世俗を捨てて世俗に生きる ①2011-12-13 Tue 22:40
少なくても初期の仏教では、解脱をするには出家しなければなりませんでした。 しかし、当時の出家と、日本の出家というのは、少し様子が違うことを説明した方がいいでしょう。 日本の場合、出家というと、寺に住み込みで修行生活を送ることを意味し、生活の糧は托鉢によるものでした。もちろん今では檀家の寄付や葬式などで収入を得ていて、平均的なサラリーマンより高収入で豊かな生活をしているお坊さんも少なくないようですが、とにかく、それが日本の出家です。 しかし、むかしのインドの出家というのは、それこそ裸同然で外に飛び出し、住む場所もなかったわけです。ただ、そういう修行者が当時のインドにはたくさんいて、修行者たちの衣食住の世話をするのが在家の人々の社会的慣習のようになっていたようですから、贅沢はできないにしても、衣食住に困ることはなかったようです。 そうして、衣食住を得るための労働を放棄し、そのための時間を修行に当てるのが出家の目的だったわけです。また、労働に伴うさまざまな煩いや、煩悩をそそることから身を遠ざけるという目的もあったのでしょう。 つまり、出家の目的は二つあるわけです。まとめますと、 1.労働する時間を修行に使う。つまり、修行に専念する。 2.煩悩を煽るような事柄から身を遠ざける。 ですから、たとえ見かけは「出家」して、たとえば寺に住み込みで修行をしたとしても、いい加減な修行をしていたり、頭の中は世俗的な事柄でいっぱいになっていたら、それは本当の意味で出家したことにはならないわけです。 逆に言うと、修行に専念する時間を豊かに持つことができ、煩悩を煽るような事柄から身を遠ざけることができるならば、出家する必要などない、ということになります。というより、それこそが本当の「出家」ということになるわけです。 私たちは、仕事を辞めて山奥の寺にこもることはできません。また、そうしたからといって、必ずしも出家したことにはならないのです。出家とは、要するに心の問題なのではないでしょうか。生活のすべてを修行だけに費やし、俗世の煩悩から解放されていることこそが、本当の「出家」であると思うのです。 もちろん、私たちは仕事をしなければなりませんので、生活のすべてを修行に費やすことはできません。それどころか、ほとんどの人は仕事で大忙しですから、修行に費やすことができる時間など、微々たるものでしょう。 しかし、修行といっても、座禅や瞑想などが修行ではないわけです。仕事を修行にしてしまえばいいわけです。では、どうすれば仕事を修行にすることができるのでしょうか? 座禅や瞑想の修行といっても、結局は、次の3つの目的を成就するためにあるのです。 1.精神集中力をつける 2.実在(神、仏、宇宙法則、etc)とのつながりを深める 3.何が起ころうと心乱さず平静に超然としていられる心を確立する 以上の3つを身につけるのが、修行の目的なのです。 ならば、仕事に集中すればいいのではないでしょうか。そうすれば、集中力が鍛えられます。また、どのような仕事をするにも、「これは神に喜んでいただくためにやるのだ」と神を念じながらやればいいのではないでしょうか。そうすれば、神とつながりを深めることができます。そして、どんなことが起ころうと、平静な態度、超然とした態度をとるように努めるのです。 見かけだけ出家して、それこそ衣食住の心配もなく、静かで居心地のいい場所で瞑想などしているよりも、世俗において、生活するために必死で働き、ストレスに満ちた仕事をこなす方が、よほど鍛えられ、修行になるのではないでしょうか。 もちろん、それは容易ではないし、楽なことではないでしょう。しかし、すべては心構えひとつではないかと思うのです。 スポンサーサイト
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コメント
仏教やヨーガでは、三昧にとどまり、智慧を得るのが修行の大きな目的ですから、何年かの期間は集中的に瞑想修行しないと悟りを得るのは難しいと思います。
斉藤先生の仰るような心構えで生活していると、求道心が本物なら、自然と修行に集中できる環境になるという話も聞きますね。 2011-12-17 Sat 20:47 | URL | kubo [ 編集 ]
斉藤啓一です。kuboさん、コメントありがとうございました。
確かに難しいでしょうね。しかし、現実としてふつうの人が何年も瞑想修行に専念することは無理だと思います。ですから、俗世でがんばるより他に選択肢がない以上、「難しい」と思うとなおさらブレーキがかかって難しくなってしまいますので、「難しい」とは思わず、ただひたすら進んでいこうではありませんか。 実際、俗世で修行して覚醒した人もいるようですし。 2011-12-17 Sat 21:30 | URL | [ 編集 ]
おはようございます、斉藤先生。質問があります。瞑想や観想などの修行をせず、覚醒した人の実例はありますか?
