心の治癒と魂の覚醒

        

2.自制

 自制とは、目的を成就するにあたり、その妨げになるような欲望に影響されず、理性的に自分をコントロールすることです。
 たとえば、受験に合格するという目的を成就するためには、遊びたいという欲望に抵抗して勉強しなければなりません。健康になるためには、酒を飲みたいという欲望に抵抗して禁酒しなければなりません。こうして目的を妨げる欲望を支配するのが自制です。もし欲望に支配されてしまっては、どんなことも目的を成就することはできません。
 きわめて当たり前のことですが、私たちは欲望に振り回されて失敗することが少なからずあります。とくに気を緩めたときに、あっさりと支配されてしまったりします。欲望は、私たちのそうしたスキを狙っているとも言えそうです。人生においても、霊的修行においても、つまずきや失敗を招く大きな原因のひとつは、欲望に支配されて不適切な行動をしたことにあることが多いのです。ですから、自制の美徳を養うことは、余計なトラブルを生じさせないという意味でも、大切なことではないかと思われます。

 覚醒という点では、自制の美徳は、物質的な事柄に対する執着をなくすために必要です。欲望というものは、満たされれば消える場合もありますが、満たせそうとすればするほど強化される場合もあります。いわゆる依存症や中毒といった状態にはまりこんでしまうのです。一度そういった状態に陥ってしまうと、そこから立ち直るのは容易ではありません。かなりのエネルギーが必要となります。麻薬中毒の人や、性犯罪者の再犯率が非常に高い理由も、ここにあるのかもしれません。結局、欲望というものは自由を奪ってしまい、私たちを見えない縄で縛り上げるようなものとなるのです。
 ですから、深入りして溺れることのないよう、自制することが大切になってきます。最初は自制などという禁欲的で消極的な態度は人生をつまらなくさせてしまうように感じるかもしれませんが、実際には反対で、よりすばらしい幸せを得ることにつながるのです。たとえば、タバコを吸わない人は、タバコを吸う人よりも人生が味気ないでしょうか? むしろ逆ではないでしょうか。タバコを吸わない方が健康で元気になり、お金もかかりません。それだけより有意義なことができるわけです。

 といっても、いきなり物質的な欲望(執着)を捨てることは難しいでしょう。無理のない範囲で少しずつ捨てていくようにすることです。もちろん、社会生活を送るために必要な節度ある欲望は否定すべきではありません。問題は、霊的な成長を妨げないことにあるわけですから、霊的な成長の妨げにならなければ、欲望を持ってもよいわけです。言い換えれば、欲望に依存しなければよいのです。人生の無常により、その欲望が満たされることがなくなったとしても平安でいられるのであれば、その欲望に依存していないことを示しています。しかし、もしその欲望が満たされなくなったら平安でいられなくなるとしたら、それは依存状態であることを示しています。自制の美徳により、そうした欲望から少しずつ解放されるようにしなければなりません。さもなければ、それは霊的成長を妨げ、やがてはその欲望によって苦しみが与えられることになるからです。
 霊的世界を上昇していくには、物質的な事物に対する執着を捨てなければなりません。しかし物質に未練があれば、なかなか執着を捨てきれないでしょう。
 霊的な世界は、想念がそのまま現象化しますから、物質的なものが欲しいと思えば、(物質そのものではないとしても)欲しいものがすぐに手に入ることになります。そのため、いつまでも「物質的な霊的世界」のなかに住むことになります。そこから脱してより霊的な世界に上昇するには、物質的な欲望を自制する力を鍛えなければなりません。
 しかし霊的な世界は、いま述べたように欲しいものは手に入りますから、自制心を鍛えることはできません。つまり、「欲しいのに手に入らない」という負荷がないと、自制心は鍛えられないのです。
 そのことを知って、魂は地上世界にやって来るのです。そこで、物質的な物事を味わい尽くして「あきあきする」か、あるいは「欲しいのに手に入らない」状況を経験して自制しなければならないようになるか、あるいは、「手に入れようとすれば手に入るが、より高い目的のために自制心を働かせて我慢する」という状況を経験するわけです。
 私たちがこの地上世界において、さまざまな欲望に振り回され、悩まされ、葛藤させられるのも、その理由のひとつは、自制の美徳を鍛えるために魂が計画したからです。このことをよく理解しないと、「欲望を何でも叶えることがよいことなのだ」という間違った思い込みをしてしまい、本来の人生の目的から大きくそれてしまう危険があります。地上で経験する欲望というものは、それを叶えるためにあるのではなく、支配(コントロール)するためにあるのだということを忘れないことが大切です。欲望に溺れることも、いたずらに禁欲することも、正しくはないのです。
 自制の美徳は、仏教的には、いわゆる「煩悩」の消滅という意味があります。物事に対する執着を捨てるわけですが、しかし、これは単なる「我慢」ではダメなのです。もちろん、ある程度は我慢することも必要でしょう。しかし、我慢というのは抑圧を意味しますから、抑圧された欲望は別の面で、しかも病的に解放されてしまう可能性があります。ですから、単なる我慢ではなく、欲望にとらわれなくなる、欲望が消失する(正確に言えば、そのエネルギーをより高次の目的に昇華させる)ことが目標として掲げられなければなりません。それは、8つの美徳のうち、他の美徳との連係プレーによって達成されていくのです。
 すなわち、8つの美徳というのは、互いに独立したものではなく、相互に支え合い補い合っているものなのです。ですから、自制の美徳の実践だけで自制の美徳が養われることはありません。他の美徳を動じ並行的に行じてゆくことで、自制の美徳が養われていくのです。いずれにしろ、美徳というものは、総合的に養い育てていくべきものなのです。
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