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心の治癒と魂の覚醒

        

 マザーテレサの「心の闇」②


前回、あれほど人類に奉仕活動を捧げた聖女マザーテレサが、活動前にはしばしば感じられた神の愛(神秘体験)がまったくなくなり、孤独と暗闇にうち捨てられたかのようになり、信仰を失ってしまったような告白をしていることをご紹介しました。
 今回は、それはなぜなのか、私なりに推測してみたいと思います。
 マザーテレサは、貧しい人の気持ちを理解するために、貧しい人と共にあるために、自らを貧しくして清貧に生きました。彼女の私的な所有物は、ほとんどなかったと思います。物だけではありません。彼女が私的に使うことのできる時間さえ、ほとんど持っていなかったのではないかと思います。彼女は、貧しい人たちへの奉仕、シスターたちへの指導、世界中を廻っての啓蒙活動に明け暮れていました。それ以外の時間は祈りに費やしていました。
「時は金なり」と言いますが、時間を豊かに持つということは、お金を豊かに持つのと同じくらい、ある意味では物欲的なのかもしれません。本当に物質的なものを捨てた人は、物だけでなく、自分のための時間さえも捨てるのではないでしょうか。その意味では、マザーテレサはまさに物欲のすべてを捨てたと言えるかもしれません。

 ところで、キリスト教徒というのは、いったい何をもってキリスト教徒と言うのでしょうか?
 聖書の言葉を信じる人、教会に通う人、洗礼を受けた人、それをキリスト教徒と言うのでしょうか?
 私はそうは思いません。キリスト教徒というのは、(あくまでも私の定義では)イエスのマネをする人のことをいうのです。
 では、イエスは何をしたのでしょうか?
 イエスがしたことは、無私の愛の実践、そして、人間の本質は物質ではなく、物質を超えた神性を本質に持つことを示したこと、この二つです。イエスは教えを説くために地上にやってきたというよりは、手本を示すために地上にやってきたのです。
 ですから、このようなイエスをマネて、この二つを実践する人、少なくても実践しようと努力している人こそが、本当のキリスト教徒なのです。聖書の教えに通じるとか、教会に通うとか、洗礼を受けるとか、そのようなものは、どうでもいいことなのです。キリスト教など信じていなくても、この二つのことを実践している人は「キリスト教徒」なのです。
 そしてイエスは、こうした実践を、いわゆる「上から目線」で行ったのではなく、貧しく平凡な、また社会の最下層の人々と交わりながら実践していったわけです。
 キリスト教(教会)は、イエスを神として祭り上げ、遠い存在にしていますが、それは間違いだと思います。イエスはおそらく、自分を「お兄さん!」と親しく呼んでもらうことを望んでいたと思いますし、天界にまだ存在しているならば、今なおそう望んでいると思います。
 無私の愛というものは、金持ちが贅沢な生活をしながら貧しい者にお金を与えるような、そのようなものではないと思います。もちろん、富める者が貧者に経済的な支援をすることを否定しているわけではありません。しかし、イエスの無私の愛というものは、おそらくそういうものではないでしょう。イエスの愛をひとことで表現するならば、「常に隣にいる」というものです。高い所ではなく、隣にです。そして「一瞬たりとも離れることはない」というものです。ストーカーも顔負けの、いつもべったりと隣にいて、何があっても決して離れることはない、つまり、何があろうと何をしようと、決して見捨てることはない、というものです。それがイエスの愛です。
 その人の隣にいるということは、その人と喜びも悲しみも共有するということです。幸せ一杯の人がいくら物理的に隣にいても、本当の意味で隣にいるとは言えません。本当に隣にいるとは、その人の喜びも悲しみも自分のことのように感じるということです。

