心の治癒と魂の覚醒

        

 クリスマス

 本日はクリスマスイブ、明日はクリスマスです。皆さんは、いかがお過ごしでしょうか?
 ちなみに私の方は、いつも仕事などに追われていて、毎年のことながら、特別なことは何もやりません(できません)。そのために、ちょっとひがんで申し上げますが(笑)、クリスマスというのは、商魂たくましい人たちの宣伝や社会の雰囲気に流されてプレゼントの交換をしたり、まるで食べるのが義務であるかのようにケーキを食べたり、パーティや宴会をして馬鹿騒ぎをする日ではないのです。クリスマスは「お祭り」の日ではないのです。
 イエスは、この世の悲惨な人々を、愛によって救いに導くために来ました。そして自分と同じように、私たちの誰もが、悲惨な人がいたら、いえ、悲惨な人を積極的に捜し出し、力になってあげる生き方を教えるために来たのです。
 愛に国境も身分の差も、宗教の違いもありません。イエスは「キリスト教」を説いたのではありません。イエスは愛を説いた、それだけのことです。今日のキリスト教というのは、その後の弟子や関係のない人たちが余計な教義をくっつけて生まれたもので、極論を言えば、イエスとは何の関係もないのです。イエスの教えは人類普遍の教えであり、クリスチャンだとかそうではないとか、そういう問題ではありません。愛と慈悲に生きる人は、その人が仏教徒だろうとイスラム教徒だろうと無神論者だろうと、(真の意味における)クリスチャンなのです。
 クリスマスの日にささやかなパーティや宴会をすることが悪いというつもりはありません。しかし、パーティや宴会など、しょっちゅうやっているではありませんか。むしろ、クリスマスの日にこそ、この地上で悲しみや苦しみに打ちひしがれている人に気持ちを向けるべきだと思うのです。
 全世界の8割は貧しい人たちです。一日に2万人以上もの子供が、飢えと病気で死んでいます。今日のクリスマスイブと明日のクリスマスの2日だけで、4万人の子供が死ぬことになるでしょう。この子供たちは、ケーキなど食べたことがないでしょう。ケーキの味も知らずに死んでいくのです。骨と皮だけになりながら。
 また、生きるために、学校にも行けず、一日中ゴミをあさらなければならない子供たちもいます。寒い夜を家の軒下や道端で過ごさなければならない浮浪児たちもたくさんいます。
 日本はどうでしょうか。毎年、児童相談所に報告があるだけで、4万4千件もの虐待が行われています。叩かれ、蹴られ、タバコの火を手足に押しつけられ、暴言を吐かれ、食べ物を与えられず、空腹のあまりゴミを食べて病気になったりするわけです。世の中で一番自分を愛してくれるはずの、自分を大切にしてくれるはずの親から苦しみを与えられているのです。そうして体や心に深い傷を負っている子供がたくさんいるのです。最悪の場合、殺されているのです。何の罪もない子供たちが、本来なら愛らしい無邪気な笑いを浮かべているはずの子供たちが、たくさんの涙を流し、悲痛な叫び声をあげているのです。そしてついには叫び声も出せないほどおかしくなっているのです。
 また、年間3万人以上の人たちが自殺しています。これは遺書などが見つかりはっきりと自殺とわかった数だけであり、実際にはもっと多いと言われています。そして、自殺未遂の数は、その十倍以上と言われています。一日に換算すると、80人もの人が自ら命を断ち、800人以上が自殺未遂をしていることになります。今日と明日の2日間で、およそ160人が自殺し、1600人が自殺未遂をすることになります。そして、親に自殺されて悲嘆に暮れる子供たちや家族が残されるのです。特に父親が自殺の場合、経済的にも破綻して学校を中途退学しなければならなくなったりします。心の傷に加えて生活苦が乗りかかってくるのです。
 震災で家も家族も失った人たちもいます。子供を失った親もたくさんいます。
 肉体や心の病で入院している人もたくさんいます。一晩中、痛い、苦しいとうめきながら過ごしている人がたくさんいます。貧しくてクリスマスケーキも食べられない人もたくさんいます。「メリークリスマス!」などと誰からも声をかけてもらえず孤独にひとり生きている人もたくさんいます。そうして誰にも知られないまま孤独に亡くなっていく人もたくさんいます。障害をもっているため外出できず、寂しく家にいなければならない人もたくさんいます。人々から嫌悪の視線を向けられながら、厳寒の夜に公園のベンチや地下街の片隅で眠らなければならないホームレスの人たちもたくさんいます。
 こういう人たちが、私たちのすぐ近くにたくさんいるのです。
 それなのに、あたたかい部屋で腹を壊すほど飲んだり食べたりし、馬鹿騒ぎをすることなど、どうしてできるでしょうか?
 もちろん、飲食やクリスマス商品を提供することで生活の糧を得ている人がいますから、そうしたことを否定するつもりはありません。パーティをしたり飲食したりするのはけっこうだと思います。
 しかし、ただそれだけならば、あまりにも人間としてレベルが低すぎるのではないでしょうか。私たちが浮かれ騒いでいる姿を、(そういうことがしたくでもできない)悲惨な人々が見たら、いったいどう感じるでしょうか?
 だから、クリスマスを祝うのはけっこうですが、世の中にはクリスマスを楽しく祝うことができない人もたくさんいるのだという気持ちを忘れず、むしろこのクリスマスの日だからこそ、そういう人たちのために祈ったり、わずかでもいいから何らかの援助をしてあげたり、世の中を少しでもよい方向に変えていくような行いや活動をしたり、あるいは今後そういう生き方をする人間になると誓ったりすることが大切であると思うのです。
 むかしから、クリスマスの日になると、私はホームページなどでこうしたことを書いてきました。そうして、せっかく楽しく浮かれている雰囲気に水をさすようなことをして、嫌われ者になっているような気がします(笑)。
 
