心の治癒と魂の覚醒

        

 故郷への道


 真の意味で「スピリチュアル」というのは、この物質世界を超えることだと私は考えます。ただしそれは「反俗」ではなく「超俗」という意味です。「反俗」とは、この物質世界を忌み嫌い、悪しきものとして嫌悪することですが、「超俗」というのは、ことさら忌み嫌い悪しきものとして嫌悪するのではなく、とらわれないと言いますか、無関心と言いますか、いわば、俗にあって俗に染まらないことです。これこそが、真の正しいあり方であると思います。しかしいずれにしても、物質世界に執着を持たないという点では同じです。なぜなら、この物質世界は、私たちの本当の住む場所ではないからです。

 ところが、「スピリチュアル」の名のもとに、この物質世界への執着を煽るようなものが、依然として後を絶ちません。本来、物質世界を超えるべきはずの「スピリチュアル」が、この物質世界の欲望を叶えるために利用されているのです。ベストセラーとなっている本などの大半が、この種の「スピリチュアル」です。
 真のスピリチュアルは、今日の一般的な大衆の人気を得ることは、まずないでしょう。真のスピリチュアルであれば、この物質世界を超えること、そのために(物質世界へ執着している)エゴの消滅を説くはずです。物質に執着しないこと、エゴを消滅させるということが、どれほど辛く厳しいものか、それを知ったら、ほとんどの人が避けて通るでしょう。見て見ぬふりをしたり、そんなものはスピリチュアルではないと考えたり、自分の都合のいいことを言っている本や人を捜し求めたりするでしょう。

 真のスピリチュアルとは、「イメージすれば人生は思い通りになる」とか「パワースポットの神社に行ってお祈りすれば願いが叶う」とか「お札を額に入れて飾っておけばお金持ちになる」とか「便器のふたを閉じておけば運がよくなる」とか、「ワクワク、るんるん気分で生きていれば幸運がやってくる」とか、そのようなものではないのです。もうそろそろ、そのような幼稚園レベルの「スピリチュアル」から卒業して、成熟したスピリチュアルの道を歩んでいくべきではないでしょうか。

 その成熟したスピリチュアル、いわば大学、大学院レベルのスピリチュアルというのは、結局、シンプルなことなのです。
 それは、いかなる苦難も受けてたち、それを通して人格を磨きあげ、同時に、自分を忘れて世のため人のために尽くす、そして、そのような生き方ができるようにと常に神に祈る、これだけです。
 これが覚醒への道であり、解脱への道なのです。その他のいっさいの難しい理屈などは必要ない、というか、このシンプルなことを理解するために必要なだけにすぎません。皮肉なことに、私たちの頭は妙に小賢しくなっているので、逆にシンプルなものが理解できなくなっているのです。ですから、シンプルなものを理解するために、わざと難しく説明されないとわからないのです。いえ、むしろ、ますますわからなくなったりするのです。最初からシンプルなことがわかれば、そんなものは必要ないわけです。

 本来の霊的な世界の至福に比べたら、この地上の最高の喜びと言えども、カスのようなものです。そんなカスを手に入れるために、一生懸命イメージしたり、わざわざパワースポットに行って長い行列に並んだりして、どうするのでしょうか。この短い人生を、物質的な物事を手に入れるためにあくせくして、どうするのでしょうか。
 それよりも、魂を浄化して人格を向上させることです。それがスピリチュアルな進化だからです。それはたいてい、辛い試練を通して為されます。しかし、それを耐え抜いた後に待っている至福の喜びを思えば、その苦しみを何倍も補っても余りあるものとなるはずです。
 真実というものは、しばしばこの地上の価値観とは正反対の姿をもって現れます。自称スピリチュアリストのなかには、「タクシーに乗りたいと思ったらタクシーが来た、どこもホテルは満室なのにたまたま空き室があった」などといった運の良さを自慢したりしていますが、私から言わせれば、そんなものはスピリチュアルでも何でもありません。
 実際にはまったく逆です。「何て運が悪いんだろう、なぜ、次から次へと問題や辛いことばかりやってくるんだろう」という人こそが、「運がいい」人なのです。