 貧しい人というのは、物質的に貧しい人のことを言うのではないと、マザーテレサは言っていたと思います。彼女が誰にも省みられず、ゴミのように道端やどぶの溝に横たわっている人たちを施設に連れてきて世話をした本当の目的は、そうした物質的な貧しさから救うことではなかったのです。貧しさから救うという手段を通して「あなたは愛される価値があるんですよ」ということを伝えるのが目的でした(彼女の本にそう書いてあったと思います)。
 人がなぜ貧しくなってしまうかというと、その根底には愛の欠如があるのです。人々や社会に愛がないからです。たとえ本人の怠惰のために貧しくなってしまったとしても、そうなった理由の根源には、愛の欠如があるのだと思います。貧しい人は、物に飢え、そして愛に飢えているわけです。両方、あるいはどちらかに飢えていれば、それは「貧しい人」なのです。
 物に満たされ、愛に満たされた人が、そうした人々の「隣人」になることはできないのです。身をもってその辛さに共鳴することはできないからです。物に飢え、愛に飢えている人にとっては、物にも愛にも満たされた人など「隣人」とは思えないでしょう。
 物に飢え、愛に飢えている人こそが、隣人となり得るわけです。つまり、そういう人こそが、真のキリスト教徒になり得るのです。
 もしも、マザーテレサが、求めたらいつでも神の愛と祝福に満たされ、恍惚感に浸ることができたとしたら、貧しい人の隣人であり続けることはできなかったと思います。つまり、彼女の願いである(真の)キリスト教徒となることはできなかったのです。そうしたら彼女の「魂」は、悲しみ悔やんでいたに違いありません。真のキリスト教徒になるには、物質的に貧しくなるだけではダメなのです。愛においても貧しくならなければ。そのために、神の愛を感じる神秘体験から切り離されてしまったのではないかと思うのです。

 イエスは十字架にはり付けにされたとき、こう叫んだと言います。
「ああ、神よ、なぜ私を見捨て給うのですか?」
 この言葉は、まさにイエス自身さえも、神への信仰を失っていたことを示しているのではないでしょうか。本当に神への信仰があれば、こんなことは口にしないはずです。
 つまり、イエスもまた、神の愛に飢えていたのではないでしょうか?
 しかし、その後、イエスはこう言っています。
「すべてを神にゆだねます」
 マザーテレサもまた、この2つの言葉と内容的にはまったく同じことを言っていることは、前回、見た通りです。
 イエスは、こうした言葉を口にして、人類に手本を示していたのです。「これが本当の信仰なのである、これが人間の生き方なのである」という手本です。
 つまり、神から見捨てられてしまったという思いは、一見すると信仰を失ったように感じられますが、実は反対なのです。逆説的ですが、それこそが本当の信仰なのです。ただし「すべてを神にゆだねます」という気持ちが伴っていることが条件です。本当の信仰者とは、神の愛に飢えながら、神に自分のすべてをゆだねる人のことを言うのではないでしょうか。
 しかし実際には、イエスも神も、一瞬たりとも隣から離れたことはなく、ずっと愛し続けているのだと思います。神の僕として選ばれた人は、その天命をまっとうするために、あえて愛の孤独の闇へと導かれていくのではないでしょうか。イエスも神も、愛するがゆえに、あえて愛していることを告げないのです。

 この世で苦悩する人というのは、要するに、信仰を失った人たちです。神の愛が感じられない、神が信じられない人たちです。だから苦悩しているのです。そういう人たちの隣人になるには、つまり、そうしてイエスをマネて真のキリスト教徒になるには、神への信仰を失い、神の愛を感じられなくなり、その孤独と闇の痛みを共有しなければならないのでしょう。愛に満たされて「のほほん」としているような人は、苦悩している人の隣人になることも、「キリスト教徒」になることもできないのです。実際、愛を味わって満たされている人よりも、愛の欠乏に苦悩している人の方が、案外、周囲に愛を放っていることが多いものです。
 以上のような理由から、マザーテレサはまさに、真の信仰を生き抜いた、比類なきキリスト教徒であったと、私は考えています。彼女は一瞬たりともとぎれることのない愛で、実はイエスから、神から、愛されていたのです。

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神への愛 | コメント:16 | トラックバック:0 |
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コメント