2011-12-18 Sun 08:28 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ワタナベさん、コメントありがとうございました。
瞑想などの修行をせず覚醒した人はいるかどうかとのご質問ですが、古い人なのでどこまで本当かどうかわかりませんが、中国の禅を確立したひとりに慧能という人がいて、この人は少年時代、寺の小間使いみたいな雑用をしていたらしいのですが、あるとき町を歩いていたら家の中からお経を唱える声が聞こえて、それだけで悟りを開いてしまったというのです。座禅などはほとんど行っていなかったようです。 あくまでも言い伝えですからどこまで事実かわかりませんが、もし事実なら、この人は瞑想修行をせずに覚醒したと言えるかもしれません。 他には、まったく瞑想修行をせずに覚醒した人というのは、私は知りません。 2011-12-18 Sun 10:34 | URL | [ 編集 ]
ラマナ マハルシは突如、悟りを開いたという話ですね。他にも急に悟りを開いたと本を書いている人はいますが、本物かどうかもわかりません。
覚醒というのも、クンダリニーの覚醒のことか、意識の広がりのことか、解脱か、それとも単なる魔境か… やはり自分で達成しなければ意味不明です。 結局は斉藤先生の仰るような人格的な向上が目安というか大切なことかもしれません。 神秘体験をしてもオウムのようになっては意味がないので。 2011-12-18 Sun 11:40 | URL | kubo [ 編集 ]
斉藤啓一です。kuboさん、コメントありがとうございます。
人格向上というと陳腐に思われがちですが、やはり、これがもっとも大切ではないかと思います。人格向上をおろそかにして神秘的な修行ばかりすると、おっしゃるように、オウムみたいになってしまうのだと思います。 また、人格向上に努めないと、高い次元からの霊的存在からの援助が受けられないと思います。 2011-12-18 Sun 11:45 | URL | [ 編集 ]
慈悲や利他の気持ち、自己愛のない平等心。
これを極限まで高めるのが修行の目的です。 凡人が神秘的な力に頼らずにこのような心の変容を達成するのは至難の業なので瞑想が有効になるわけなんでしょうが、それは単なる手段なのかもしれませんね。 例えば、神秘体験を失ったマザーテレサより、単にクンダリニーが覚醒した人のほうが悟りに近いというのはありえないですよね。 自分の悟りよりも他者を優先するほどの人格を達成できれば、それで逆に遠い将来の悟りは約束されるような気がしています。 2011-12-18 Sun 13:37 | URL | kubo [ 編集 ]
kuboさん初めまして(^^)
斉藤先生こんにちは、オクです。ここで斉藤先生に一つお聞きしたいことがあるのですが、密教というのは基本的に在家を意味するのではないでしょうか? その意味で斉藤先生の言われたことというのは実は非常に神秘主義的(密教的)だと僕は思うのですが。さていかがでしょうか。。。。
斉藤啓一です。okuさん、ご質問ありがとうございました。
okuさんがいわれる「密教」とは、仏教の「密教」のことでしょうか? 私も詳しいことはわかりませんが、密教というのはもともとは魔術的であり現世利益を無視しないので、その意味では在家的と言えるかもしれません。ただ、密教の本質は身口意の三業によって仏のマネをするということです。その意味では、在家も出家もあまり関係はないのかもしれませんね。密教を「神秘主義」と定義するなら、okuさんのおっしゃる通りだと思います。 2011-12-18 Sun 17:01 | URL | [ 編集 ]
斉藤先生、kuboさん、教えていただいてありがとうございます。
人格を磨くことこそ、修行の本義なのでしょうね、人の痛みの分かる人間でありたいですね。 2011-12-18 Sun 19:41 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
okuさん、はじめまして!
仏教の密教は、その目的は、衆生を救う為に迅速に無上の悟りを得ようというものですから、在家でも可能ですが、やはり出家のほうが本格的であると思います。 他の宗教にもあると思いますが、密教は隠されているだけあってよくわかりませんね。 2011-12-19 Mon 15:32 | URL | kubo [ 編集 ]
何かで聞いたことによると、密教は非現実を実態化させることで現実とは幻想であることを悟らせ、現実への執着を切ることにあるのだそうです。
執着を切った上でないと神仏に帰依できないということでしょうね。 2011-12-19 Mon 17:24 | URL | メン [ 編集 ]
みなさんこんにちは(笑)
すみません、僕は仏教の密教を小乗、大乗に対する「金剛乗」として把握しております。この小乗でもなければ大乗でもない「金剛乗」という言葉に僕は「救済」に関するヒントを感じました。。。 |
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