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心の治癒と魂の覚醒

        

『地球卒業者「18人」の過去生』の研究 ④


4.喜びの奉仕者(45歳女性)
 リーディングによれば、この女性は、かつて聖書に出てくるマルタであったと言います。※ まず、この女性はかつてエジプトにおいて、神官ラータ(ケイシーの過去生)と密接な関係にあり、神殿奉仕をしていました。そのとき、進歩もしましたが、一時期世俗的なことに染まって退歩もしたようです。次にペルシャに生まれ、このときもケイシーの過去生の人物と行動を共にし、「人や物や状況、環境に向けられる態度に多くの変化を促した」とされます。
 そして次に、イエスの時代、マルタとして生を受けました。このとき、「実用的な性格と信仰心」を養ったことが大きな進歩として評価されています。
「そのおかげで、今生では-夢想家でありながらも-集団の中にあってその人の“実用性”が人々から常に讃えられているのである。どのような実用的な考えも、実生活と調和していなければならない。このことは、当時もそうだったように、今も彼女のよりよき役目となっている」
 次にはイギリスに生まれ、チャールズⅠ世の一族の一人に生まれました。リーディングでは、一族の苦しむ人たちを助けることができたために、進歩を遂げたといいます。「また、もって生まれた霊的導きによって、接する誰に対しても精神的、霊的な援助を与えたのである」
 そして、ひとつ前の過去生は、アメリカのヴァージニア州の開拓民でした。「家柄を自慢する人間がたくさんいても、他人の成し遂げた偉業ではなく自分が人助けのためにしたことこそものをいうのだと理解している。圧迫してくる人々の振る舞いの下で後退し、圧迫した人々にさえ愛を保ったことで進歩した」
 また、現在の彼女について、リーディングは次のように語っています。
「一度作った友情の絆は、相手が自分から切り離さぬ限り、決して切ることはなかった。この人は時に(だいぶこのことは変えられてきているが)、憎しみは持たなくても、人から嘲笑されたことをなかなか忘れられない傾向がある」

 さて、以上をまとめて考察すると、まず、「人から嘲笑されたこと」をいつまでも根深く忘れないというのは、よくないようです。嘲笑されたことだけでなく、恨みのような感情は、さらりさらりと捨て去っていくことが大切なようです。
 さらにより前向きには、自分を迫害する人に対しても愛を持つことが重要であるということがわかります。
 そして、この女性をラストタイマーにした大きな要素は、「実用的な行動によって人を助けている」ことのように思われます。やはりここでも「人を助ける」ということが、他のケースと同じように重要になってくるのですが、このケースの場合、「実用的な行動」ということがポイントになっているようです。
 つまり、観念的な理想を追いかけるだけではなく、実生活と調和させながら実用的に考え、実用的な奉仕や人助けが大切ということのようです。

※イエスによって死から蘇ったラザロの姉であり、マリアという姉妹がいた。有名なエピソードとしては、マルタがイエスを家に迎え入れ、食事の用意などいろいろ働いている間、姉妹のマリアがイエスの説教に耳を傾けて何も手伝おうとしないと不平を言ったところ、イエスが、そうした雑事で思い悩むより、神の教えを聴くことを選んだマリアの方が正しいのだ、といった意味のことを言われた。
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地球卒業者の研究 | コメント:5 | トラックバック:0 |
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コメント

 大筋では同意です。しかし、雑事も心をこめて、マリアがイエスからありがたい教えを受けるのをサポートできたという喜びがマルタの中にあったならば、「私だけにおしつけて・・・」という感情は湧かなかったでしょうね。

 逆にいえば、マリアがありがたい教えを「私だけ成長したい」という気持ちで聞いていたならば、雑事に集中していたマルタの方が何倍もためになったでしょう。
2012-01-16 Mon 17:26 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ワタナベさん、コメントありがとうございました。
このマルタとマリアの話ですが、最初にこの話を知ったとき、私はマルタが可愛そうだなと思いました。今でもそう思いますが、イエスは、「人生は教えを聞くことを優先するべきだ」という教訓を伝えたかったのでしょう。
それはもっともなのですが、ワタナベさんも暗にご指摘のように、「人に奉仕する」ということも、霊的成長にとっては重要なわけです。正直なところ、このエピソードにはその点が見落とされているように思います。
確かに、雑事より教えを聞く方を優先するべきだと思いますが、真心を込めて奉仕することが、場合によっては、頭で教えを聞くより、愛を実践しているという点では、ずっと尊いことであると思うわけです。
私も、ワタナベさんのご意見には賛成です。




2012-01-16 Mon 17:36 | URL | [ 編集 ]
はじめまして。
信者じゃない自分がこの話を聞いても
聖人も、えこひいきするんだと思うだけです。
その時マルタはどう解釈したのでしょうか?
イエスの言う事を丸呑みして自分を納得させたのでしょうか?
イエスはもう少しマルタに感謝を表わす言い方をしてあげてもよかったのでは?
あなたとマリアはどちらも正しいのだと諭してもよかったのでは?
2012-01-16 Mon 22:12 | URL | タルト [ 編集 ]
「小鳥の歌」と言う本で、正確には覚えていませんけど、

ある子供が、祈りの途中で寝ている大人がいると父親に告げたときにその父親は
「息子よ、人の非を指摘するくらいならお前も寝ていた方が良かったのだ」
と言ったとのこと。
彼女ら二人の行為の善悪と言うよりも、自分が正しいと頑なに思い妹に対して憤慨している気持ちをイエスはたしなめたのでは?とも思います。
2012-01-17 Tue 13:48 | URL | nakatsu [ 編集 ]
斉藤啓一です。タルトさん、nakatsuさん、コメントありがとうございました。
お二人とも、もっともなご意見であると思いました。
ただ、聖書の記述は今から2千年も前の、しかも第三者によって書かれたものですから、このエピソードも本当にこの通りのものだったかどうかわかりません。かなり違ったものだった可能性もありますし、もしかしたら、このようなエピソードはなかったかもしれません。
ですから、このエピソードだけでイエスを評価したり批判することはできないと思いますが、いずれにしろ、考えさせられるものではありますね。
2012-01-17 Tue 22:23 | URL | [ 編集 ]

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