少し読ませていただきました。
私も愛情とは尊いものと思います。
たとえマザーテレサが神を信じられなくなったとしても、神は彼女を愛したのではないでしょうか。
イエスが神を否定しようとも、神は彼を愛したのではないでしょうか。
必要なこととは、愛情を学び、愛情を返していくことではないでしょうか。
神が望んだことを想像することではないでしょうか。
神が愛ある存在なら、人々のために何をするかを考えることなのではないか、と思いました。
人は迷い戸惑うものと思います。
葛藤をしながら愛情を学んでいくのではないかと思います。
きっと誰もが迷い戸惑うけれど、その末の先で愛情を知り、だからそれを返して生きたいと願うのだと思います。
日頃周囲のあらゆる方々からいただく、些細な愛情を感じることができるように成れるように、生きて行けたらと思います。
2011-12-11 Sun 01:57 | URL | [ 編集 ]
斉藤啓一です。コメント、ありがとうございます。
おっしゃるように、神は常に私たちに愛を向けているのだと思います。ただ、その愛を私たちが感じられない、また、その「愛」は私たちの感覚ではとても厳しいものであるがために、愛と思えない、ということもあるのでしょう。
いずれにしろ、私たちは神のマネをできるだけするように努力して、人を愛していくことが大切なのではないかと思います。
2011-12-11 Sun 09:46 | URL | [ 編集 ]
私はマザー・テレサが彼女の事業を開始した直後から、心の中が闇に包まれたと言う記事に興味を持ちました。実はどんな善行為もマタイ6章1-6節と同16-18節に警告されている様に、他人から賞賛を受けると、神からの報いを受ける事が出来ないのです。この聖書の箇所を宣教師は軽く見ています。だからマザーは事業開始直後から霊的苦悩に落ちたのです。次にこの闇はマザーが神秘体験をした時よりもよりイエス・キリストが近くに臨在していた証拠と解釈出来ます。何故なら、人の意識は対象との距離が或る程度離れていないと意識に昇らないのです。全く一体化すると対象は意識されません。これは丁度地球は我々と密着しているので地球自体を見る事は出来ないのと同じです。最後にマザーの心の闇は心理学の逆転移ではないでしょうか?これは治療者に患者の心の状態が移動する事を言います。患者の苦しみが治療者に移るのです。インドの貧民の心がマザーに転移して心の闇を感じさせたのです。
2012-01-01 Sun 12:09 | URL | 細田 信一 [ 編集 ]
斉藤啓一です。細田信一さま、非常に興味深く含蓄の深い解釈のいくつかをご紹介いただき、ありがとうございました。
真実はもちろん、誰にもわからないのでしょうが、私個人としては、二番目の解釈がなんとなくしっくりと感じられました。
2012-01-01 Sun 12:34 | URL | [ 編集 ]
元の言葉は「エリ エリ レマ サバクタニ」ですが、この箇所はマタイの福音書とともに、詩篇22篇にあります。イエス様が父なる神への信仰を失っていたという考えは懐疑的です。なぜなら、この詩篇22篇の最後は神への絶対的な信頼と賛美に満ちあふれているからです。
http://www1.bbiq.jp/hakozaki-cec/PreachFile/2009y/090322.htm

処刑の直前、イエスは詩篇22篇を引用し、旧約の預言が成就されたことを述べたのだ、とするほうがより自然な解釈とされています。
2012-06-02 Sat 14:15 | URL | えっちゃん [ 編集 ]
斉藤啓一です。えっちゃんさん、コメントありがとうございました。
私も、イエスほどの方が信仰を失ったとは思いません。あの言葉は、私たちに対する教えの一環であると思います。単なる個人的な嘆きとは思えません。旧約の預言が成就されたことを示したのだという見解の可能性もあると思います。
勉強になるご意見とサイトをご紹介くださり、ありがとうございました。

