も嫌われ者になっています。あなたから求められず、愛されず、私はあなたから捨てられてしまいました。私はあなたを呼び求め、すがりつきますが、あなたは応えてくれません。闇はあまりにも暗く、私は孤独です。求められず、見捨てられて、私は独りぼっちです。愛を求める心の寂しさに耐えられません。

私の信仰は、いったいどこに行ってしまったのでしょうか? 心の底には、虚しさと闇しかありません。主よ、この得体の知れない痛みは、何と苦しいことでしょう。絶えず私の心は痛みます。私には信仰がありません。私の心に次々と湧いてくる考え、私を苦しめる言葉にできない苦悩を口にすることはできません。答えを見い出すことのできない多くの疑問が、私の中に存在しています。私はそれを打ち明けるのが怖いのです。それが神を冒涜することであると思うと……。もし神がおられるのなら、どうか私を許してください。すべてがイエスとともに天国で終わるという希望を、信じさせてください。

愛――その言葉は何の喜びも私にもたらしません。神が私を愛していると教えられてきました。しかし闇と冷たさと虚しさに満ちた現実があまりにも大きいため、私の心は何の喜びも感じることができません。私が(奉仕の)仕事を始める以前には、愛も信仰も神への信頼も祈りも犠牲精神も私の中にありました。主の呼びかけに忠実に従う中で、私は何か間違いをしでかしたのでしょうか? 主から与えられた奉仕の仕事に、私は疑いを持ってはいません。その仕事は私個人のものではなく、神ご自身のものであると確信しています」

●1985年(マザー75歳)……アルバート・ヒュアート神父への告白
「私がシスターや人々に神や神の仕事について口を開くとき、その人たちに光と喜びと勇気をもたらすことをよく理解しています。しかしその私は、光も喜びも勇気も何も得ていないのです。内面はすべて闇で、神から完全に切り離されているという感覚です」

 マザーテレサは、インドでの奉仕活動をする前は、神の愛に触れる、ある種の神秘体験をし、それで満たされ、神への信仰と奉仕への情熱をもっていたようです。ところが、奉仕を始めたとたん、上記のような「心の闇」、「神の不在の感覚」に苦しむようになったというのです。
 これは心理学的にはうつ病と診断されるのかもしれませんが、むしろキリスト教の世界でいう「魂の暗夜」とか「神の蝕」と言うべきものです。神の存在が感じられなくなり、深い孤独と闇の思いに打ちひしがれてしまう現象です。ただ、これほど長い間続いたというのは、珍しいのではないかと思います。
 こうした苦しみを背負いつつも、マザーテレサは次のように告白しています。

「もし私の痛みと苦しみが、私の暗闇と分離があなたを慰めることになるのなら、主よ(イエス様)、私をあなたの望まれるようになさってください(中略)。私はあなた自身のものです。私の魂に、あなたの心の苦しみを刻印してください。私の感情を気にしないでください。私の痛みを心にとめないでください。(中略)主よ、今だけでなく、今後永遠に私が苦しみ続けることをあなたが望まれるのなら、あとのことは心配しないでください。たとえ苦痛で弱った私の姿を見ても……。これは、すべて私の願いです。私はいかなる犠牲を払ってでも、あなたの渇きを癒して差し上げたいのです」

 このように、あくまでもイエスに対する従順な気持ち、またイエスの苦悩を自分も(こういう形で)共有するという、キリスト教徒らしい心情も一方で語っています。そこには痛々しいほどの葛藤を感じます。
 このような苦痛と共に、87歳で亡くなるまで奉仕活動を続けたその強靱な精神力には感嘆を禁じ得ません。さぞかし辛く苦しかったと思いますが、マザーテレサは見事に偉業をやり抜いたのです。
 ところで、ここで疑問に思うのは、なぜマザーテレサは、このような苦痛に見舞われなければならなかったか? ということです。奉仕活動を始める以前にしばしば訪れたらしい「神の愛」を感じられた神秘体験がその後もあれば、こうした苦悩はなかったわけです。
 いったいなぜ、神の愛が感じられなくなってしまったのでしょうか?
 マザーテレサが行った活動は、イエス(神)の意図に反していたからなのでしょうか?
 そのための罰、あるいは、そのためにイエス(神)から見捨てられてしまったのでしょうか?
 そうは思えません。マザーテレサの活動は偉業であったことは間違いないでしょう。彼女がイエス(神)の意図に反したことをしてしまったという可能性は考えられません。
 ではなぜ、あのような辛い「心の闇」、「魂の暗夜」を、長きにわたり味わなければならなかったのでしょうか?
 そのことにイエス(神)が関与していたと仮定して話を進めるなら、イエス(神)は意味があって、マザーテレサにあのような苦痛を与えたことになるでしょう。
 ならば、その意味とは、何なのでしょうか?
 もちろん、私にはわかりませんし、たぶん、誰にもわからないと思いますが、「こうではないか?」と感じたことを、次回、ご紹介させていただきたいと思います。
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