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コメント

クリスマスは元来、冬至を無事乗り越えた事を祝う「お祭り」の名残で、
イエスの誕生とは何の関係もありませんよ。
(西暦がイエスの生誕を起点としているのに、1月1日が誕生日じゃない事でも解ると思いますが)
イエスの誕生日は解っていませんが、一説によると10月頃とも言われています。

いずれにしろ、太陽エネルギーが最も弱くなる冬至を乗り越えて、
生き残った事をお祝いする祭ですので、
パーティーや宴会でばか騒ぎするのが本来的な行事なのです。
2011-12-24 Sat 12:45 | URL | [ 編集 ]
斉藤啓一です。
歴史的な事実は関係ありません。問題は現在、クリスマスというものが、イエスキリストと結びつけられて祝われているということです。大半の人はクリスマスをイエスの誕生日だと思っているでしょう。ブログではそこを指摘したのであり、クリスマスが本来はお祭りであり、イエスとは関係ないのだと一般的に認知されているのであれば、こんなブログは書きません。
2011-12-24 Sat 13:58 | URL | [ 編集 ]
斉藤さんが、マザーテレサの記事を書かれたことが印象にあります。
私のような凡人は普段はふつーに恵まれて時に怠惰だったり自由に生きています。
クリスマスという世界に広く共通する節目くらい、静かに祈る時間を持っても良いですよね。
素敵なご提案だと思います。
2011-12-24 Sat 18:21 | URL | メン [ 編集 ]
斉藤啓一です。メンさん、ありがとうございました。
2011-12-24 Sat 19:46 | URL | [ 編集 ]
素晴らしい記事ですね。
大変な時は苦しむ衆生を思い忍耐し、安楽な時は苦しむ衆生に少しでも手を差し伸べるような生き方をしなければいけないと思っています。
僕は苦しいときには神頼みして、安楽な時は輪廻の中のささやかな快楽に溺れるような生き方ですから。
2011-12-24 Sat 22:15 | URL | kubo [ 編集 ]
斉藤啓一です。kuboさん、コメントありがとうございました。
2011-12-24 Sat 22:30 | URL | [ 編集 ]
>歴史的な事実は関係ありません。
>問題は現在、クリスマスというものが、イエスキリストと結びつけられて祝われているということです。

そんな事の方がよほど「問題ではない」でしょう。
何より冬至と言うには歴史的事実ではなく、物理的事実であり、
それを乗り越えた事を祝うのは、自然に根差した素朴な文化風習です。

現実として、ほとんどの日本人もイエスの誕生日だと認識はしていても、
それを祝う為にはしゃいでいる訳ではありませんし、
欧米でも、個別の宗教に則った挨拶は良くないと言う事で、
昨今は「メリークリスマス」とは言わずに「ハッピーホリデー」に言い換えられていますが、
祝う事、祝福する事は、祈る事以上に自分や他人を思いやる尊い事なのです。

それを「イエスの誕生日」にかこつけようが、理由は何であろうと、そんな事は本質ではなく、何の問題もないのです。

「これは不幸だ、哀れむべきだ」と不当な差別主義で優劣をつけず、
ただ素直に自然の有様を受け入れ、どんな状態であろうと、冬至を生き延びた事を祝福し称え合う。
それで良いのです。
2011-12-27 Tue 16:01 | URL | [ 編集 ]
斉藤啓一です。上記のコメントに対する私の考えを述べさせていただきます。
冬至は物理的事実ですが、それを乗り越えた事を祝うようになったのは、歴史的事実です。科学文明が発達していなかった時代は、確かにもっとも暗い日を乗り越えたことを祝うのは理にかなっているといえるでしょう。しかし、冬至が何の脅威でもなくなった現在ではその必要性はどこにもありません。つまり、祝う必然性はどこにもないのです。にもかかわらず、「祝う事、祝福する事は、祈る事以上に自分や他人を思いやる尊い事なのです。」とおっしゃる趣旨が私には理解できません。それよりも、恵まれない人たちに思いを寄せ、たとえわずかでも慈善的な行動をした方が、祝いたくても祝えない人たちに対する思いやりであり、尊い事ではないでしょうか。
あなたは、そんな私の考えを「不当な差別主義で優劣をつけている」と決めつけていますが、だとすると、あなたはすべての慈善行為を否定していることになりませんか? イエスは「これは不幸だ、哀れむべきだ」と思ったからこそ、人々に慈善を施したのではないでしょうか? あなたは慈善的な行為に対して、「不当な差別主義で優劣をつけている」と見る人間なのでしょうか?
だとすれば、それはもう価値観の違いであって、これ以上、あなたと議論することは無益です。
今この世界に必要なのは、時代遅れの文化風習に盲目的に従うことではなく、苦しんでいる人に対して、実際的に手をさしのべることなのです。
2011-12-27 Tue 16:33 | URL | [ 編集 ]

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