2012-06-02 Sat 17:54 | URL | [ 編集 ]
 題 : マザー・テレサさんのこと

 マザー・テレサさんが、初めて、インドの社会に入って行っ
た時は大変でした。
 彼女にあったのは自分の志(こころざし)だけ。
 彼女を受け入れたのは、インドの「ヒンズー教の方たち」で
した。
 彼女の活動のための家を貸し、彼女の活動のための手助けの
人達が駆け付けました。
 元々、マザー・テレサさんのやりたい志の事は「ヒンズー教
の方達はしていました」。
 だから、正確に言えば、「マザー・テレサさんが、志を同じ
くする人たちの中に入って行った」なのです。
 ヒンズー教の方達は、多神教。
 イエス・キリストやマリアもヒンズー教の神々の一人として
いる宗教。
 この様な宗教教義の面からも、マザー・テレサさんもスムー
ズに受け入れられました。
 一神教のキリスト教には「異教徒を殺せ」の教義がある様に、
異教徒を忌む宗教ですので、この様なスムーズな受け入れとは
ならなかったでしょう。
 マザー・テレサさんは、最初、キリスト教からは、まったく、
孤立無援。
 手助けはヒンズー教の方達だけでした。
 彼女が、アメリカの映画の題材にされ、注目されるようにな
って後、キリスト教が、今までは何も彼女に注目せず、手助け
もしなかったが、世界の注目を集める様になってから、彼女と
行動をする様になった。
 今、キリスト教は、彼女を「広告塔」にしていますが、そし
て、ヒンズー教の方達は黙っていますが、真実は、この様な経過
をたどった。
 マザー・テレサさんが「ノーベル平和賞」を受賞しましたが、
同時に「ヒンズー教の方達も受賞すべき」でした。
 ノーベル賞選考委員はキリスト教徒だけ、その点、「お手盛
り」となった。
 インド政府は、彼女が亡くなられた時、国葬として大きな葬儀
を行ないましたが、キリスト教組織にも、この様な、大きな度量
が欲しいところです。
 また、彼女のキリスト教は、ビンズ‐教との共同生活から宗教的
にも影響され、彼女独特のキリスト教となっている。ヒンズー・
キリスト教とか、テレサ・キリスト教と呼ぶべき形となっている。
参考URL: http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009 /
  URL: http://32983602.at.webry.info/
2012-08-06 Mon 00:36 | URL | 今田 遥 [ 編集 ]
斉藤啓一です。今田さん、コメントありがとうございました。
マザーテレサには、そういう背景があったのですね。知りませんでした。ヒンズー教徒の人が最初に支持してくれて、キリスト教会からは孤立無援だったとは!
あらためて、彼女の苦労と偉大さがわかりました。
2012-08-06 Mon 09:04 | URL | [ 編集 ]
今田遥を名乗るコメント主は、スパムコメントで有名な
人物です。以前警告した通り警察のサイバー課に連絡しましたので、今田遥さん、これ以上皆さんに迷惑をかけるのをやめて下さい。
2012-08-28 Tue 00:30 | URL | コメントについて [ 編集 ]
「マザー・テレサの心の闇」について、ネット上でいくつかの見解を読んできましたが、斎藤啓一様のご意見が、私にとって最も納得できるものでした。とてつもない霊的な渇望を内面に抱えながら、何十年もの間貧しい人々のためにあれだけの偉業を成し遂げたマザーの偉大さは、私などには想像にも及びません。
マザーが、本当の意味で苦しむ人々の隣にいるために、自らも心の闇を抱える人生を生き抜いたという斎藤様の見解もまた、苦しむ人々に対する深い理解と愛情に裏打ちされたものであると思います。
2014-05-20 Tue 23:44 | URL | りっくん [ 編集 ]
斉藤啓一です。りっくんさん、コメントありがとうございました。意見を共有できてとても嬉しく思います。この問題は奥が深いですね。いま天国にいるであろうマザーテレサは、いったい生前のこの心の闇をどのように思っていらっしゃるのか、知りたいものです。きっと、私たちの目を開かせるような、素敵な言葉を伝えてくれるのではないかと思っています。
りっくんさんも、深くこの問題を考えておられるのですね。感心いたしました。コメント、ありがたく拝見させていただきました。
2014-05-21 Wed 23:37 | URL | [ 編集 ]
マザー・テレサが、もし天国から私たちに何かを伝えてくださるとしたら、「この世を生きることの目的は修行であるから、人間はあえて限られた意識、感覚、理解能力しか持たない。だから、愛に飢えているように感じられて苦しむかもしれないが、あの世(天国)から見れば決してそうではなく、あなたがいつも神に愛されてたことは、あの世に行ったときに明らかになる。だから、つらくても寿命をまっとうするまで、くじけないで」とおっしゃるかもしれませんね。
「本当の信仰者とは、神の愛に飢えながら、神に自分のすべてをゆだねる人のことを言うのではないでしょうか。」という斎藤様のご意見に全面的に賛成します。それにしても、ものすごい精神力が要求されるであろうと思います。ある意味、人間の卒業試験みたいなものではないでしょうか?
斎藤様の英知と慈愛に溢れた文章を読ませていただくのを楽しみにしています。
2014-05-29 Thu 01:04 | URL | りっくん [ 編集 ]
斉藤啓一です。りっくんさん、再びコメントありがとうございました。含蓄の深いご意見、こちらこそとても参考になります。今後とも、よろしくお願い致します。
2014-05-29 Thu 22:36 | URL | [ 編集 ]
キリストは神ではなく人間じゃなかったですか?
キリストや宗教にすがらなくても人助けはできるんじゃないかと私は思います。
宗教って人間を救ってきたのでしょうか?
いつの時代も争いのもとになっているものではないですか?
ないほうが平和なんじゃないかなといつも思ってしまいます。
神様はテレサにそういうことを伝えたかったんじゃないかなと思いました。
私の勝手な考えですが。
2017-03-23 Thu 23:57 | URL | K [ 編集 ]
あ、すみません、キリストは神じゃないって書かれてますね。
失礼しました。
2017-03-24 Fri 00:14 | URL | K [ 編集 ]
斉藤啓一です。Kさん、コメントありがとうございました。宗教の是非は難しいですね。心の平安に貢献する面もありますが、戦争の火種にもなります。しかし、宗教があった方が平和であったか、なかった方が平和であったかと問われるなら、Kさんのおっしゃるように、私もなかった方が平和だったように思います。
2017-03-24 Fri 13:27 | URL | [ 編集 ]

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