心の治癒と魂の覚醒

        

 世俗を捨てて世俗に生きる ②


 前回は、出家の目的を2つあげ、その目的さえ達成すれば、世俗であっても、実質的に出家したのと同じだという趣旨のことを述べました。
 今回は、出家の目的の2番目を取り上げたいと思います。すなわち、「煩悩を煽るような事柄から身を遠ざける」ということです。
 言うまでもありませんが、たとえ出家して山奥の寺で暮らしたとしても、煩悩を煽るような俗っぽいことで頭がいっぱいであれば、その人は本当に出家した(つまり世俗を超えた)ことにはなりません。ただ肉体が山奥へ移動しただけであり、実質的には世俗にまみれていることになります。
 しかし、肉体は世俗に存在していたとしても、頭の中が世俗を超えた聖浄な思いで占められていたら、その人は実質的に世俗に住んでいないことになると思います。
 では、具体的に、「煩悩を煽るようなこと」とは、どのようなことでしょうか?
 人により異なると思いますが、基本的には2つあると思います。
 ひとつは、「心を乱すようなもの」です。怒りや悲しみ、嫉妬や憎悪といったものです。心が乱されるのは、その根底に煩悩があるからです。
 もうひとつは、「心を乱すようなもの」と関連しますが、「依存を招くもの」です。つまり「それがないと苦痛を感じてしまうもの」と言い換えてもいいでしょう。一般にそれは、快楽として感じられるものです。食べる快楽、性の快楽、富や名誉の快楽、遊びの快楽などです。私たちは、こうした快楽を得ると、さらにもっと欲しくなり、ついには、それなしではいられなくなり、いわば中毒となって、それがなくなったら激しい苦しみを味わうことになります。それもまた、煩悩によるものです。
 ですから、たとえおいしいものを食べても、性の営みをしても、大金や名声を手にしても、遊んでも、それに依存せず、たとえそれが失われても心が乱されないのであれば、何の問題もないのです。
 もちろん、それは簡単なことではありません。生臭坊主などは、「わしはとらわれの心がないからいいのじゃ」などとうそぶきながら、美食や酒を腹一杯詰め込んでいたりしますが、このように人や自分をごまかしてはまずいわけです。
 実際、「たとえ失われても心が乱されない」というのであれば、もともとそのものに対する執着がないということです。ですから、ことさら積極的にそういう快楽を得ようとは思わないはずです。

 ところで、煩悩のなかでも、もっとも強いものは、おそらく「愛欲」ではないかと思います。性欲だけでなく、たとえば配偶者や子供、親や兄弟などに対する愛着の念です。要するに、家族に対する愛着です。これを断つことは非常に難しいと思います。
 しかし、解脱するためには、たとえ少しずつでも、家族への愛着さえも断ち切っていく必要があると思います。といっても、なにも家族と離縁するとか、冷たくするという意味ではありません。愛は持つべきです。しかし、執着は断ち切らなければならないのです。
 そのためのひとつの心構えとしては、家族を家族と思わないことです。言い換えれば、自分の所有物とは思わず、他人なのだと思うことです。私たちは親や配偶者、子供などに対しては、どこかで「自分のもの」という意識があり、そのために、自分の好きなように相手を支配しようとしたり、言うことをきかせようとしたりします。そして、相手にそれを当然のことのように期待します。他人だったらそんなことはしないでしょう。そうして、相手が自分の期待に応えてくれないと、怒ったり失望したりするわけです。こうなるのは、煩悩にまみれているからです。
 したがって、親や配偶者は、単なる「生活協同者」だと思うことです。子供は、よその子供を一時的に預かっているだけだと思うことです。
 実際、家族というもの(概念)は、人間が作りだしたある種の「妄想」に過ぎません。煩悩を越えた霊的なレベルでは、世間でいうところの「家族」なるものは存在していないからです。魂のレベルでは、すべて一個の独立した存在です。魂は魂を生むことはないので「親子」の関係はなく、魂には結婚ということもないので「配偶者」もいません。それが真実なのです。ただ縁があって一緒に暮らしている、それだけのことなのです。
 もちろん愛情はあるかもしれませんが、もしその「愛情」から「所有欲」を取り除いたら、たぶん、残るのは家族の情というより、一個の魂への愛でしょう。
 こういう考え方は一見すると冷たく感じられるかもしれませんが、それは「真の愛」と単なる「所有欲」を混同しているからそう感じるのです。
 家族というのは、たまたま縁があって、「家庭」と世間が呼んでいるところの「寄宿舎」に、いわば「相部屋」しているだけだと思うことです。実際、霊的な真実から言えば、その通りなのですから。そう思えば、家族に対して過剰な期待をすることもなく、執着が薄れていくでしょう。
 このように、世俗で家庭を持っていたとしても、家族を他人だと思い、ただ同じ寄宿舎に住んでいるだけだと思えば、精神的には出家した状態にかなり近くなるはずです。
 そして、仕事をするにしても、それは「托鉢」をしているようなものだと考え、いかなるものにも執着せず、いかなるものにも期待せず、「自分のもの」という意識を捨て、精神的に「無所有」になるようにするのです。
 そうできれば、世俗に住んでいながら、世俗を捨てたことになるのではないでしょうか。もちろん、仕事は一生懸命にやり、家族としての責任は果たし、社会をよくし、困っている人がいたら手をさしのべてあげるべきです。しかし精神的には、いっさいの執着をもたず、世俗的な事柄にいかなる期待も持たずに生きることです。そうすれば、何がどうなろうと心を乱すこともなくなるでしょう。心のなかでは世間を捨てて生きるのです。
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コメント

 なるほど、外から来る苦悩を気にしなくなるだけではなく、自分の好きなものが失われても気にならなくならないといけないのですね。
 自分の欲求が満たされない原因、状況もたいがいは外から来る事ですから、この場合、心乱されるあらゆる状況を「こばむ」ことがなくなればいいのですね?
 
 それにしても、先生のブログ、まとめて一冊の本にしませんか?出れば買います。これって、「教え」に依存してますか?
2011-12-19 Mon 08:16 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ワタナベさん、コメントありがとうございます。本になったら買って下さい(笑)。
ところで、教えに依存しているかという言葉、鋭いですね。実は今回のブログで「依存のなかには宗教への依存もある」ということを書いたのですよ。でも、ちょっと話が長くなりそうだったので、カットしたのです。宗教や教えに対する依存はあると思います。これについては別の機会に書かせていただきたいと思います。
今後とも、よろしくお願い致します。
2011-12-19 Mon 08:45 | URL | [ 編集 ]
こんにちは。

宗教への依存、愛への依存(世界で言えば生命の樹)は、難しい問題ですねえ。

僕も斉藤先生のブログの本を買いたいです^-^
2011-12-21 Wed 13:22 | URL | ローキック [ 編集 ]
斉藤啓一です。ローキックさん、コメントありがとうございました。
はい。宗教や愛への依存というのは、それが一見すると依存とは思えない点で、難しいと思いますし、ある種の盲点ともいうべきものだと思います。真剣に考えるべきテーマです。
あっ、ローキックさんも本が出たら買っていただけるんですね。嬉しいです(笑)。
2011-12-22 Thu 20:22 | URL | [ 編集 ]
 もしブログ本出るなら、図書室のほうの過去エッセイもコラムとして添えてください。「しゃぼん玉」の話、感動します。
2011-12-23 Fri 08:47 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ワタナベさん、コメントありがとうございます。
はい。もし内容的に合致するものであれば、ホームページの方の記事も載せたいと思います。
よろしくお願い致します。
2011-12-23 Fri 09:23 | URL | [ 編集 ]

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