 地位も名声もない親のもとから生まれ、貧しく、献身的に愛を与えたのに、その見返りとして憎まれ、侮辱され、裏切られ、孤独となり、ついには処刑された、人類史上、最高のスピリチュアリストがいるではありませんか。物質的な視点から見たら、悲惨きわまりない彼の人生こそが、真のスピリチュアルの道なのです。真のスピリチュアリストは「運が悪い」のです。
 しかし、私たちはイエスとは違い、そこまでの苦難に耐えられるほど強く立派な魂ではないから、中途半端な、ほどほどの苦しみしかやってこないのです。だから、魂の喜びというものも、ほどほどしか与えられないわけです。
 世の中でもっとも幸運な人とは、耐えられる限りぎりぎりの苦しみや悩みを背負いながら、それに負けずに乗り越えて生きている人です。いわゆる「運がいい人」や「恵まれている人」を羨む必要はどこにもありません。なぜなら、そういう境遇で人格を磨くというのは至難の技だからです。人格を磨くことなく地上世界を生きている人は、人生の時間を浪費している人であり、まったく「不運な人」なのです。これが真実なのです。短い地上人生のために、永遠とも言うべき最高の幸せを捨て去っているのですから。
 イエスは言いました。「この世の者となるな、この世を旅する者となれ」と。
 私たちは旅人なのです。この世のいかなるものにも執着せず、シンプルに「故郷への道」を歩んでいこうではありませんか。
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求道者の慰め | コメント:7 | トラックバック:0 |
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コメント

 おはようございます、斉藤先生。すばらしい内容で、感動しました。イエスがスピリチュアリストとは、考えてもみませんでした。彼の人生は素晴らしい「型」ですね。苦難に見舞われる魂は霊的レベルで見習っているのかも。

 ただ、私はこの世界もまた「故郷」と思っています。世界とは多分に不可分なもので、光の次元・存在に昇華したとしても、世界と一体であるから、闇も見えている、つまり、物質世界で苦難と快楽両方が見えている状態の延長というか、進化であると。

 自分だけ覚醒して天国のような世界に行けるなどと考えない方がいいですね。縦にスライドするだけで、見えている世界の次元が変わるだけだと私は考えます。今いるこの世界での行動も非常に重要なんです。
2012-02-05 Sun 09:36 | URL | ワタナベ [ 編集 ]
斉藤啓一です。ワタナベさん、コメントありがとうございました。
やはり、イエスは私たちのお手本だと思います。そして、この地上の価値観と霊的な価値観(真実)とは、しばしばまったく反対であるとも思います。
自分だけ天国にいければいいというのは、ある種のエゴだと思います。ですから、人々に一緒に天国に行きましょうと「お誘い」することが、この地上での生き方ではないかと思います。
ただ、そのための「準備」ができていない人には、いくら言ってもわからないように思いますし、強引に接するのはよくないと思います。残念ながら、それは仕方がないことだと思うのです。
2012-02-05 Sun 10:34 | URL | [ 編集 ]
オクです。斉藤先生お久しぶりです。お元気でしたか?

相変わらず辛口な記事内容でしたので(笑) 思わず私もコメントをしたくなりました。


以前、斉藤先生とメンさんの対話の中で瞑想の目的は「感情のコントロールにある」という話しが確かあったかと思います。

ではどう感情を意図して盛り上げていけばいいというのでしょうか。

是非とも一緒に天国に行きたいところですね(笑)


2012-02-07 Tue 11:02 | URL | oku [ 編集 ]
斉藤啓一です。okuさん、コメントありがとうございました。
私としては、「辛口」とか「甘口」といったことではなく、事実(であると私が考えること)を、ただ淡々と語っただけなのですが。
それはともかく、感情を意図的に盛り上げるにはどうすればいいかということですが、問題は、どのような感情を盛り上げるのか、また、なぜ感情を盛り上げたいのか、何のために感情を盛り上げたいのか、ではないかと思います。いうまでもなく、それが煩悩的なものであれば、好ましいとは思われません。
私は基本的には、いかなる場合でも、静かな感情を維持し、静かな感情で行動すればいいのではないかと思います。もちろん、これは鈍感だとか、ニヒリズムだとか、シラケといったものではありません。静かな愛の感情といったものではないかと考えています。ことさら盛り上げる必要はないと思うのです。
2012-02-07 Tue 11:23 | URL | [ 編集 ]
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2012-02-07 Tue 18:29 | | [ 編集 ]
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2012-02-07 Tue 19:35 | | [ 編集 ]
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2014-07-18 Fri 22:20 | | [ 編集 ]

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